第18話 バカの遠吠え
カーテンを開け放つと、一面に広がる桜の木が視界に飛び込んできた。春を告げるようにさえずる小鳥の足元には、ちょこんと小さなつくしが生えている。時々、ランドセルを背負った小学生が家族と一緒に手を繋ぎながら桜並木を歩いているのを見かける。
これから何かが始まる、新しいものに胸を膨らませる春は、暖かい日差しと共にまばゆい未来と命の芽吹きを連れてくる。
そういう景色を見ながら、あたしは酒を喉に流し込み、くだらないと吐き捨てカーテンを締めた。
どうせいつか死ぬのだから、景色に一喜一憂したところで仕方がない。ランドセルを背負った小学生だって、すぐ大人になって、身体が衰えていき、あっという間に終わりを迎える。あたしの死んだ祖母にも、小さかった頃があったのかと思うと、祖母の祖母はきっと、とっくの昔に死んでいるんだろうな。
遥か昔の死に関心を抱けないように、あたしが死んでも、百年後の人たちは死んだあたしに興味すらなく、あたしが生きていた証拠なんてもうどこにもなくなるのだろう。
これだけ必死に苦しみながら生きているのに、報いもへったくれもない。本当にくだらない、残酷という言葉すらおこがましい、バカな在り方だ。
朝食を食べる気力もなく、水の代わりとなる酒を飲んでいると、玄関の向こうから泣き声が聞こえた。
ドアを開けると、アパートの駐車場で小学生がじゃれあっていた。ただ、一人に対して大勢が囲うようにしているのは、少し気になる。あれがイジメというものだと瞬時に気付けるほど、あたしは歳を食っていた。
「うるさいな・・・・・・」
子供の泣き声というものは、どうしてこんなにもガンガン頭に響くのだろうか。泣けば誰かが助けてくれる。そういう自己中心的な稚拙な涙を見ていると、心の奥底が波打つようだった。
あたしはアパートの階段から飲み終えた酒の空き缶を小学生めがけて投げた。放物線を描く空き缶は、買ったばかりであろうピカピカの黄色い帽子に直撃した。
「その歳からイジメなんかやってると、将来ろくな大人にならないぞー、クソガキ」
「う、うわっ! 魔女だ、魔女が出た!」
誰が魔女だ。
集まっていた小学生が、次々にあたしから逃げていく。
「今度あたしの部屋の前でさわいだらカボチャにして食うぞ」
「ぎゃー! 早く逃げろー! 食べられるぞー!」
一人の尻を軽く蹴ると、それが合図になったように各々が散っていった。イジメられていた小学生が一人、ポツンと残って怯えた顔であたしを見上げている。
「あんたもさっさと行きなよ。酒のつまみにするよ」
その子は背筋を丸めたまま、トボトボとあたしの元から去って行く。子供のくせに、子供らしくない。周りの顔色ばかり伺って、自分を隠して人の目につかないよう息を止めながら生きている。そういうのは、大人になってからで充分なのに。
あたしはその子の尻もついでに蹴ってやった。
「しゃんとする! そんなんじゃね、もしものとき、何にも勝てなくなるよ!」
戦うのは人間とだけじゃないのだ。世間、社会、それから自分。もしこの子が、病に伏せったとき、きっと布団の中で泣くばかりになってしまう。
切奈のように、最期まで自分を貫くことができたら、それはきっと、素晴らしい人生と言える。
・・・・・・何言ってるんだろう。どれだけ人生を幸せなものにしたところで、死んだあとは、何も関係ないのに。
「あ、ありがとう、お姉さんっ」
その子は跳ねたような口調でそう言ったあと、小走りで曲がり角の向こうに消えていった。
部屋に戻って、壁に掛けてある鏡に映る自分を見て、ギョッとした。
飾り気のない無地の黒パーカーに、黒のパンツ。くしゃくしゃの髪に、クマのできた目。頬は痩せこけて、唇の血色は悪い。おまけに頬には傷の跡。なるほど、これは確かに、魔女と言われても仕方がない。
この頬にある傷跡は、小さい頃から薄く残っている。小学校低学年のときにはすでにあった記憶はあるが、なにで出来た傷なのかは覚えていない。枝か何かで切ったんだろうか。
こういう傷も消せる魔法があれば、どれだけ便利なことか。
落ちている空き缶に向けて、指を振ってみる。
空き缶は、ピクリとも動かなかった。
酒がなくなったので、夕方ごろ買い出しに出ると、駅の近くで
「まだ本格的な業務はやらせてもらってないんだ。掃除とか、消耗品の補充とか。いつか着付けもできたらなって思ってるけど、わ、私にできるかなっ。で、でもお母さんの紹介で入った場所だから、いつまでも足手まといになってるわけにもいかないよねっ、お母さんに恥かかせないようにしないとっ」
小枝の話を聞きながら、あたしは酒の入ったビニール袋を持ち替えたりしていた。
「私、持とうか?」
