第10話 命日


 ドアをノックする音で、あたしは目を覚ました。


 どうやらあれから随分と長い昼寝をしてしまったらしい。


 ドアのノックはもしかしたら気のせいだったかもしれないと枕に頭を預けていたが、再びドアが遠慮がちに叩かれたので、あたしは芋虫のように這い出て、玄関へ向かった。


「あ、お、おはようっ、兎羽とわちゃん。って、夜だからこんばんわ、かな」


 黄土色のダッフルコートを纏った小枝こえだが、マフラーに隠れた口をもごもごと動かしていた。肩にかかった雪を見て、あたしは空を見上げる。


「なんだ、雪降ってたんだ」

「う、うんっ。お昼はちょっと天気が崩れてたみたいだけど、今夜は四年ぶりのホワイトクリスマスなんだって。あのねっ、さっきそこのケーキ屋さんでケーキ買ってきたんだけど、よかったら一緒に食べない?」


 小枝は相変わらずの跳ねるような口調で、手に持った紙袋を見せてきた。


 あたしはまだ醒めきっていない蕩けた脳をぼんやりと意識に持ち上げながら迷って、しばらくしてから頷いた。その間、小枝はケーキの入った紙袋を握りしめ、プルプルと震えていた。


 小枝をリビングに通して、部屋が冷えていたことに気付き暖房を付ける。


「マレンカ、暖房」

『かしこまりました。温度は前回と同じ、22度に設定します』


 壁にかけてあるAI音声認識サービス、通称『マレンカ』に声をかけると、自動でエアコンが起動する。


 あたしが小さかった頃はわざわざ灯油を親と一緒に運んでストーブを付けていた覚えがあるが、ここ数年の間にずいぶん技術が進歩した。


 機械の描いた絵画が、とある美術展で開かれたコンクールで賞を取ったのをきっかけに、AIという単語が世に広がった。それ以降技術は飛躍的に進化していき、今やどこの企業にもAIが導入されている。街や施設内の清掃はすべてロボットが担うため、清掃業というもの自体が廃止されたのだとニュースでやっていたのもここ最近だ。


 もっとも、あたしにはどこか遠い場所の話であるような気がして、現在の世界情勢に興味があるわけではない。


 リュックを部屋の端っこに置いた小枝は、床に落ちている空き缶を見下ろして悲しげに目を伏せたが、すぐに笑ってこちらへ向いた。


「ここのフルーツケーキが美味しいんだって。本当は二つ買ってこようと思ったんだけど、最後の一個だから兎羽ちゃん食べていいよっ、私は一回食べたことあるから」

「そうなんだ、じゃあフォーク持ってくる」


 キッチンに向かって、棚からプラスチックの使い捨てフォークを二つ出す。小枝に渡して二人で食べるも、口に運んだフルーツケーキは甘いのか酸っぱいのか分からなかった。


 小枝はケーキを食べながら、時々視線をこちらに向けて何かを話したそうにしていた。それが煩わしくもあって、あたしは大して味わうこともなくケーキを食べ終えると、フォークをゴミ箱に投げて頬杖を突いた。


「なに? なんか言いたそうにしてるけど」


 フォークを咥えたまま、小枝が固まる。どうせそのつもりで来たくせに、どうしてあたしから歩み寄ったらそんな怯えるような挙動をするんだ。


 小枝は最後の一口を食べ終えると、紙袋を畳んでおしぼりで口元を拭いた。


「今日ね、切奈せつなちゃんの家に言ってきたの」


 予想はしていたことだったが、実際にその事実とその名前を出されると、脊髄に鉄を撃ち込まれたかのように鋭い衝撃と吐き気に襲われる。目眩がして、耳鳴りの中で小枝の声がくぐもって聞こえる。


