三節 銃と珈琲

1-1


 着地を失敗した。


 恐らくは深夜、寂れた路地裏。レイジはなぜか、空中から落ちる羽目になった。一列に置かれたゴミ箱群へ一直線に墜落し、蓋を盛大に凹ませる。魚の骨が飛び出した。驚いて逃げ去ったのは、鳴き声からして猫だ。


 とっさに仰向けの体制へ変えておいてよかった。暈人にとって、人体部分の怪我は掠り傷以下だ。どんな物理的な怪我をしても、人体だろうが服飾品だろうが即座に修復される。それでも、だ。背中や首をしたたかに打ちつける方がマシだ。痛みや感覚自体が消える訳ではないので、墜落直後はかなり痛かった。その上ゴミ箱に顔を突っ込みでもしたら、間違いなく最悪な気分になる。少なくとも、レイジは。スーツやコートが汚れるし、眼鏡にヒビが入るかもしれない。

 触れてみると、眼鏡はやはり無事だった。そばにエテルの姿はない。誰かが様子を見に来る気配もない。なので情報収集がてら、正直にいうと休憩がてら、夜空を眺める事にする。


 久しぶりの仕事だったからではない。レイジは着地が、さらに言えば飛行もまだ下手だった。サンフォスにこんなに小さい子、と呼ばれても仕方ない。と言うか、事実そうなのだろう。暈人基準では、満足に二足歩行できない赤子そのものだ。


 レイジが頭を動かすと、視界の端に屋根が入って来た。裏側から見た屋根の作りに、なんとなく親近感を覚える。

 小都会の路地裏。湿気のある涼しい空気に包まれながら、いつの間にか鳴いている小さな虫達の声を聞く。それらはレイジに、かつて住んでいた故郷を連想させた。つまり、どこかの地球の温帯気候の島だ。レイジは突然に思い出した。島の名前は出てこない。人間だった頃の情報は、特に固有名詞は、長い年月の内にひとつずつ抜け落ちていた。この頃かなり少なくなったと思っていたが、思い出せるものがあるとは。レイジの口元が自然と綻ぶ。不思議と確かに、懐かしい。懐かしい場所と、よく似ているのだろう。この三十六番地球が。



 虫達の合唱が、止まる。


 遠くの方で、地響きがした。少し揺れて、数秒後にまた少し揺れる。その度に壁がびりびりと震える。地震ではない。巨大な存在が歩いているのだ。残念ながら、のんびりしている暇はないと悟る。大きい個体に遭遇したのは何度かあるが、これほど大きいのは初めてだった。


 要請:意識領域拡張

 《承認。知覚可能次元を一段階解放》


 レイジは勢いをつけて上体を起こし、そのまま地面へ着地する。音の方向を確認した後、できるだけ身を小さくしてゴミ箱の間に隠れる。

 大事な事を忘れていた。頭の上へ手を翳し、制御輪に迷彩をかける。元々光っているし、興奮によって光が増してしまう。レイジは表に出やすい方だったので、特に隠す必要がある。今、この敵に見つかっては危険だ。今さら移動を始めるのもリスクが高い。


 そう、敵だ。暈人達は、彼らを崩壊体と呼んでいる。黒い靄のような人影で、顔は真っ暗だ。制御輪の文字はいつまでも安定せず、激しく歪みながら直径の拡大と縮小を繰り返し、上下に左右にがたつきながら回転し続けている。正常な制御輪を知っている者は、不安になる挙動だ、と表現する。影の大きさは人くらいのものから、今回のように巨大なものまでいる。こんなものがいるとは聞いていない。


 足音が近づいて来る。地響きによる揺れを更に大きく感じる。やはり、十数メートルはありそうだ。レイジは、はみ出していた靴先を急いで引っ込めた。その際に見つけたビニールシートを、これ幸いと引き寄せてかぶっておく。うつ向いて、体を更に丸くする。全て隠そうとすると、やはり窮屈になる。背が高いのも考えものだ。


 崩壊体はすべからく、魂を見つけると襲いかかって来る。己以外の魂を食らい、霊魂情報の破損を修復するためにだ。だが制御輪が不安定のため、いくらやっても成功する事はない。不毛な試みを繰り返し、いよいよ制御輪が全壊すると、宇宙の藻屑となってしまう。最初に肉体を失い、霊体を損傷し、自他の境界を見失い、最後に全てを失うのだ。