「いいよ、小枝よりあたしの方が力あるし」
「そ、それはそうだね」
チラ、と小枝が袋の中身を見て、それから何度かあたしの顔を覗き込んでいたのが視界の端に映っていた。
目障りだな、と思いながら歩いていると、ようやく小枝が口を開いた。
「あ、あの、兎羽ちゃん。兎羽ちゃんって、前からお酒そんなに好きだったっけ?」
「好きでもないけど、ただ飲んでるだけ。社会人ってそういうもんでしょ」
「そ、そうなんだっ、私は成り立てだからまだ分かんないけど、兎羽ちゃんは私よりも早く仕事してたんだもんね。兎羽ちゃんが言うなら、きっとそうなんだろうけど、あんまり飲み過ぎないでね。前も泊めてもらったとき、部屋にたくさん空き缶あったし・・・・・・」
もじもじと、指同士を絡ませながら小枝は自信がなさそうに呟く。それはあたしに向けた言葉ではなく、地面と喋っているんじゃないか。そういう印象を抱かざるを得なかった。
「そういえば、
「そりゃ誰にでもあるでしょ。ただ明日花は、研究のためって言ってた。本人はなんだかんだ楽しんでる様子だったから、研究半分、遊び半分なんじゃないかな」
あれから明日花は週に一回ほどの頻度で『ヒルフェ』に通っているらしい。人工意識についてはまだ何も分かっていないとのことだったが、明日花にその話をされるたび、あたしは内心焦っていた。
「兎羽ちゃんはもうずっと行ってるもんね、去年からだっけ? 施設がオープンして以来。もう五十回くらい通ってる?」
「二百回くらいかな」
「す、すごーい! そんなに行ってるんだ。二年で二百回ってことは、ええっと、一年で」
「計算しなくていいよ、嘘だから」
「嘘なんだ!?」
指を折っていた小枝が、放り投げるような動きで計算を放棄した。
どうして、自分でも嘘をついたのか分からない。
二百回なんて、とっくに超えているのに。
それから少し無言の時間が続いて、街から外れた路地にさしかかったところで小枝が口火を切った。
「私も、『ヒルフェ』に通ってみようかな。場所は分かるし」
小枝が恥ずかしそうに手を後ろで組む。
「やめておいたほうがいいよ。小枝はああいう施設に向いてない。それに人格更生プログラムって、人の脳に直接干渉する危険な装置なんだよ。小枝の脳みそなんてすっからかんだから、繋いだ瞬間に機械に乗っ取られちゃうよ」
「の、乗っ取られるって・・・・・・そんな。で、でも私、一回で良いから行ってみたいよ。明日花ちゃんだって行ってるんでしょ?」
「明日花は知識があるから、正しい使い方ができてるだけ。小枝みたいになんにも考えてないような奴が利用する場所じゃないよ」
「で、でも私」
「小枝には無理だって言ってるでしょ。小枝は大人しく、母親の言うこと聞いて、母親のこねで入った職場でラジコンみたいに働いてればいいんだよ」
車の通りもない路地に、あたしの声がやけに響いたように思えた。
言い過ぎたか、そう思い顔をあげると、目から涙をこぼした小枝が子供のように泣きじゃくっていた。
あたしは舌打ちをして、目を逸らす。
「そういう、すぐ泣くところ。社会に出ても何も変わってない。泣けばいいと思ってる。泣きわめけば、誰かが助けてくれるって思ってる。でもね、もうそんな立場じゃないんだよ。そもそも、この世界で、助けてくれる人なんかいない」
切奈が死んだあの日から、あたしは泣くのをやめた。泣いたところで、誰かが助けてくれるわけでもない。
切奈を返して。そう泣き叫んでも、神様は気付いてすらくれないんだ。
「私だって、兎羽ちゃんと一緒の景色を見られたらなって、思っただけで」
「そういうのがダサいって言ってるの! 人の背中ばっかり追いかけて、だからラジコンだなんて言われるの! どうせ職場でもイジワルされて、良いように使われるのがオチだよ。小枝はね、そういうこと、何も考えないで生きてるから――」
「何も考えてないわけじゃないよっ!」
小枝の張り裂けそうな声があたしの言葉を遮った。
「考えて、ばっかりだよ・・・・・・」
止まらない涙を何度も拭きながら、小枝が鼻をすする。
小枝のこんなに大きな声を聞いたのは初めてで、あたしは呆気にとられていた。
「兎羽ちゃんの、バカ」
小枝はそう言い放って、あたしを置いてどこかへ行ってしまった。
「バカって、なんだよ。そっちのほうが、バカなくせに」
ぽつりと、雨が降り始めた。
ああ、もういい。考えるのはやめだ。
そうやって苦しんで。葛藤することすら、今は億劫なのだ。
あたしはアパートに帰ると酒を一缶飲み干して、着替えることもしないまま『ヒルフェ』に向かうことにした。
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