善性

窓からぽつりぽつりと、降り注ぐ。その降り注ぐ全ての美しさに、にっこり、微笑んだ。


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華族の子女たちが通う学修院の衛生室には、衛生医というには少々······言葉を選んで言うのならば、若々しい青年がいる。癖のある髪を下方刈り上げ、銀縁の丸眼鏡をした、いつでもにっこり笑っている男である。まだ若い。カフェーで女給遊びでもしていそうな風である。無論学校に所属する衛生医であるから、そんなことはたまにしかしない。パリッとしたシャツに緩く前を開いた着物、白衣は大層男に似合っていた。名を、九條壮吉くじょうそうきちという。壮吉は一人で居ようとにっこり笑っていた。にっこり笑って、お茶を啜る。時々ヤンチャな生徒が怪我をしたといって転がり込む。それに消毒液をかけてやって、綿紗をピッタリ貼ってやる。衛生室は学修院の男子部と女子部の中間にあった。時々恋に飢えた女子生徒がキャアキャア言ってチラリとドアから顔を覗かせる。はしたなく話し掛けて来たりはしない。そのなかで話しかけてくる生徒は、悩みがある者が多かった。青い悩みだ。若々しい。どうも壮吉は、そんな生徒たちが可愛くて可愛くて、可愛くて仕方なかった。どんな生徒も青く、愛おしい。だから壮吉はいつもにっこり笑っていた。

壮吉は可愛らしいものが大好きだった。可愛らしく、綺麗で、無垢なものを愛でるのが大好きだった。幼い頃、壮吉の妹が人形を与えられているのを見て、何故自分には与えて貰えんのだろうかと、ひっそり、考えたこともある。結論、男だから人形は必要ないとのことであった。遺憾である。壮吉は美しいものを愛でるのに男女の別などないと、考えていた。周囲に理解されるとは思っていない。心の内で、こっそり、思っていたのである。

壮吉は正しいこともまた大好きであった。生まれてこの方悪どいことをした事がない。学生時代に、級友の男どもが遠足中巫山戯てドブに落ちようが煙草を覚えようが、壮吉は染まることなく、悪いことは悪いと、知っていた。一度もしなかった。周囲からの覚えは常に良かったと思っている。だからと言って莫迦な級友を正そうとはしなかった。彼等にとって、一度失敗し、叱咤されることもまた、正しいことだと思っていたからである。優等生ではあるが偉ぶって小言を言ったりしない壮吉は、友人は多かった。成人してから会わなくなった同窓生も多い中、壮吉の周りに侍っていた友は今でもよく交流することがあるのであった。


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昼間はカフェーとして生きる「パピヨン」は、夜になると別の顔を見せる。カウンターの向こうで主人が、大中小様々な瓶が立ち並ぶ棚を背に、酒を出してくれる。壮吉が麦焼酎を呷る隣には同窓生がいた。過去にドブに腰まで突っ込んだ莫迦である。名を、猫柳左門ねこやぎさもんと云う。革色のベストに黒のネクタイをした男で、髪はチョコレイトのような色をしている。壮吉に負けないくらいの癖毛で、足癖も悪い。今も片足をスツールに乗り上げて、もう片方の足をプラプラとさせていた。左門は学生時代、週に一度は莫迦をやらかしたが、これがどうしてか座学の成績は良かった。壮吉の次の次くらいである。薬屋の倅で、衛生医をする壮吉と相性が良かったのやもしれぬ。今でも酒を酌み交わすことが多かった。

「俺はさぁ、才能に溢れているからさぁ、生きるのだけがヘタクソなんだよ」

酔った左門はいつもそう云った。ハハハ、そうかいそうかい、と壮吉は笑ってやっていた。酔っ払いなど、どうせ真面まともな返事を求めているわけではないのである。壮吉はそれをよく知っていた。返事を求めているだけならいくらでもくれてやろうじゃないかと思っていたので、いくらでもくれてやっていたのである。壮吉は優しい男であった。

