第30話 カッコよく


 それからあたしは、惰性で仕事を探すのをやめて、自分のやりたいことを模索することにした。そもそも人は働かないと生きていけない人生半分損しているようなバカな生き物なので、あたしも例に漏れることなくバカみたいに生きていかなければならない。


 接客業は丁寧な言葉遣いが苦手なこともあって向いていないと思う。一度経験した製造業は、手元に神経を注いでいると次第に頭が狂いそうになるから却下。汗水流して働く肉体労働は、おそらく母親に反対されるのでそれも候補から外した。


 消去法で選んだのは、学校の先生だった。元々父親が高校の教師だったこともあって、昔からいいなとは思っていた。


 ただ、教師になるには大学を卒業してからでないといけないらしい。高校教諭に固執しないのであれば短大でもいいと、あたしが相談を持ちかけたとき、父親は興奮気味に教えてくれた。


 働きながらなら通信制大学でもいいし、金のことなら心配するなと、もう子供じゃないあたしに、父親も母親も、手を貸してやれることが嬉しいとでもいうように結託していた。


 思えば、あたしは小さい頃から将来の夢を語ることはあっても、それに向けて頑張ったことはなかった。親はそんなあたしを見て、健康でさえいてくれたらいいと、謙虚な親心を抱いていたのかもしれない。


 あたしがあたしのしたいように生きるだけで喜んでくれる人がいる。その事実が、いやにくすぐったかった。


 そんなこともあって、あたしは来年の入学試験のために猛勉強を始めた。


 学生時代まともに勉強をしてこなかったあたしだから、勉強とはなにをするものなのか分からずに、頭を悩ませながら教科書の角を噛むような日々を送っていた。夏から秋へ、秋から冬へ。季節の移り変わりはあたしの思っている以上に早かった。このままで本当に大丈夫なんだろうかと、不安もあった。


 そんなとき、あたしを助けてくれたのは小枝だった。小枝は仕事が終わると毎日のようにあたしのアパートまで来てくれて、勉強の仕方を教えてくれた。


 小枝の教え方は丁寧で、それでいて無駄がなかった。こんなことを毎日やっていたのか、と小枝を尊敬の眼差しで見ていたら、小枝は恥ずかしそうに謙遜した。


「コーヒー入れたよ、兎羽ちゃん。もう二時間経つけど、休憩しないの?」

「人間さ、頑張ろうって思ってもそのとき頑張れるわけじゃないでしょ。頑張ろうって思った日もいびきをかきながらぐーすか寝なきゃいけないんだから、起きてるときに頑張らないとすぐ明日がくる」

「そうだけどっ、でも、頑張りすぎてもよくないよ。勉強ってたくさんすればいいってわけじゃないの。お母さんも言ってたけど、小休憩を挟みながらのほうが頭もスッキリするし、効率もいいよ」


 今日もこうして、小枝はあたしの部屋に来ていた。金曜日の夜ということもあって、小枝のテンションも少し高いように見える。


 小枝の持ってきてくれたマグカップからはコーヒーのいい香りがして、それだけでも目が冴えるようだった。あたしは小枝の言うとおりペンを放り投げて、後ろのソファに寄りかかった。


「すっごく集中してたね。邪魔するのも悪いかなって思って声かけるの迷ってたんだけど。兎羽ちゃんずっと同じ姿勢だからよくないなって思って」

「そういえば肩と首が痛い。あと、脚が痺れて、しびっ、いたたた!」


 ツーンとするような痛みに、顔を歪める。


 落ち着いてから一息吐いてコーヒーを飲むと、独特の苦みに混じったまろやかな甘みが舌を優しく撫でていく。


 なんだこれ、とあたしがジッとマグカップに浮かぶ茶色の水面を眺めていると、小枝が横から「チョコレートだよ」と言った。


「さっぱりした味で糖分を取ることができるから、勉強するときにすっごくいいの。私のお母さんもよく淹れてくれたんだ」

「そうなんだ。でも、たしかに美味いね。飲みやすい」


 喉が渇いているときなら、一気飲みしてしまいそうなほどだった。


「私ね、お母さんがどうしてあんなに厳しくするのか分からなかったの。でも、こうしてお母さんが教えてくれたことが役に立ってるのなら、あのときの頑張りも無駄じゃなかったんだなって思う」

「親の考えてることって分からないよね。優しいんだか厳しいんだか。急に優しくされると思わず身構えることもあるし」

「だよねっ、私も最近そういうことあって、ビックリしちゃった。兎羽ちゃんが入院してたとき、私結構遅くまでいたでしょ? お母さん門限にすっごく厳しいから絶対怒られるんだろうなって思ったんだけど、お母さん何も言わなくて。遅くなってごめんなさいって私から謝ったら『たまにならいいわ』だって。私ビックリしちゃった」

「へえ、あの毒親が」


 昔から小枝を縛り付けていたあの親がそんなことを言うなんて、信じられない。けど、人の心というものは、きっと年中同じではいられないのだろう。


 何年経っても変わらないままのほうが、異常なのだ。


 今のあたしの心も、価値観も、趣味趣向も、十年後には変わっているのかもしれない。そう思うと、少し期待してしまうあたしがいた。


「私も飲もっと」


 あたしに淹れてくれたコーヒーを、小枝も口に含む。


 二人でコーヒーを飲んで息を吐く。そのタイミングがまるっきり一緒だったから、向かい合って笑った。


「小枝はどう? 仕事、頑張ってる?」

「うんっ、最初の頃から比べるといろんな仕事を任せてくれるようになったよ。怖いなーって思ってた人も、一緒に飲みに行ったら案外気さくな人でねっ」

「ちょっと待って、飲みにいったの?」

「え、うん」


 小枝が、会社の人と、飲みに・・・・・・。


 まったく想像が付かない。


「ちゃんと最初はビール飲んだ? いきなりオレンジジュースとか頼まなかった? 上司には率先して酒を注いだ? セクハラ親父に尻触られなかった!?」

「し、尻っ!? さ、触られないよっ! 職場の人、オーナーさん以外はみんな女の人だしっ、お酒も注ごうとしたけど、そういうのいいからって、みんな好きなように飲んでたよ」

