第3話 空を泳ぐ
移動した場所も変わらず雪景色でしたが、どうやら元は田んぼのようです。
「中に埋もれちゃったよぉ」
小枝さんが泣いています。小枝さんのハマった用水路は深く、中ではしっかりと水が流れていて、わたしたちが見たときにはもう靴はどこにもありませんでした。
用水路が埋もれるほどの雪の量です。そのまま抜けなくならなかっただけ幸運とも言えますが。
「だー! 間抜け! なにしてんのさ!」
小枝さんと顔を見合わせて息を呑んでいると、飛び込んだ場所とはまったく別の場所から兎羽さんが飛び出しました。
這い上がった兎羽さんが、雪の上を転がっていきます。穿いていたズボンは濡れてしまったのか黒く染まっていました。わたしと小枝さんは急いで兎羽さんの元へ駆け寄ります。
兎羽さんの手には、小枝さんの靴が握られていました。
「自転車引くのに夢中になるのはいいけど、それで靴片方なくしてたんじゃ世話ないじゃん」
「あぅ、ごめんね・・・・・・兎羽ちゃん」
「別に謝れなんて言ってないでしょ。ただ、小枝が靴なくしたなんて言ったらあのバカ親になにされるか分からないんだし、気をつけなってこと」
兎羽さんに頭をポンポンと優しく叩かれた小枝さんは、頬を赤くして頷いていました。
「兎羽さん、冷たくはないのですか?」
雪の下にあった水です。きっとつんざくように冷たいはずなのに、兎羽さんは躊躇なく飛び込んでいきました。
「冷たいに決まってるじゃん。だから早く行こう! 運動してあっためなくっちゃ!」
兎羽さんはズボンを絞って水気を取ると、一目散に広い場所を目指しました。小枝さんの方を見ると、赤くなった目を擦りながら、再び自転車を引き始めています。
「ここに台作ってさ、助走はこの辺から。三人乗るわけだから、うーんと、小枝はいつも通り荷台で、そんであたしがサドル。で、
「わ、わたしがですか?」
自転車なんて乗ったことすらないのに、それを操縦しろだなんて。わたしにはとてもじゃありませんが、できる自信がありませんでした。
「ハンドルを握るにしたって、どこに座ればいいのですか?」
「あたしの膝に乗ればいいよ。脚はカゴの下か、ライトの留め具に掛ける場所あるからさ」
「で、ですが」
「不安? でも見たくない? 空の旅の特等席。こんなの見られる機会なかなかないよ?」
特等席・・・・・・。その言葉の響きは、妙にわたしを刺激します。
「と、兎羽ちゃん。切奈ちゃんは初めてなんだから、無理させちゃダメだよ。怪我したら危ないし」
「いえ、大丈夫です。ハンドルは任せてください」
「だってさ、小枝は安心して荷台に尻乗っけてればいいの。それよりもなんだ、小枝が前に行きたい?」
小枝さんはブンブンと首を横に振りました。
「私は、兎羽ちゃんの背中だけ見てるから」
「謙虚だなぁ。空に飛んでから前が見たいって言っても知らないからね」
座る位置を決めたあとは、飛び台を作るようです。小枝さんがせっせと雪を集めて、形が崩れないよう用水路の水を混ぜながら固定していきます。わたしと兎羽さんはその間、充分な距離の滑走路を作るため、スコップで雪をのけていきました。
表面の雪は綿のように軽いですが、下に行くほど重くなり、スコップの先が何度も固いものに阻まれます。わたしはこういった力仕事にも慣れておらず、まったく捗りませんでした。
兎羽さんはわたしとは違って、ものすごい早さで雪をのけていきます。スコップを握る兎羽さんは汗を流し、目をキラキラさせながら笑っていました。
人は、あんな表情ができるものなのですね。
表情筋の固まった自分の頬を、つい手のひらで覆ってしまいます。
「切奈は知ってる? この世界ってさ、もうじき終わるらしいよ」
「え?」
兎羽さんは手を止めないまま言いました。
「ニュースでやってた。もうみんな知ってると思うよ? もうすぐ地球に隕石が落ちてくるんだって。こくぼうしょー? からの発表では、隕石の全長は地球の1.5倍で、互いの引力によって引き寄せられてるから衝突は免れない。兵器による撃退策も現実的じゃないし、そもそも大気圏外に有効な打撃を与える兵器を人類はまだ持ってないんだって。
だから生存確率は0パーセント。この前テレビで生中継してた総理の会見なんて『国民のみなさんは最後のそのときまで、愛する人と惜しみない時間をお過ごしください』なんて言ってたんだよ。それから数日は街中パニックでヤバかったなぁ」
「それは、それは大変なことじゃないですか! 私、そんなこと知りませんでした」
「あはは、だろうね。ぽけーっとしちゃって、明らか知らなそうな顔だった」
世界が終わる。その事実はとても嘆かわしく、悲しいことだと思います。
ただ、思うだけで、わたし自身、どういう心境でいればいいかが分かりません。どこか他人事のようでもあります。それはおそらく、わたしにとって、失うものがないからだと思います。
「なんか不思議だよね、切奈って。あんな部屋で暮らしてるもんだから、良いところのお嬢様かと思ったけど、結構アクティブだし」
