第12話 惰眠

 年が明けて、小枝こえだと一緒に初詣へ行った。


 おみくじは中吉だったし、食べたおしるこの味もあまり覚えていない。小枝はボーナスを全部使って買ったという着物を着てきたが、それが何色だったかすら、曖昧だ。


 その日は一時間ほど滞在して、すぐに別れた。小枝がもっと回ろうと言ってきたが、あたしは断った。そもそも小枝は、あたしなんかと一緒にいて楽しいのだろうか。


 三が日が終わっても、あたしは家から出なかった。仕事を辞めてから、外に出る理由もなくなり、腹も減らないので買い物も行かなくなった。


 仕事を辞めたのは去年の11月。元々春には辞めると伝えてはいたのだが、何度も説得され結局良いように冬まで先延ばしにされた。あたしがもう働けるような状態じゃないのは同僚も社長も分かっていたはずなのに、人手が足りないからという理由であたしは渋々出勤し続けた。


 そしてあたしは、無駄に働いた分を取り返すかのように、惰眠を貪っていた。


 動かない天井を眺めて、動かない感情の中を泳ぐ。


 切奈も、こんな風に寝ていたのだろうか。


 切奈は元々体が弱く、家から出ることを親から禁止されていた。弱い、というのはかなり曖昧な表現で、風邪を引きやすいとか、血圧が低いとかいろいろあるかもしれないけど、切奈は生まれつき免疫系の病気を患っていた。


 あたしはそんなこともしらず、切奈をあっちこっちへ連れて回った。切奈の親にバレたときは、ひどく怒られたものだ。それでも当時のあたしは食ってかかった。


 ある日を境に切奈はよくお腹を押さえるようになった。どうしたのと聞いても、切奈はお腹を壊したとしか言わなかった。


 それから高校卒業間近というところで、切奈の体調は急激に悪化し、そのまま息を引き取ることとなった。


 切奈が生きていた事実と、もうこの世にはいない事実を見比べると、途端に目の前が真っ白になって、動悸と息切れがする。手足は痺れて、今にも吐きそうなほどの頭痛に見舞われる。


 あたしは顔を洗って、スウェットのまま玄関を開けた。


  外は眩しくて、太陽が今日も良い天気だねと笑っている。今日を生きられなかった人間なんて知ったことじゃないとでも言うように、幸せを振りまいている。


 あたしがこの世から消えても、太陽はずっと輝き続けて、地球は回り続ける。切奈がいなくなったあともこうして続く今日と明日が、何よりの証拠だ。


 あたしの脚は、自然とあの施設に向いていた。


 あそこに行けば、あたしはまた切奈と会うことができる。


 会ってどうするとか、そういう活力はあたしにはなかった。ただ、会えさえすればいい。そうやって、価値のない足取りのまま、泥人形のように地べたを歩いて行く。


 道中、路上ライブをしている人を見かけた。


 今のご時世、曲や歌なんてほとんど人工知能が作って歌う。肉声を求められているのはほんの一握りの人間だけで、歌手という職業自体が廃れていっている中、路上ライブなんてやる人間がいるのかとあたしは驚いていた。


 通り道だったのですれ違いざまちらりと歌っている人の顔を見た。


 年は二十代前半、もしかしたらまだ十代の可能性もある、あたしと同じかちょっと年下の、まだ幼さの残った顔立ちをした女の子だった。ギターを演奏しながら、聞いたこともない曲を必死に歌っている。


 足を止めて聞いている人はあたしくらいで、それ以外の人は見て見ぬフリをして通り過ぎていくだけだった。


 けれど、それも納得と言えるほど、彼女の演奏と歌は拙いものだった。下手ではないが、特出した才能はないように思える。


 観客たった一人だけの路上ライブ。曲が終わると、彼女はチラリとあたしを見て、次の曲を歌い始めた。


 希望、夢、憧れ。現実から目を逸らした青臭い歌詞に、今しか見ていない盲目的でがむしゃらな力強い歌声。


 自分にもいずれ、必ずやってくる終わりなんて気にもしていないようなハツラツとした声を聞いていると、胸がゾワゾワした。


 あたしは逃げるように、その場を去った。


 誰に向かって届けているのかも分からない、力強い、下手くそな歌は、あたしがいなくなったあとも続いていた。


「あれ、百瀬ももせセンパイ。声かけなくてよかったんですかー?」

「うわっ」


 いきなり後ろから声をかけられて思わず飛び上がってしまった。


 振り返ると、見覚えのある顔があたしを見てニヤニヤと笑っていた。似ても似つかないその笑みを、いまだあたしは好きになれずにいる。


「ああいう頑張ってる子のこと放っておけないのが百瀬センパイだって思ってたんですけど、やっぱ違うんですかね? もうそういう偽善者みたいな役回り飽きちゃったとか?」

「挨拶も無しに急に話しかけるなんて、最近の若い子ってマナーがなってないんだね」

「やだな、百瀬センパイも充分若いですってばー。ところで、これからどこへ行かれるんですか? そんな服を着ているんですから、まさかデートじゃないですよね?」

「それはこっちの台詞なんだけど、明日花あすか


 名前を呼ぶと「覚えててくれたんですか、やぁーん嬉しい」なんて今にもぶったたいてしまいたくなる猫撫で声を出す金髪の派手な女。


 一ノいちのせ明日花。切奈と二歳離れている、切奈の妹だ。


 明日花は高校を卒業してからすぐに家を出て上京した。それから随分会っていなかったが、小枝は連絡を取り合っていたようで、上京してからはすぐに人工知能を研究している施設で働き始め、今は職場は変われど同じような研究施設で働いていると以前小枝から聞いた。


