第3章

第16話 死にたくない

 昔から、死ぬのが怖かった。


 死というものを理解したのは小学二年生。葬式で、血の気を失った祖母の遺体を見たときだった。


 人間の肌が土のような色になり、目は陥没し、首は枯れた茎のように萎れている。


 大好きだった祖母の変わり果てた姿を見たとき、悲しいよりも恐ろしいが勝った。祖母の遺体に近づくことすらできなくて、あたしは膝を抱えながら別室の隅で震えていた。


 祖母との思い出は今も鮮明に思い出せる。店の中で駄々をこねてようやくおもちゃを買って貰ったときのこと。あたしの誕生日ケーキを用意できなかった祖母がケーキの代わりに持ってきた餅を、こんなの要らない! と言って投げ捨てたときのこと。それでも怒ることのなかった祖母が、家の屋根によじ登ろうとするあたしを本気で叱ったときのこと。


 祖母は最期のそのときまで、危なっかしかったあたしを心配していたと母親は言っていた。


 祖母はあたしを愛していた。だけど、死んだ。


 火葬場であがる煙を指さして、母親が「あれがおばあちゃんだよ。今、お空にのぼっていってるの」と言った。けど、あれは煙だ。


 祖母の骨を拾っていると、母親が「これがおばあちゃんだよ、農家をしていたから立派な骨だね」と言った。けど、これは骨だ。


 帰り道、夜空を見上げながら母親が「お星様になって兎羽のこと見守っててくれるからね」と言った。けど、あれは星だ。


 子供を欺すつもりなら、遺体を隠すくらいしてほしかった。


 そもそも、葬式に参列した大人たちは、自分の負った傷を癒そうとおとぎ話のような都合のいいでたらめを並べるだけで、死んだ人間のことを一切考えていなかった。


 見守られるとか、そんなのどうだっていい。


 祖母は、あんなに優しかった祖母は、死んで、どうなったんだ。


 脳が焼けたら、意識が途絶えるのか。もしかしたら、幽霊になって外を彷徨っているのかもしれないと思ったこともあったが、身体がないのだから、科学的に説明がつかない。


 もし幽霊なんてものがいるのだとしたら、これまで地球に存在してきた命の扱いはどうする気なのだろう。飽和しないように、幽霊もまた徐々に消えていっているのだろうか。じゃあ、幽霊が消えた後こそが、本当の死だとでもいうのか。


 結局、いつかは消えるんじゃないか。


 祖母の意識がもう、どこにもないのだと考えると、全身の肌がゾワゾワと逆立った。


 死んだら、意識はなくなる。視界は、真っ暗ですらないのだろう。音もきっと聞こえない。だって目がないのだから。耳も、脳も、ないのだから。


 一つ一つを紐解いていくたび、身体が宙を浮いたようになり、ふとあたしの脳内に、いっぱいの宇宙と、そこにポツンと浮かぶ地球が見えた。


 これまで経過した膨大な時間と、これから続く無限にも近い未来。その中に点のように存在する自分を俯瞰すると、途端に頭が真っ白になった。


 祖母がいなくなったように、あたしにもいつか、必ずそのときは訪れる。


 それからあたしは死生観に関する色々な本を読みあさったり、インターネットで悩みを相談したりもした。


 人間最期は必ず死ぬんだから。眠るようなものだよ。そんな先のこと考えたってしょうがないよ。死後の世界はあるんだよ。天国と地獄。神様に連れて行かれる。死が怖いのは死後どうなるか分からないから。人間は知らないものに恐怖するようにできてる。みんな一緒だよ。だから後悔しないように生きよう。


 ・・・・・・何も分かっていない。


 人間最期は必ず死ぬ? そんなの当然だ。当たり前だから、その当たり前の中にあたしが組み込まれていることが怖いんだ。


 眠るようなもの? 死ぬ瞬間のお気持ちなんてどうだっていい。そもそも、起きないのなら、眠りとは違うじゃないか。


 そんな先のこと? 今は生きているけど、明日は死ぬかもしれなじゃないか。現に、親戚のおじさんが、最近心臓発作で死んだ。前日まで元気だったのにとみんな嘆いていた。そんな風にある日突然電気を消すみたいに、人は死ぬんだ。


 やめてくれ。もう、その場しのぎの綺麗事はやめてくれ。


 後悔しないように生きろなんて言う奴はどうかしてる。後悔しようが、幸せな人生を送ろうが、死んだ後には何もない。世界で活躍してるスポーツ選手と、あたしの祖母の死に違いはあるのか?


 生きている人間からの弔いに優劣があるだけで、死んだ人間の意識は等しく無だ。なら、人生の過程に意味なんか一つもないじゃないか。


 終わることのない思考の連鎖を、あたしは一日中続けていた。


 ある日を境に、あたしは母のパソコンを使って、闘病の日々を綴ったブログを徘徊するようになった。


 病気は様々だったが、共通しているのは余命を宣告されていることだった。年齢は二十代から三十代までがほとんどで、稀に十代の人もいた。


 鼻にチューブを繋げた写真や、むくんだ手足など、見ていて痛々しい写真を、あたしは食い入るように見ていた。


 ブログには闘病を続けている人の心の声が赤裸々に描かれていて、病気なんてやっつけちゃうぞ、と前向きな人もいれば、あたしと同じように、死ぬのが怖い。と淡々と綴っている人もいた。


 最新のページまで飛ぶと、これまでとは違う文体で、訃報が載せられている。


 前向きだったあの人も、死に怯えていたあの人も、結局同じ道を辿ったのだ。今頃もう意識はなく、このブログが後に反響を呼び映画化されるようなところまで進展したとしても、死人がそれを認知することもなく、また、喜ぶこともない。


 いったい自分でも何がしたかったのか分からない。安心したかったのか、それとも同情することで病気や死を自分から遠ざけていたのか。


 確かなのは、死というものに、あたしの人生が支配され始めているということだけだった。


 どうせいつか死ぬのに、何やってるんだろうって無気力になることもあった。


 結局、あたしは死ぬまで、死というものに怯え続ける。


 あたしもいつか余命を宣告されて、死ぬ覚悟をしなきゃいけない。そのときあたしはきっと、病室の布団にくるまって、ガタガタと身体を震わせながら「死ぬのが怖い」と言い続ける。


 そのときが来るのが怖い。


 そのときが、いつか必ずやってくるのが、怖い。


 ・・・・・・そんなときだった。


 あたしは一人の、女の子と出会ったのだ。

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