「ならいいけど」


 大人の権力とか、威圧するような姿勢に萎縮してしまうのが小枝だから、酔って歯止めの効かなくなった厄介な上司に絡まれていないか、少し心配だった。


「でもやっぱり仕事って大変だね。起きて寝て働いてーで、全然自分の時間がないや。兎羽ちゃんも、働いてたときはそんな感じだった?」

「あたしは特にやりたいこともなかったから、時間を惜しいとは感じなかったな」


 あのときはどうして必死にしがみついて生きていかなければならないのかが分からなかった。


 毎日鼓動する心臓に怯え、眠れない日が続き、眠るために家に帰り、もう目が覚めないかもしれないと思うと眠れなくて、また寝不足で。


 あの頃と比べると、あたしの寝付きもだいぶよくなったと思う。


「でも今は違うかな。さー、勉強再開しようかな」


 やらなきゃいけないことがある。使命めいたその原動力は、どうしてかあたしの心臓の鼓動の音をかき消していく。


 十分ほど休憩して、あたしは再びペンを走らせていく。


「小枝暇でしょ? もしだったらテレビ見ててもいいよ、あたしはあんまり気にならないから」

「ううん、このままでいいよ」

「このままって」

「このままで」


 小枝は向かいに座りながら、ジッとあたしを見ている。


「なんだよー、その顔」


 まるでまどろむように、目を細めてあたしを見る小枝を睨む。


「なんだか、懐かしいなって」

「懐かしい?」

「兎羽ちゃん、昔もそうやって、真剣に何かを追いかけてた」


 昔。昔っていつだろう。


「私には兎羽ちゃんが一体何を追いかけているのか分からなかったし、きっと私には分からないことなんだろうなって諦めてた。でも、そんな見えないものを必死で追い求めてる兎羽ちゃんの背中も、横顔も。私にはすっごくカッコよく見えたよ」


 あたしが追いかけていたもの? そんなの、あたしにだって分からない。昔も、今もだ。


「だから、そんな兎羽ちゃんをまた見られたのが嬉しくって」

「はいはい、今までふてくされて生きててすみませんでしたね」

「そ、そういうことじゃないんだよっ!? ただ、えっと」


 慌てた様子で手をブンブンと振る小枝を見ていたら、あたしまでおかしくて笑ってしまった。


「だから、そのっ、兎羽ちゃんには、兎羽ちゃんのやりたいようにしてほしいなって思うの。大人になって、やっぱり悲しいことって多くて、泣いちゃいそうになるくらい理不尽なこともたくさんあるけど、兎羽ちゃんにはいつまでも、カッコよくいてほしいなって」


 ふいに小枝が手を伸ばして、あたしの頬に触れてくる。


「あたしのせいで付いちゃった、消えない傷跡を、少しでも埋められるように」


 小枝の指は震えていた。それは寒いからか、それとも、怖いからか。


 その思いを口にするのに、一体どれだけの勇気が必要だっただろう。小枝の性格を考えると、こっちまで胸が張り裂けそうだった。


 だけど、それと同時、あたしは心の底から呆れかえってもいた。


「この傷が小枝のせいで出来たって? やめてよ」


 小枝の手を振り払う。


「これはあたしの勲章なの、あたしがあたしだった証なの。あたしが自分で付けたんだから。それなのに、なに? この傷は小枝が付けたって? 思い上がるのも大概にしなさい!」

「ご、ごめんね」


 呆気にとられた様子の小枝が、呆然とあたしを見ている。それがまた、おかしかった。


 あたしは笑いを堪えきれないまま、戸惑っている小枝のおでこを指で弾いた。


「わあっ」


 そのまま小枝が、後ろにひっくり返る。


 窓の外で、雪が降っているのが見えた。


 仰向けに倒れた小枝と、机に向き合うあたしで、落ちていく白い結晶を眺める。


「もう冬なんだなぁ」


 前までセミの鳴き声が聞こえていたのに。


「結構積もってるみたい。帰りどうしよう」

「まさか、また自転車で来たの」

「う、うん」


 小枝はこのままプロのペーパードライバーにでもなるつもりなんだろうか。


「好きだからっ」

「まぁ、いいけどさ」


 小枝のこういう、好きなものに一直線なところは、あたしにはない。そのせいで時折周りが見えていないと感じることもあるが、それでも小枝の曲がることない信念は尊敬できる。


「泊まっていけば?」

「え?」

「地面凍ってるかもしれないでしょ。危ないから、泊まっていきなよ。布団はあるからさ」

「う、うん。兎羽ちゃんがいいなら、いいんだけど」

「なにそれ、渋々って感じ。嫌ならいいけどー?」


 からかうような口調で言うと、小枝はブンブンと首を横に振って、


「と、泊まりたいっ!」


 と言った。


 その勢いに、あたしは思わず笑ってしまった。

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