「研究してるような人が金髪とかにしてていいんだ」

「やだな百瀬センパイ、私のこと博士かなんかだと思ってません? 施設で製造した商品の営業だったりレビューをしてるだけで研究そのものには直接関わっていませんよ。たまーに助手みたいなことはしますけど、あれネイルが剥がれるから嫌なんですよね。あ、見てくださいこのネイル。一昨日お店で付けてもらったんですけど超かわいくないですか? 内装もおしゃれだったし、定額コース入っちゃおうかな。百瀬センパイはどう思います?」

「知らない、好きにしたら。あと、そういう派手なネイルはあたしを見てーって必死な感じがして好きじゃない。フレンチネイルにしたら? オシャレなんて自分さえ満足できればいいでしょ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、明日花はキョトンと固まってから、腹を抱えて笑い始めた。


「あっははは! 百瀬センパイひねくれてますねー! やばー、そんなんでしたっけ? 社会人になって、つまんない恋でもしましたか?」


 明日花はすっかり金色に染まった髪を指でいじりながら、得意げに口角をあげた。


「やっぱり私、百瀬センパイのことあんまり好きじゃないかもしれないです」

「奇遇だねあたしも。それじゃあそろそろいいかな、さっさと会話を切り上げるのがお互いのためだよ」


 明日花を見ていると、太陽を直視しているような気分になる。網膜が焼き爛れるんじゃないかというほどの強い日差しに、目をくらませるほどの光。その眩しすぎる光がきっと正しいんだと信じて疑わない盲目さが、見ていてイライラする。陰で息を潜めたい人間がいることも知らずに、バカの一つ覚えみたいに生きて。なんなんだろう、本当に。


「ちょっと待ってくださいよ」


 明日花の横を通り過ぎようとすると、二の腕を掴まれた


「今日は百瀬センパイに用事があってきたんですよ。はるばるやってきたんだから、こんな簡単に逃げられたら私落ち込んで泣いちゃいますよ」

「あたしに用事? そもそも、よくあたしのこと見つけられたね。もしかしてずっと付けてたの?」

「まさか、ずっとこのあたりをうろうろしてたんですよ。葬式で顔合わせたときにこの辺に棲んでるんだって言ってたじゃないですか。住所までは知らなかったし、相川あいかわセンパイに聞いても絶対口を割らないんですもん。あの人ってあんなお堅い人でしたっけ」


 相川・・・・・・ああ、小枝のことか。


 どうして小枝が明日花にあたしの住所を教えなかったかは知らないけど、あたしにとっては都合がいい。結局こうやって見つかってしまったから、意味はなかったみたいだけど。


「仕事の都合でこっちに滞在することが決まったので、お正月に帰省してから、定期的にこの辺を探し回ってたんです」

「そんな行き当たりばったりで、見つからなかったらどうするつもりだったの」

「そんときはそんときですよ。でも、これで分かってもらえましたか? それくらい、兎羽さんに会いたかったんです。あ、愛の告白とかじゃないんで、勘違いしないでくださいね」

「一言多いんだよ一言」


 顔を寄せてくる明日花の鼻を指で押すと「ぶにゃ」とデブ猫みたいな声を出した。


「それで、用事って?」

「お姉ちゃんのことを教えてください」


 足を止める。


 隣を見ると、明日花が真剣な目であたしを見ていた。


「知りたいんです、お姉ちゃんのこと」

「親に聞いてよ」

「聞きました。でもママもパパも、あたしが知ってるお姉ちゃんの話しか聞かせてくれなくて。相川センパイは、百瀬センパイが一番詳しいからって言ってました。あたしもそう思います」


 小枝のやつ、どういうつもりだ。


「私が家に居たときはお姉ちゃんずっと部屋に籠もりっぱなしで全然顔も合わせなかったし、私が家を出てからは、割と・・・・・・すぐ、だったのでなんてーか、悲しむ暇がない? というか悲しむ思い出がないんです。そりゃ人並みには悲しいですけど、それよりも好奇心が勝っちゃうってカンジで」


 明日花は笑っているんだかいないんだか、妙な表情を浮かべながらあたしの二の腕をがっしりと掴んだ。手首に付けたミサンガやらブレスレットやらがジャラジャラと鳴っている。


「今も時々思い出すんです。お姉ちゃんのこと。あんまり話せなかったな、とかもっと仲良くすればよかったなって、他の姉妹を見ると思っちゃうことがあって。でも、それって悲しいわけじゃないんです。ただ自分と誰かを比べて、それに一喜一憂しているだけ。だから百瀬センパイが羨ましいんです、私は」

「あたし?」

「はい」


 あたしのどこに、羨むような所があるのだろうか。今やスウェット姿で外に出る、独身で無職の女。こんな不良物件に羨むようでは明日花の自己採点能力を疑ってしまう。


 少なくとも、明日花は社会的にみれば、あたしよりは何倍も立派に生きているはずだ。


 そんな風に話しながら歩いていると、跨線橋を渡った向こうに白いビルが見えてきた。ここで別れよう。そう思って切り出すタイミングを伺っていたのだが。


 先手を取ったのは明日花だった。


 突然スマホの画面を見せてきたかと思うと、そこに映されているサイト名を見て、あたしは驚いた。


「そんな悩みを抱えているあなたにこれ、ですよね? 人格更生プログラムを用いた心療施設『ヒルフェ』」

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