「ア、主人、どうしたァ。顔が蒼いぜ」

赤々とした顔で左門が問うた。壮吉はにこりとした顔でカウンター越しの主人を見た。白髪混じりの黒髪はポマードできっちり固められていて、今まで笑った数だけ刻まれてきた皺はまなじりに集中している。いつも壮吉たちが呑むときには穏やかに細められている目が、今日はどうにも険しく見えた。薄く、皺があり、少し皮の剥けた下唇を噛んでいる。主人は女給を数人雇っているだけで、昼も夜も店に出ずっぱりだった。これはきっと疲れてしまったに違いないな。壮吉は思った。

「なァ、辛気臭ぇツラしてちゃ酒が不味いぜ。主人」

「······すみませんね」

「なんだよ声まで辛気臭ぇじゃねぇのよ」

カカカと左門が笑った、主人も呆れたように口角を上げた。

「何かあったんです」

「ああ、······女給のひとりと連絡が取れませんで。それで」

「フゥン、誰だよ」

「おテイちゃんです」

「テイィ?」

その子の出勤は昼間が殆どだから、あんたさんらは知らんでしょうと主人は云った。左門は知らない名前に興味を無くしたように芋焼酎を呷った。吐く息が臭いので主人に水を頼んだ。堂々としたそれに左門は恨みがましい目を壮吉に向ける。壮吉はにこりとしていた。

パピヨンに限らず、最近のカフェーでは、夜には女給がほんの少しだけお喋りをしてくれる。パピヨンはそれを売りにしている訳ではないので、本当にほんの少しだけであるが、ここにはそれ目当ての下品な目をした中年どもがいないだけ、清々しい空気が流れていた。通う男が多くなるのは、夕方、学生たちが駄弁って帰って、夜に入りかけの頃だった。壮吉は別に就業に支障をきたさぬ程度の遊びは悪いこととは思っていないので、たとえ学校勤めであろうと、たまには遊べるカフェーに隣の男を連れて行くのであった。遊んだことのある女なら、マァ、それなりに名前は覚えているが、そうでもない女なら頭の片隅にも置かないので、テイと云う女も知らないなら、自分と関係がないなと、話はそこで終わったと思った。

「オア、そういやァ、最近そこらの青年がいなくなることが、多いとかなんとか」

「なんだい、ハッキリお言いよ」

「ジジイが言ってただけだからよォ。女給もそれなんじゃねェの」

左門がたまに店番をする薬屋は、商店が立ち並ぶ通りの、ずっとずっと奥にあったが、生薬を扱うその店の客入りはそれなりに多い。若い左門が番をするといい歳した姉様方が来る。爺さんや左門の父が番をしても、たまにガッカリされながらも客が来る。人が来ると云うことは、お喋りな口もついてくると云うことである。まだ未来ある青年が居なくなることが多いというのは、噂好きの姉様方のいい餌なのであった。衛生医である壮吉にはあまり関係ないが、学級を受け持つ先生方は、注意喚起に忙しいだろうなと思った。壮吉の仕事は、定期検診と簡単な治療、たまに青い相談事を聞いてやることくらいであった。


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そして、ヨシという生徒がいなくなったことが学修院に務める人間に通達された。女子部の生徒であるらしかった。壮吉はその生徒をとてもよく知っていた。ヨシはよく衛生室に現れては壮吉に可愛らしい相談事をしていた。その相談事は、別に居なくなりたいとか、息を止めてしまいたいとか、そういう類ではなかった。ただ、好きなひとがいるけど、先生、わたし、どうしたらいいかしらとか、そういうものであった。衛生室の利用履歴からヨシが通い詰めていたことが分かったときにそのことを明らかにすると、他の先生方は頭を抱えるのであった。このときばかりは、壮吉は口を真一文字にして、真剣な表情を作った。にこりとした表情は雰囲気にそぐわないと考えたのであった。学徒がいなくなってしまうことは、多くはないにしろ、ないわけではなかったので、年嵩の先生が警視隊に任せましょうと云ったところで、壮吉は役割を終えた。この年頃の女学生は恋に恋して駆け落ちすることもあるし、男はいつでも莫迦な生き物なので何をしでかしても可笑しくないのである。歴の長い教員はなんだか諦念を背負っているように見えた。


