第29話 切奈のいない世界


 二ヶ月のリハビリを終え、あたしはようやく退院することとなった。母親が持ってきてくれた古着を着て、使っていたベッドの周辺を整理してから病室を出る。


 長い間お世話になった場所だったが、どうしてか寂しい気持ちはなかった。この真っ白の部屋は、きっとそういう感傷を抱く場所ではないのだろう。


 母親から最近の父親の酒癖の悪さや近所付き合いの愚痴を聞かされながら、エレベーターに乗る。窓口で退院手続きをして、入院費や検査費、その他諸々の詳細が記されている紙を受け取ると、あたしも母親もその場で腰を抜かした。


 まあ、少しずつ払っていこうと腹をくくって、あたしは久しぶりに病院の外に出る。


 とっくに春は過ぎ、病室から見えた満開の桜は黄色のヒマワリに変わっていた。まだセミの鳴き声は聞こえないが、駐車場に置きっぱなしにしていたせいで熱のこもった車内に、たしかな夏の訪れを感じた。


 母親は入院しているあたしに対して怪我や病気の話はせずに、下手な世間話や他愛もない身の上話ばかりをした。


 それがあたしを気遣ってだということは、あたしも理解していた。なぜならそれは、あたしが切奈にしたことと同じだったからだ。少しでも不安から逃れてほしい。少しでも前向きになってほしい。そう思って、ついでに、奇跡でも起きてくれないかなと願っていた。


 母親と別れてアパートの部屋に戻ると、窓を閉めっぱなしにしていたせいでジメジメしていて、生ゴミが腐っていた。嘔吐するようにチラシをこぼす郵便受けに詰まっているものを全部まとめて引っこ抜いて、ゴミ袋に詰めた。早く捨てて、部屋を綺麗にしたい。


 ゴミ収集の日は、明後日のようだった。・・・・・・なかなかどうして、うまくいかない。


 踏み出したときに滑走路が用意されているわけではないのが、人生のもどかしいところだ。


 あたしは部屋掃除を諦めて、布団になだれ込んだ。


 せっかく退院したというのに、また布団に戻ってくるなんて、何やってるんだろう。


 気力がないわけじゃないんだ。


 ずっと病室で過ごしたあたしは、いろいろなものを見てきた。昨日まで満室だった病室から、ベッドが一つ減っていたことも。誰よりも重篤そうな人が点滴をぶらさげながら、誰よりも強い意志で生きようとしていたこと。


 だからあたしの心境に、何の変化もなかったわけではないのだけど。


 あたしはこれまで長い間、ずっと切奈のことを思って生きていた。仕事をしていたときも、早く人ヒルフェに行きたい。早く切奈に会いたい。それは平日も、休日も変わらなかった。


 今思えば、あれがあたしの生きる原動力となっていたのかもしれない。


 それを失った今、あたしの向かう先は不明瞭を極めていた。


「なに、すればいいんだろう」


 人間って、なんのために生きるべきなんだろう。


 死ぬことは、切奈に言われたこともあってあまり考えないようにした。不死ではないことを嘆いたってしょうがない。だからあたしは、生きたいと願う。


 でも、正確には生きるってどういうことを言うんだろう。


 結局あたしはそのまま昼寝をぶちかましてしまい、気付けば夕方になっていた。


 スマホには通知がいくつか届いていて、明日花と立房さん。それから小枝からのものだった。


 立房さんは今、音楽教室を開いているのだそうだ。


 聞いて驚いたのだが、立房さんは昔歌手を目指していたらしい。だけど、若い頃に喉に腫瘍が見つかって手術したそうなのだが、その後遺症もあって高い声が出なくなって歌手を目指すのを断念したのだという。


 人格更生プログラムで憧れのアイドルに会っていたのも、立房さんからすれば恋だけでなく、好き放題歌える世界が救いになっていたのだろう。あたしと同じくらいあの施設に通っていた立房さんだ。その歌への執着は、計り知れない。


 なんでも孫が今同じように歌手を目指しているんだとかなんとか。ストリートで歌ってはいるもののまだ芽は出ないのだと、立房さんは言っていた。


 明日花はしばらくこっちで暮らすそうだが、相変わらず近所のいい美容室を教えてくださいだの、古着だとバレない古着屋はないんですかだの俗っぽいことばかり聞いてくる。


 好きな話題でもないので、あたしが塩対応しているとふいに「ごめんなさい」とか「ありがとうございました」とか。挙げ句の果てには「命の恩人」なんて言ってくるものだからそういうのはいい、とあたしもなるべく気の使わない交流を心がけている。


 あのときの行動は別に、命の恩人になろうとか、ヒーローになろうとか。ましてや明日花に死んで欲しくなかったとか、そういう立派な意思があったわけじゃないのだ。


 あたしはただ、目の前で人の死を、見たくなかっただけで。


 だから明日花とは、もうあのときの話はあまりしなくなった。


 三人からは、退院祝いの旨のメッセージが届いていた。あたしはそれぞれ返信をして、スニーカーを履いて外に出ることにした。


 買い物がてら、外の空気でも吸って気分転換を図りたかったのだ。


 少し歩いて街に出ると、路地の端っこで、ギターをぶら下げながら歌っている子がいた。確か前にも見たことがある。青臭い歌詞を恥ずかしげもなく歌う盲目的でがむしゃらな声。


 まだこんなところで、歌っていたのか。


 けど、前と違うのは脚を止めて聞いている人が大勢いたことだ。それどころか、その子の周りだけが活気づいている。


 あたしも通り過ぎざま聞いてみたが、張りがあって透き通る、良い声をしていた。なにより、自信に満ちあふれている。


 歌がちょうど終わったらしく、その子は聞いてくれていた人に頭を下げる。そうしてまた頭をあげたとき、ふと目が合った。


 その子は「あ」とあたしを見て、それからもう一度頭を下げた。


 今、あたしに頭を下げたのか?