 崩壊体に、科学兵器や物理攻撃は効かない。暈人が祈りを込めて攻撃すると、強制的に魂の源流に送り返す事ができる。だが、無理だ。レイジとあれでは力の差がありすぎる。落ちこぼれのひとつ輪では、歯形のひとつもつけられない。あれだけ大きくなるのに、どれほどの魂を食らったのか想像もつかなかった。まだ霧散していないなら、相当に強靭な制御輪の持ち主なのだ。感心している場合ではないのだが、逆に冷静になってきた。


 息遣いじみた不気味な音が、上から降ってくる。どうやらこちらを覗き込んでいるらしい。途端にレイジは、逆に冷静になってきたなどと思えなくなる。人間誰しもそうなるはずだ。いや、今は暈人だが。制御輪に迷彩がかかっているかを、意識だけで確認する。

 大丈夫だ。まだ見つかっていないし、気配のほとんどを消せている。物理的な体温も、呼吸の必要性も、鼻水や汗が垂れる心配もなくてよかった。精神的には息を止めているのでなんとなく苦しいが、あくまで気分的なものだ。気のせいだ。後は、恐怖が念話の形で漏れさえしなければ。


 歪んだ魂の、重苦しい圧がやや遠ざかった。しかし、崩壊体はまだレイジの方を見ている。嫌な沈黙が横たわる。そう言えば、顔の部分をあまり見つめてはいけないと、教官にしつこく忠告された記憶がある。理由は分からない。そこまでは教えてもらえなかったが、ろくな目に合わないに違いない。気が遠くなる。



 目を閉じたら見つかるのではないか。瞳を動かしただけで、唇を少し動かしただけで、見つかるのではないか。見つかったら食われてしまう。ここで終わりたくない。


 数秒後、巨大な崩壊体はようやく移動を再開する。小さなレイジを見つけられなかったか、食いでがないため興味を失ったかは分からない。とにかく命拾いをした。いや、魂拾いをした、と言うべきか。危険がなくなるまで、レイジはそのまま縮こまっていた。





 微睡みの中でレイジは、小鳥の鳴き声を聞いた。いつの間にか意識が途切れていたらしい。さすがに敵は、十分遠ざかったはずだ。レイジは恐る恐る、ビニールシートから顔を出した。念のため辺りを見回す。恐ろしい気配はどこにもない。非日常があったとは思えないほど、平和な路地裏だ。レイジは思い切り脱力してしまう。気が抜けたついでに制御輪の迷彩が解けた。脱力するのに、思い切り、と表現するのも妙な話だが。


 とは言え、あまりのんびりしている暇はない。ここへは大事な任務で来ているのだ。迷える魂を探さなければ。立ち上がって、丁寧に服の汚れを落とす。両頬を軽く掌で叩き、気分を切り替える。上を見上げれば、すっかり陽が昇っている。東の方が眩しい。崩壊体が掴んだのだろう、屋根が大きな手の形に凹んでいた。気味が悪い。

『レイジ、無事かい?』

 エテルからの念話だ。他者が送ってきたチャンネルに入るなら、声量を気にしなくて済む。ご存じの通り、レイジは念話が下手だったので。

『無事』

『よかった、やっと目が覚めたか。ヤバそうなのがいたね。夜が明けるまで、念話が送れなかったんだ。そいつに見つかると非常にマズいから』

『エテル』

『うん』

『怖い』

 言ってしまってから、レイジは眉間を指で押さえた。文句のひとつでもつけてやろう、と強く思っていたのだが。念話をする時は注意していないと、考えがそのまま出てしまう。

『否定 否定』

『恥じる事はない。私だって怖かった。遠くからでも、とんでもない気配だったね』

 エテルは真面目な声色で同意した。幸い敵とは距離があったので、隠れながら観察していたと言う。あれだけ大きければ、遠くからでも見えただろう。

『あんなのがいるなんて、おかしいよね。こっちに回す任務、取り違えたんじゃないかなあ』

 エテルが口を尖らせているのが、手に取るように分かる。任務地には入ってみないと分からない事もあるため、イレギュラーがないとは言えない。まあ、多かれ少なかれ想定外が発生するのが常だ。


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