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お前の名の中心には、嘘があるな。

そんなことを云われたのは、学生時代の折であったが、名は体をあらわす。今になってまさにその通りだと壮吉は思った。自分にはウソを含むこの名前がとてもよく似合っている。これ以上にシックリくるものもない。壮吉は氏を含めて自分の名をいたく気に入っていた。

壮吉がヨシと出会ったのは、夕刻、学修院も放課後となった頃であった。夕立かと思ったがそこまで強くもなく、なかなか止まぬ雨が降っていた。窓を開けてサァサァと降る雨音を耳にしながら、壮吉は湯呑みで指先を温めていた。窓のさんを越えて雨粒が、ぽつり、ぽつりと室内を侵していた。それを何も考えずに眺めて、ぬるい茶を啜っていた。そのとき、自身のたてる音ではなく、窓の外から、何かを啜るおとが聞こえた。それは人が、啜り泣くおとであった。

「そこで何をしているんだい」

壮吉は努めて優しく声を出した。啜り泣きはヒクッという声で打ち止められ、そこに学徒がいることが分かった。髪の長いひとであった。横で三つ組に編んだ髪を後ろで一纏めにしている。麻柄のリボンが可愛らしいと思ったし、それはその学徒にとてもよく似合っていた。まさに、壮吉の思う、美しいを体現していたのであった。その学徒は、女生徒のように見えた。自信などこれっぽちもないと云うように背を丸めて、肩を前に窄めていた。窓の下にしゃがんでいるが、低いところで腰紐を結んでいるのが見えた。ハッと顔を上げて、可愛らしい顔が見える。頬はほっそりとして、喉の作りはしっかりしていたのが分かった。

「ア」

声を零した。少しだけ低いが、まだ可愛らしい声だった。弱々なよなよしい様子ではあるが、体つきは、何故だかこの学徒から、頼りない感じはしなかった。

「どうしたんだい、君」

「ア、わたし、わたしは」

学徒はただうろうろと目を泳がせて、壮吉の目をジッと見詰めると、拳をぎゅ、と握った。

「先生、聞いてくださいますか」

ぽつりと呟かれた言葉は、ぽつりと床を跳ねる雨粒よりも透き通っていて、その美しさに、壮吉はにっこりと笑った。

ヨシは週に一度、壮吉のもとを訪れた。その度に若々しく、可愛らしい相談をしていくものだから、壮吉はいつにも増してにこにことしてしまった。ヨシは壮吉の気に入りの学徒となった。


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壮吉が気に入った女生徒は学友たちからヨシちゃんと呼ばれていた。名には美しいという字が含まれ、それをヨシと読む。やはり名は体をあらわすのだと壮吉はウンウン頷いた。彼女は美しく、そして「よい」生徒でもあった。容儀の素晴らしさ、座学の成績、どれをとってもまさに「良し」と言わざるを得ない。

教員にとっての理想を、さらに理想で塗り固めたような生徒であった。

あるとき、今では何の話をしていたかを壮吉は忘れてしまったのだが、ヨシがこう言った。

「このまま、美しくありたい」と。

なるほどなるほど、ならば叶えてやらねばならぬと壮吉は思った。美しいと云うものはとても善いことだ。見ているだけで幸せになれるし、そこに在るだけで価値がある。他の人間がどう感じようと壮吉には関係なかった。壮吉が美しいと思ったものは総じて、壮吉の人生に於いてとても美しい、彩りを与えてくれるものであるからだ。だが、この美しいものを、美しいと感じられぬ人間は、愚かで、可哀想で、損をしているなと思うのであった。壮吉は過去に与えられなかった美しい人形が、今になって、自ら、自分のもとに来てくれたのではないかと思った。壮吉は嬉しくて嬉しくて、にっこりと笑った。