 それからすぐにその子は次の歌を歌い始め

た。その曲は切ないメロディラインながらも、その子の通る声のおかげで前向きな明るい曲に変貌している。


 あたしはその子の路上ライブを最後まで見届けてから、近くのスーパーへ向かった。


 料理する活力はなかったので、惣菜を中心に買って、ビニール袋をぶら下げて帰路に就く。


 酒を買わないだけでも、こんなに軽いのか。


 もうあたしは酒を飲もうとも思わなかったし、飲みたいとも思わなかった。


 医者の話によると、あたしの脳はすでに非現実症候群により萎縮してしまっていて、本来の機能を失ってしまっているとのことだった。縮まった脳が元に戻るわけではないが、だからといって一生身体の自由が効かないかというとそうでもないらしい。


 人間の脳というものは不思議なもので、一部を欠損したとしても、ある程度は他の部位で補うことができるのだという。ただそれにはリハビリが必要で、あたしは二ヶ月かかったがそれでもだいぶ早いほうなのだそうだ。


「いてっ」


 そんなことをぼーっと考えていると、いきなり後ろから誰かがぶつかってきて、思わずよろけてしまった。あたしにぶつかってきたのはどうやら近所の子供だったらしい。


「そんなのほっとけよー、早く家帰ってゲームしようぜ」

「ダメだよ! あの子困ってるんだから、助けなくっちゃ」

「で、でもあれ、六年生じゃない? 勝てるわけないよ」

「それでも行かなきゃ!」

「ええっ、マジで言ってんのかよー!」


 その子に続いて、他の子たちも後を付いていく。


「いつまでもうじうじしてると、魔女が現れて、かぼちゃにして食われちゃうんだぞ!」


 突風のように駆け抜けていく子供たちを見て、ああ、いいな。なんて思う。


 あたしは子供の頃が一番楽しかったって自信を持っていえるし、できることなら今すぐ子供に戻って何も考えずワーキャーと遊びたい。無駄な知識も不要な建前も全部放り投げて、目の前に見えるものに全力で突っ走りたい。


 でも、すべての子がそうやって毎日を生きているわけじゃないのは知っている。多人数からの弾圧に、理不尽な暴力、誹謗中傷。家庭環境による虐待だって、あり得るかもしれない。


 大人になったら辛いことばかりなんだから、子供のうちに楽しいことをたくさんさせてあげればいいのに。どうして誰もかれもが、幸せなままでいられないのだろう。


 どこかで子供の泣き声が聞こえた。


 あたしはその泣き声を追って走る。


 ロータリー近くにあるベンチの前で一人、泣いている子がいた。


「お母さんとはぐれちゃったらしいんですよ」


 周りの人たちも心配しているようで、あたしに説明してくれた。


「でも、こんな調子だから名前も聞けなくって」


 他の人が「どうしたの?」と優しく話しかけても、その子は泣きわめくばかりで答えようとしなかった。さすがにこれでは、困り果てる他ないだろう。


「ねえ、空を飛んでみたくない?」


 あたしは、何を言っているんだろう。周りの人も、あたしを怪訝に見つめていた。


「空?」


 するとその子は、泣くのをやめてあたしを見た。


「うん、空」

「空って、飛べるものなの?」

「もちろん、空は鳥だけのものじゃない。あたしたちにだって、飛ぶ権利はあるんだよ」

「・・・・・・じゃあ、飛んでみたい」

「よしきた」


 あたしが屈むと、その子は抵抗なくあたしの背中に乗った。


「わー!」


 そのまま全力で駆け抜けると、その子はあたしの首に手を回したままはしゃいだ。ギギ、と力が加わって、苦しい。


 でも、それくらいでいいんだ。


 子供なんて、他人の息苦しそうな顔にいちいち感情移入してないで、自分のやりたいことを飽きるまでやればいいんだ。


 あたしみたいに生きるより、切奈のように、自分を貫き通して真っ直ぐ生きたほうが、きっと最期の瞬間まで笑っていられるから。


 切奈もそう、望んでいる。


 あたしが切奈のような最期を迎えられること。それから、あたしが、切奈の生き様をこの世界の誰かに伝えていくこと。


 ゼロから話す必要なんてない。


 ただ、あたしが切奈からもらったものをそのまま、誰かにあげればいいんだ。


 生きるって多分、そういうことだ。


 随分あたしも、年老いたな。


 あたしの命にはきっと、切奈の生きた歳月と、切奈が生きたかった未来の分が、そっくりそのまま加算されてしまっているのだろう。

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