第11話 奇跡なんかどこにもない

 あたしは息を一つ吐きながら、リビングに落ちた空き缶を拾いはじめた。掃除するつもりなんてなかったのに、人の目があると、キレイにしてなきゃという先入観に踊らされる。いや、先入観なんかじゃないか。


 キレイにしなきゃいけないんだ。酒ばっかり飲むな。しっかり生活して、人並みの努力をして、胸を張って生きろ。それが生きていくうえの常識であり、必要なことだ。


 小さい頃のあたしだったら、この空き缶で何をするだろう。缶蹴りでも始めるか。それとも、割り箸を用意して、楽器にでもするか。歌は何を歌おう。授業で習った、どんぐりの歌か。他の楽器はピアノを習っている小枝こえだに用意させて、そうだ、あの家に行こう。


 窓の前で大演奏会を開くのだ。そうすれば窓が開いて、あいつが顔を出してこう言う。


『わたしも弾いていいですか?』


 浴室の扉が開く音がした。髪を濡らした小枝が、あたしのシャツを着ている。あたしのほうが背が高いということもあって、ダボダボだ。


 空き缶は、全てゴミ袋に入れた。


 置きっぱなしになっていた『非現実症候群とその他電子信号について』という表紙にラメを使った無駄に厚い本は、小枝に見つからないようにベッドの下に放り込んだ。


 真っさらになった部屋で、小枝にドライヤーを渡す。


「早かったね」

「お酒飲んだ後のお風呂ってあんまりよくないらしいから、ささっと洗うだけにしたの」

「ふーん」


 メイクの取れた小枝は決まって俯きがちになる。すっぴんを見られるのが恥ずかしいのかもしれないが、あたしからすれば、街を歩く誰かの顔をそのままプリントして貼り付けたかのような個性のないメイクをしている小枝のほうがよっぽど変に見える。すっぴんの、まだ無垢な顔立ちをした小枝のほうがよっぽど小枝らしい。


 でも、小枝は周りの誰かに合わせて自分もそれらの真似をする、同調圧力が服を着て歩いているような奴なので指摘しても無駄だろう。


 時計が十二時を回っていたこともあってそろそろ寝ようと思ったのだが、小枝が飲み直そうと提案してきたので、あたしはもう一缶空けることにした。


 それでも、口に入れるアルコールはほとんど水に等しく、あたしの血管を素通りしていくだけでさっぱり心に浸透しようとはしない。もう一缶、それでも足りなかったのでもう二缶、空けていくと、それを見た小枝もペースを早める。


 先に手が止まったのは小枝のほうだった。口数も減り、ぼーっと何もないところを見る時間が増えた。目もとろんとしていて、呼吸も寝ているときのものに近い。


「小枝、そろそろ寝よう」


 対するあたしは、酔うどころか頭が鮮明になっていくばかりだった。どうしても、酒に酔うことができない。多少アルコールは回っているのだろうけど、小枝のように、意識を夢の中に落とすまでにはいかない。


 いつだって、過去を悔やむくらいの意識は最後まで染みのように残っている。


 小枝の腕を引っ張ってベッドに寝かせようとすると、小枝がいやいや首を振る。


「まだ、のめるよお」

「呂律回ってないし、それ以上飲んで吐かれても困るから。ほら立って」


 引きずるようにベッドまで連れて行くと、電気を消して、あたしは空いている壁側のスペースに身を寄せた。シングルベッドだから横向きで寝ないと狭くて仕方がない。


 友達同士って、泊まって酒を飲んだらもっとキャッキャとはしゃぐものじゃないのだろうか。少なくとも、小枝との泊まりはそういう浮いたものを生まず、沈んでいくものばかりだった。


兎羽とわちゃん」


 寝たかと思ったが、小枝はまだ起きていたようだった。骨のないふにゃふにゃした声であたしの名前を呼ぶ。


「『人格更生プログラム』なんかに頼らなくたって、兎羽ちゃんは大丈夫だよ」


 背中に、小枝の手か、それとも顔か。触れる感触があった。


「兎羽ちゃん、昔、大統領になるんだって言ってなかった? それはどうしたの?」

「そんなの子供の頃の夢でしょ。そもそも大統領って男ばっかりじゃん」

「性別なんて関係ないよ」

「ないことはないでしょ・・・・・・」

「お花屋さんはぁ? そうだ、お笑い芸人になりたいとも言ってたよね。人を笑わせるのが好きなんだって。昔から兎羽ちゃん、いつも誰かを笑わせようとしてたよね。そのせいで学校で先生に怒られたりしてて、ちょっとした有名人だったし」