「ひとは、ずっと美しくはいられないものだがね」

「分かっています、先生」

「きみは頭のよいこだね」

「そうでしょうか、先生」

「そうだとも」

聡明で、臆病で、奥ゆかしく、未だ性の匂いを感じさせないあどけなさもあり、だのに美しくありたいという欲に溢れている。それがとても不安定で、とても美しいと感じた。肩から流れる黒絹も、羽ばたきを見せる睫毛も、全て、全て美しい。壮吉は人生の最たる幸せは今このときではないかと感じていた。

湯のみの輪郭をなぞる。向かいでヨシはイジイジと湯のみを弄んでいた。ヨシは褒められるのに慣れていないようだった。なんて愛らしい。

「美しくいたいのなら、美しいものを見て、美しさを学べば良いのだよ」

「美しいもの」

「わたしの屋敷にはね、美しい人形をたくさん置いているんだ」

「まぁ」

「今度見に来るといい」

「先生、可愛らしいご趣味をしてらすのね」

「よく言われるよ」

ヨシはうふふと笑っていた。可愛らしかった。壮吉は美しいものがより美しくいてくれるのが嬉しかった。これ以上美しくいてくれるのならそれが一番だが、難しければ今のまま居てくれれば充分だと思った。


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「見事なものだろう、独りで暮らすと、こういう自由があっていいね」

壮吉の書斎には、本棚に、本の合間合間に、至る所に人形が置いてあった。細い目をしたおかっぱの、真っ赤なべべを着せられた日本人形や、レエスのたっぷりとしたドレスに飾られたドールまで、たくさん、置いてあった。

壮吉の屋敷からほど近い、商店が立ち並ぶ通りの中に、キセン堂という人形店があった。壮吉がよく通っている店だった。おっかない顔をした老婆が店の奥の奥で番をしている。色んな国で集めてきたと云う、見たことの無い人形まで揃えてあった。壮吉に見覚えがあるのは、昔妹が与えられていたのも、所謂日本人形程度で、ドールなんかは物珍しさから手に入れた物だった。中にはトンチキな化粧をしている物もあったが、壮吉の求める美しさではなかったので、フゥン、と思うに留めた。店には人形用の反物があって、空いた時間に貰い子たちのべべを作るのが楽しかった。

「先生、可愛らしいですのね」

「ここまで来るといっそ女々しいと言われるがね」

細い目で、夜にはいっそ不気味に見える人形に、あえて西洋のドレスを仕立ててやるのも、金糸に映える藍色の着物を仕立ててやるのも、実に楽しくて、嗚呼、なんて人生は美しいんだろうかと思えた。

壮吉は特に、女の人形に男の着物を、男の人形に女の着物を着せるのを愉快に思っていた。なんで男は男で居なくちゃいけない。なんで女は女で居なくちゃいけない。似合う着物を纏った姿が何よりも、何よりも美しいと云うのに。

無論この思想も、周囲に受け入れられるものでないので、壮吉は己の内に秘めていた。ヨシには話した。ヨシは、壮吉に、己の一番深いところに眠らせた秘密を教えてくれたのである。壮吉は相応のお返しをするのが筋だと思っていた。

「先生、わたし、男の子の着物が着てみたいわ」

壮吉はヨシがもっと美しくなってくれることが嬉しくて、にっこり、笑ったのだった。


**


壮吉の気に入りとして覚えがある可愛らしい學徒の可愛らしい友垣は、ヨシがいなくなってから、壮吉の城とも言える衛生室を訪ねてきた。そして壮吉に尋ねた。

「ヨシちゃんはどこに行ってしまったのでしょう」

壮吉はこう答える他なかった。

「分からないね」

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