第4章

第28話 病室

 目を覚ますというよりも、天井にへばりついていた意識がボトっと床に落ちたような感覚だった。


 瞼をあげると白い壁が見えて、人間の頭が二つほど行き来していた。そうか、これは天井か。ということは、あたしは、仰向けになっているのか。


 手を動かそうとしても力が入らなかった。身体にいたっては、起こし方を忘れてしまっていた。あたしはどうやって、いつもこの世界に身を起こしていただろうか。


 行き来する頭の一つを見ると、白髪の交ざった、三つ編みだった。もしかして、立房たちふささんか。それで、その隣にいるのは、剥いだみかんの皮みたいな黄色。明日花あすかか?


 二人で何を話しているんだろう。顔を見ようと頭を動かすと、自分の前髪が目頭にかかってくすぐったい。どうにか瞬きでどけることができないかと挑戦していると、立房さんと目が合った。


 立房さんは目を大きく見開いて、幽霊でも見るような表情であたしを覗き込んでいた。


 明日花も気付いたのか、椅子をガタっと鳴らすと、バタバタと走ってどこかへ行ってしまった。


 騒がしいな・・・・・・。


 小さい頃の夏休みを思い出す。あたしは冷たいフローリングに頬をべったり付けるように寝ていて、家族が近くを通ると足音がガンガンと響いて、時々尻を蹴られたりした。母親の持つ掃除機の頭に身体を強引に端まで追いやられて、それでもあたしは動かない。


 そうしてる間にも親戚が家に集まってきたりして、客間がうるさくなる。


 そういう、昔のことを思い出した。


「よかった・・・・・・! 百瀬ももせさん、大丈夫? 意識ははっきりしてる? どこか痛いところはない?」

「・・・・・・身体の起こし方を忘れました」


 あたしがそう言うと、立房さんがホッと胸を撫で下ろした。


 やたら暗いなと思い窓の外を見ると、星が散っていた。


「一ヶ月よ。あなたは一ヶ月の間ずっと眠っていたの」

「長いですね」

「非現実症候群だってお医者さんは言っていたわ。治療法が確立されていないから、治るかどうかは分からないって。でも、本当によかった。今、明日花さんがお医者さんを呼びにいってくれたから」


 なんだか、他人事のように感じた。


 あたしは一ヶ月寝ていたらしいけど、その間に長い夢を見たわけでもないから。自分の状況にも特に危機感を抱くこともなかった。


「明日花も来てたんですか、お見舞いに」

「ええ、もちろん。でも一番の功労者はあなたのお友だちね」

「お友だち?」

「あなたが入院してから毎日ここに来て、あなたのことを見守っていたのよ。ほら、その手をよく見て」


 立房さんが布団をめくると、あたしの右手には微かに赤い跡が残っていた。


「ずっと握っていたのよ。あなたがいつか目を覚ますことを信じて」

「・・・・・・そいつは今どこに?」

「ついさっき飲み物を買ってくるって下の売店に向かったわ。もうじき戻ってくると思うけれど」


 あたしに友達はそれほど多くない。心当たりがあるのは一人だけだった。


「全然記憶がないんですけど、あのあとどうなったんですか? 火の中を死ぬ気で突っ走ってたのは覚えてるんですけど」

「あなたは明日花さんを背負って施設を出てからすぐに気を失ったのよ。救急車が到着してあなたはすぐ緊急治療室に運ばれたけど、結局意識は戻らずにそのまま昏睡状態になった。それから、ヒルフェはあの事故以来閉鎖になったわ。原因は管制室のメインケーブルに負荷をかけすぎたことによる電流漏れということで処理された。施設は全焼、設備は全て火で倒壊してしまって、人格更生プログラムを内蔵していたメインデバイスはどうしてかすでにアンインストールが完了していたから、他の施設に移されることもなく後日処分されたわ」

「そうですか」


 処分。ということは、もう切奈せつなはこの世から完璧にいなくなったということだ。


 いや、元々切奈はとっくにいなかった。それをあたしが、あたしのワガママでなかったことにして、その結果、切奈を二度も死なせるハメになったのだ。


 切奈は二回目の死を前にしても、やはり泣き言を言うことはなく、それどころかあたしを励まそうとしてくれた。気高い彼女の生き様を見て、あたしの心が動かないわけではなかった。


 心臓に明かりを灯すように残っている切奈の言葉を、まだ醒めきったこの脳では本質まで理解できない。


 でも、あの世界が崩壊する直前に見た切奈は、全然これから死にますなんて顔をしていなくって、死ぬことを気にしているあたしのほうが、お節介というか、なんというか、バカみたいだった。


「百瀬さん、身体を起こせるかしら。そう、私の手にもたれて」

「はい、なんとか。ありがとうございます」


 そんな切奈も、もうこの世にはいない。もうすでに切奈は意識も感情もなくなっている。あたしに散々言葉を投げかけた切奈だけど、そのあとはもう、あたしの身を案じることすらできなくなっている。