 寝言のように、小枝は思っていることを考えもせず垂れ流した。それがどれだけ、淀んだものを含んでいるかもしらずに。


「兎羽ちゃんはいつもすごかったよね。絶対無理だって思うようなことにも挑戦して、それで成功させちゃうんだから、いつもビックリしてた。そうだ兎羽ちゃん、宇宙飛行士さんは? 言ってたよね、暑いの苦手だから宇宙まで行って太陽の位置ちょっとズラしたいって。あのときはつい笑っちゃったけど、でももしかしたら兎羽ちゃんなら――」

「やめてよ!」


 言葉ぐらい、フィルターを通したらどうなんだ。だからろ過しないで排出された言葉が、いつも誰かを濁らせるんだ。その歳になっても、まだ分からないのか。


「いい加減現実見てよ! できることとできないことの区別くらいしてよ! 宇宙飛行士!? バカじゃないの!? 諦めなければいつか叶うなんて妄言に取り憑かれるんだったら、今すぐ考え直したほうがいいよ、現実なんてどうにもならないことばっかりで、自分の思い通りになることなんか一つもないんだから!」

「でも兎羽ちゃんは、兎羽ちゃんだけは特別だよ。あのクラスには魔法使いが棲んでる、なんて言われるくらい兎羽ちゃんはすごかったんだよ。兎羽ちゃんのやること全部が、私には魔法に見えた」

「違う、あたしは特別じゃない。あたしは何にもできやしない、特別な力もない。小枝も思ってるんでしょ? 高校卒業して、就職したと思ったらすぐに辞めて、今度は小さな工場で勤務してそれも辞めて今はただのニート。小さい頃あれだけデカイ口叩いてた奴が今はとんだ落ちぶれた社会のはぐれ者だって思ってるんでしょ。あたしはね、小枝が思ってるような人間じゃないんだよ。あたしはクズで、生きてる価値もないような人間なの」

「そんなことないよ!」


 大きな声をあげたかと思うと、小枝は強い力であたしの手首を押さえつけていた。仰向けになったあたしの顔の前に、覆い被さるようになった小枝の、泣きそうな顔がある。


「兎羽ちゃんは、そんなんじゃないよ」

「そんなんじゃないって? じゃあ、なに。なんだっていうの。特別な人間? 魔法使い? そんなのまだ信じてたの? いい、小枝。あたしたちは特別なんかじゃない、あたしたちは主人公なんかじゃない。ただのモブなの。平等に残酷に、他の人が辿った道を歩くしかない」

「でも、兎羽ちゃんはこれまでいろんな奇跡を起こしてきたよ。それって、私じゃ絶対に起こせないことだった。兎羽ちゃんはいつも楽しく生きてて、たまに危なっかしかったけど、それでも兎羽ちゃんを見てると勇気を貰えた。兎羽ちゃんに救ってもらって人って、たくさんいると思うよ。だから――」

「でも、切奈せつなは救えなかったじゃん!」


 頬に、小枝の涙が落ちてきた。


「病は気から、笑ってれば病気なんてなくなる。笑顔は奇跡を起こすんだってみんなも、医者も言ってたから、だから頑張った! 切奈に笑ってほしくって、治ってほしくって。でも、治らなかった! あたしは、魔法なんて使えやしない、ただの人間だった。それは奇跡を起こせなかった、切奈だって同じ。あたしたちは、特別なんかじゃない!」

「違う、違うよ」


 泣きたいのはこっちだ。必死で逃げてたのに、現実に戻されて、胸が苦しくなる。なんで、どうして、分かった、そうか。しょうがない、それが運命。それが生き物。いつかあたしも、仕方ない。抗えない。葛藤して、辛くなって、泣きたいのはこっちなのに。


「私たちはそうかもしれない、でも、兎羽ちゃんだけは・・・・・・」


 だから、酒なんて飲むなって言ったんだ。


「兎羽ちゃん、だけは」


 睨み合っていたあたしたちだったが、先に小枝が泣き疲れたかのように目を瞑り、あたしの胸に顔を預けてきた。目の前で、小枝が寝息を立てているが、掴まれた両手首には、しっかりと小枝の指が絡みつけられていた。


 小枝の体をどかして、横になる。


 現実に生きていると、どうしても何もかもが苦しくなって、その葛藤すら億劫になって、何もない世界に籠もっていたくなる。けれど、目を瞑ったあとの世界はあたしが思っている以上に曖昧で、思い出したかのように昔の鏡を見せてくるときがある。


「また、あそこへ行かなきゃ」


 人格更生プログラム。小枝は否定していたようだけど、そういう施設がある以上、需要があるのだから、そこに縋るというのは間違いなんかじゃない。


 小枝は酒を飲めば全部あやふやにできるのかもしれないけど、あたしはそうじゃない。忘れたいことも、起きている限り全部思い出してしまう。だから酔うまで、人よりも多く、体に酒を流し込まなくちゃいけない。


 そんなあたしを、小枝はどう思っているのだろう。


 ・・・・・・考えるのも、億劫だ。

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