「切奈ちゃんのお母さんにお願いして、お線香もあげさせてもらったよ。それから明日花あすかちゃんとも会った。すっごくキレイになっててビックリしちゃった。今は仕事の関係でこっちに戻って来てるんだって。切奈ちゃんのお母さんも、明日花ちゃんも、兎羽ちゃんに会いたがってたよ」


 髪を引っ張られ、強引に顔を上げられているかのようだった。目を逸らしたいのに、小枝はあたしのことを掴んで離さない。口の中に残るケーキの残骸が、ここが現実であることを助長して、ようやくあたしはこのフルーツケーキが苦いのだということに気付く。


 ほのかに香るカカオの薫りが、あたしの瞼をペリペリと剥がしていく。


「まぁ、そのうちね」


 自分でも、ガサガサの声だったのが分かった。感情も気力もない、表面だけをなぞって出た言葉だったが、小枝は嬉しそうに「うんっ」と頷いた。


「命日じゃなくったって、いつでも来ていいんだよって切奈ちゃんのお母さんが言ってた」

「説教するために?」

「ち、違うよっ。切奈ちゃんのお母さん、もう怒ってないと思うよ。お葬式のときはあんなだったけど、もうあれから四年も経ったんだもん。きっと切奈ちゃんのお母さんも、兎羽ちゃんに伝えたいことがあるんだよ」

「小枝はなんか聞かれた?」

「切奈ちゃんのお母さんには、今何してるの? とか、彼氏できた? とかそんなこと。兎羽ちゃんも知ってると思うけど、私はもうどこの会社からも採用もらえなくて、来年の春からはお母さんの知り合いの着物店で働くことになったの。そう伝えたら、切奈ちゃんのお母さん、頑張ってねって言ってくれた」


 小枝は大学に合格したはいいものの、まったく付いていけずに、毎回単位を落としそうになっていた。出席日数は足りているくせに、地頭が足りていない。小枝は小学校の頃から勉強はするくせに成績はからっきしだった。あたしはそれを近くで見ていたから、大学での小枝を見ても不思議には思わなかった。


 結局。親の顔色を窺って、すぐに就職への準備を始めたが小枝はことごとく不採用だった。おそらくは面接で落ちているのだと思う。跳ねるような口調、おっかなびっくりな挙動。人の顔色が第一で、自分の意思や決定権など一つも持っていない。そういったマイナスなアピールポイントを体現しながら、教えられた決まり文句をつらつらと音読するような小枝を見て、面接官は呆れていたのだろう。


「私、バカだけど、バカのままじゃいられないもんね。切奈ちゃんのお母さんの言うとおり、頑張って仕事して、頑張って大人にならなくちゃっ」


 小枝はどこを目指しているんだろう。どんな人間になりたいんだろう。透かして見ようとしても、小枝を操り人形のように吊す糸しか見えない。


「明日花ちゃんからは仕事の話を聞かしてもらったよ。今はAI・・・・・・じゃなくって、人工知能の研究をしてるんだって」

「それは葬式のときに聞いたよ。やりたくもないのにやらされて、あんなとこすぐ辞めてやるって言ってたのにまだ続けてるんだ」

「あのときとはまた違う研究所にいるらしいよ、最初は惰性でやってたけど、だんだんとAI・・・・・・人工知能にも興味が沸いてきて、今は目標も見つけたんだって嬉しそうに喋ってた。なんだったっけな、ほら、『AI暴走事件』だったっけ。あのときのことを研究してるんだって。なんだかカッコいいよね」


 『AI暴走事件』はまだ記憶に新しい。去年、ドイツのニュルンベルクで起きた、今世紀最大の死傷者を出した悍ましい事件だ。AIを研究していたとある施設で取り扱っていた清掃用ロボットが突然暴走して、厳重に管理されていたはずの施設の電源をすべて落として脱走を図った。それから近くの車屋で密売されていた銃を奪い、街中の住人を撃ち始めた。