 ・・・・・・あたしも、死ぬべきだったんじゃないだろうか。


 あたしは死ぬのが怖い。絶対に死にたくなんかない。けど、もしいつか必ず死んでしまうのだとしたら、あたしの死に場所は、あそこだったんじゃないだろうか。


 開いた目を、再び閉じた。生きるために命を燃やすことに、すでに疲れ果ててしまっていたのだ。


 病室のドアが開く音がした。


 入って来たのが誰かなんて確認する気力もなくて、あたしは起こした身体を壁に預けたまま目を瞑ったままでいた。


 すると、ボトボトと何かが落ちる音がした。とてもじゃないが心地良いとは言えないその鈍い音に、あたしは思わず目を開けた。


兎羽とわ、ちゃん・・・・・・?」


 そこには、腕に抱えたペットボトルを床に落として、それを拾う素振りも見せないまま立ち尽くしている小枝こえだがいた。


 小枝はそのまま、たどたどしい足取りでこちらに向かってくる。


 あたしを見るその目は、あたしを不審者とでも思っているかのように警戒心を丸出しにしたものだった。


 いつもなら小枝にきさくに挨拶をするところなのだけど。あたしもあたしで、言葉がでてこなかった。なんとなく、気まずかったのだ。


 小枝と最後に会ったのは、喧嘩したあの日だ。


 あたしはカッとなってしまって、つい『ラジコン』などと小枝にキツい言葉を浴びせた。小枝はさすがにカチンと来たのか、珍しくあたしに食ってかかって、あげくのはてに「兎羽ちゃんのバカ」と言い残して走り去ってしまった。


 最悪の別れ方だった。


 小枝とあそこまで険悪な雰囲気になったのは初めてだった。


 だからあたしも、小枝にどう声をかけていいか分からない。


「ど、どうも。久しぶり? 小枝、ちょっと痩せた?」


 あはは、と乾いた笑いで誤魔化す。


 小枝はそんなあたしを睨むように見下ろしていた。


 あれ、ヤバい。小枝のやつ、想像してたより怒ってるかも。


 けど、今回ばかりは、おそらく。百パーセントあたしが悪い。あたしが頭を下げないことには始まらない気がした。


「小枝、あの、この前はひどいこと言ってごめ――」


 しかし、あたしが言っている途中で、小枝はその場に膝から崩れ落ちてしまい、あたしは唖然として言葉を続けることができなかった。


 な、なんだよ急に。膝カックンでもされたみたいに。


「ど、どうしたの小枝」


 手を伸ばしたところで、小枝が泣いていることに気付いた。


 顔を両手で覆って、肩を震わせている。時々泣きじゃくったような震えた声が混じって、病室の床を埋め尽くす白いタイルに、涙がポツポツと落ちていた。


 あたしはどうすればいいか分からず、かなりの時間狼狽えていたように思う。


 とりあえず手でも触っておくかと思い、小枝の手の甲に手を合わせると、それを見た小枝がさらに強く泣きわめいた。


 ど、どうすればいいんだ、これ。


 失敗したか。そう思って手を引っ込めようとしたが、すぐに小枝に掴まれる。


 小枝はあたしの手を何度も撫でると、頬に当てて、その涙であたしの手の甲を濡らしていった。


 立房さんも見てるのに、恥ずかしいって。


 小枝は外でも関係なく泣くから、小学校の頃も宥めるのに苦労した。まさか大人になっても直らないなんて思わなかったけど、ここは病院なんだから、いつまでも泣きわめいているわけにもいかないだろう。


「小枝、そろそろ――」

「よかった」

「え?」


 小枝が、何かを口走った。


 目を開けて、涙を隠そうともせず、鼻水を垂らしながらあたしの顔を見上げて。


「目を覚ましてくれて、よかった・・・・・・よかったよぉ・・・・・・」


 小枝は立ち上がろうとするも失敗し、つまずいた勢いのまま、ベッドに顔を埋めた。


「このまま兎羽ちゃんが目を覚まさなかったらどうしようって思ってぇ・・・・・・そしたら、そしたら怖くって・・・・・・もうっ、会えない、んだって、思ったらぁ・・・・・・ううっ、ええっ、ゲホッ」

「ちょっ、落ち着いて小枝」


 嘔吐くどころか、むせはじめた小枝を見てあたしもさすがに慌てた。そんな風に泣かなくったっていいじゃないか。


 あたしが死んだのなら、そうやって悲しんで泣いてもいいけれど。あたしは生きてたんだから、やったー! って喜べばいいじゃないか。


「兎羽ちゃんがいない人生なんて私・・・・・・考えられないよぉ・・・・・・」


 いつも小枝は、大げさすぎるんだ。


 あたしがいない人生くらい生きてみせろよ。あたしはいつまでも生きているわけじゃないんだから。


 教室の端っこで震えていた小枝の姿を思い出す。あのときの小枝は耳を塞ぐように耳を縮めて、すべてを諦めた無気力な顔をしていた。小枝はきっと身の丈に合わない困難に一人で立ち向かっていけるほど強い人間じゃない。

 

 あたしは永遠じゃない。今はこうして意識も鮮明で当たり前のように生きているけど、いつか死ぬときは必ずやってくる。


「バカだな、本当」


 小枝の頭をそっと撫でながら、窓の外に散った星を見上げる。


 無数にある星は、きっとあたしが人生一つかけても数えられないほどに多く、数えきれたところで、あたしの人生に価値があったとは言いにくい。


 なら、目の前にある大きな月を見て「でっけー」くらいに思ったほうがいいのかもしれない。


 切奈はそうやって生きて、死んだ。もしかしたら切奈は、あたしにもそういう生き方をして欲しかったのかもしれない。


 いくつあるかも分からない無数の星を見て自分の存在を惨めに思うよりも、目の前の大きな月を眺めて、圧倒されるくらいのほうが、精神衛生上たしかにいいかもしれない。


 あたしにとっての月は、なんだろう。


 それから医者が到着するまで、小枝が泣き止むことはなかった。

 

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