 死傷者は約二百人。警察が到着し、ロボットを破壊することで事態は収まったが、現在も何故そのロボットが突然暴走したのかは解明できていない。


 通常、ロボットはプログラミングされたことしかできないため、もしかしたら最初から人を殺すための殺人兵器として作られていたんじゃないかという噂も広がり、中には人工知能ではなく、人工意識として意図的に人を殺したなんて言う人もいたが、結局政府はプログラムのエラーということで、同じ型番のロボットを回収することで事態を収束に向かわせた。


 しかし、行き場を失った遺族らの怒りや悲しみはいまだ晴れることもなく。各地でAI廃止のデモが行われている。


 そのため、AIという言葉はロボットに対する否定的な意味を持ち、人工知能という言葉と差別化を図られた。


 先ほど、小枝が言い直したのもそのためだろう。


「そうだ、ケーキと他に、お酒も持ってきたんだけど、一緒に飲まない?」

「え、なに珍しいじゃん。酒なんて酔うのが怖くて苦手だって言ってたくせに」

「たまにはいいかなって、それにクリスマスってお酒を飲む日なんでしょ? 友達がSNSで呟いてたよ。わ、私もそういうのしてみたいなって思って」

「あたしは別にいいけど、それ。他の人の前で言わないほうがいいよ」

「ど、どうして?」


 小枝は檻から出されたうさぎのように、リュックから取り出した酒を見つめている。鼻を効かせながら、それを飲むとどうなるのかすら分からないくせに好奇心に負けて顔を近づけていく。プシュ、と泡立つそれを口に含んだ。


 喉を鳴らして、むせて、ティッシュに手を伸ばす。自分がスカートを穿いていることも忘れて腰をあげて、口元を拭くと顔を赤くしながら恥ずかしそうにはにかむ。


 小枝をこれから、街にでも放り投げてしまおうか。そうしたらきっと、小枝はうさぎみたいにひょこひょこと歩き回っているうちに捕食者に話しかけられる。小枝は誰かの背中をバカみたいに追いかけて、誰かの真似をして、誰かの言うことを聞く。そういう生き方しかしてこなかったような奴だから、すぐに大事なものを奪われて、汚れた体を泣きながら洗い流すに違いない。


「酒飲んでもいいけどさ、帰りはどうするのさ」

「大丈夫、今日は自転車に乗ってきたから」

「はあ? こんな雪の中わざわざ自転車で来たの? 前も言ったけど、車持ってるんだから車で来なよ。近くの公園の駐車場空いてるから、そこに停めればいいし」

「で、でも・・・・・・自転車好きだし」

「あのね小枝。もうさ、子供じゃないんだよ。晴れた日に運動がてら自転車乗るくらい勝手にすればいいけど、こんな夜遅くに天気悪いなかわざわざ自転車で来るって意味わかんないでしょ。ちょっとは考えて行動しなよ。だから面接だって落ちるんだよ」


 言い終わってから、自分の動きすぎた口に気付いた。小枝は、あたしの言葉を聞いても自虐的な笑みを浮かべるだけだった。


 酒が回ってきたのかもしれない。胸に手を当てる。鼓動が遅い。顔に手を当てる。冷たい。ときに、酔いっていうのは残酷だと思うことがある。


 すべてを忘れられる人間と、忘れられない人間。今日、立房さんに言われた言葉を思い出すと、それがより鮮明になって、あたしと小枝の間に大きな亀裂を生み出した。


「泊まっていけば」

「え?」

「そんなに自転車乗るのが好きなら、明日の昼にでも、子供みたいに自転車乗って帰ればいいよ。シャワーくらい貸してあげるから」

「う、うんっ。ありがとう兎羽ちゃん」


 小枝に風呂場の勝手を教えてから、あたしはバスタオルを浴室に投げ込んだ。扉を開けたとき、肌色の小枝が鳥みたいな声をあげて丸くなったのが見えた。


 そんないきなり開けたつもりじゃなかったんだけど。



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