「お嬢様だなんてそんなこと。わたしはただ、あそこでしか生きられない身なのです」
「どういうこと?」
「記憶がないのです。自分に関することだけ」
日常生活に関するものも含めて記憶がなくなっているのならまだ納得がいきました。けれどわたしは、わたし自身のことだけ、ゴッソリ切り取られたかのように知らないのです。
兎羽さんはスコップを突き刺して、一息吐きました。
「おー、記憶喪失ってやつか、そりゃ大変だね。その部屋でしか生きられないってどういうこと?」
「分かりません。ただ、そういう風に言われたのです。普通の人のようには生きられないと」
「そうなんだ、生まれつきの病気なのかな。前にテレビでやってたよ。世界にはそういう子もいるんだって。誰かから教えてもらってないの?」
わたしは首を横に振ります。一ノ瀬さんに聞いたら、答えてくれるでしょうか。
「だからわたし、自分の存在価値が分からないんです。目を覚ましたかと思えば自分に関する記憶がなくって、ただ目的もなくただ淡々と生きている。目を覚ましたのがどうして今じゃなくちゃダメだったのか。聞けば、もうすぐ世界が終わるって言うじゃないですか。なんで今なんでしょう。何か意味が、あるんでしょうか」
すると兎羽さんは手をパチン! と叩いて、わたしを指さしました。
「わっかる! なんで今なんだろうって思うこと、あるよね! あたしが生まれるのなんてさ、それこそ縄文時代とかでもよかったわけじゃん? それがなんで今なんだろう。スマホもあって、インターネットも普及してて、でも、人類が宇宙を目指して五十年しか経ってない、なんで今なんだろう! って」
兎羽さんはわたしの手を握ってはしゃいでいます。わたしもどうしてか、同じ悩みを共有できただけで、心が軽くなっていきました。
「けれどそれも、知ることはないのでしょうか。その前に世界が終わってしまえば、もう」
「そんなことないよ。切奈は知ってる? この世界ではね、最後まで諦めなかった者だけが、魔法を使うことができるの」
「魔法、ですか?」
突拍子もない言葉でした。しかし兎羽さんは、変わらず凜とした様子で話します。
「そう、魔法! そんであたしは、この世界の中でも生粋の魔法使い。ここらでは有名だからね、家の人にでも聞けば分かると思うよ」
ニシシ、と白い歯を見せて笑う兎羽さんの表情は、なにやら悪いことでも企んでいるかのようでした。
「世界が終わるだなんて言うけど、あたしはいまだに諦めてないからね。隕石なんてあたしが魔法で跳ね返してあげる! まぁ、デカイだけの奴らはあたしのこと信じてないみたいだけど」
「デカイ奴らとは?」
「街に出れば見られるよ。同じことしか言わないし、同じ場所をぐるぐる歩いてるだけのちょーつまらない奴らのこと。まぁ、あんな奴らに信用してもらわなくたっていいけどね。どうせあいつらは現実を見なさいとか言うばっかりで魔法の一つも使えないんだから」
同じことしか言わず、同じ場所をぐるぐる歩くだけ。明確には違いますが、わたしと似たものを感じます。ゴールだけが存在する意味のない毎日を、からくり人形のように過ごす、無機質な日々。たしかに、そんな日々を過ごす人に魔法なんて使えるはずがありません。
ですが、それよりも。
「魔法とは、比喩表現のことではないのですか?」
魔法のような、とか。そういうことを兎羽さんは言っているのだと思いました。しかし兎羽さんは、間髪開けず首を振って否定しました。
「ふふーん、じゃあ今から見せてあげる」
兎羽さんが自慢気に言ったところで、向こうにいた小枝さんがこちらへ駆け寄ってきました。
「踏み台、できたよっ」
しっかりと自分の仕事を完遂する小枝さんも、なんだかんだ、やる気満々みたいです。この二人はこうして、今まで何度も共に歩んできたのでしょう。その時間が、とても羨ましく思えます。
「滑走路も完璧だよ。よーし、よーし、それじゃあみんな位置につけー!」
兎羽さんがサドルに乗って、ペダルに脚をかけます。小枝さんが荷台にお尻を乗せて、兎羽さんの腰をギュッと抱きしめたのを見届けてから、わたしは兎羽さんの膝に乗せてもらいました。
兎羽さんの膝は筋肉質で、筋のような固い感触がお尻に当たります。水を吸ったズボンが冷たかったのも相まって「わひゃ」と声をあげてしまいました。
「それではこれから、離陸したいと思います。みなさま、良い空の旅を。ビッグフット」
「グッドラックね!?」
なんて雑なボケとツッコミなのでしょう。そう思ったときには、すでにペダルが回り始めていました。
滑走路を走る自転車は、スコップで削りきれなかった雪の残骸を踏みながらガタガタと音を鳴らします。揺れの激しい自転車の上で、わたしたちは扇風機に声を当てたときのような間抜けな悲鳴をあげながら離陸に備えました。
自転車のタイヤが踏み台を噛んだ、その瞬間。わたしたちは背負い投げでもされたかのように、地面に叩きつけられました。雪がクッションになったおかげで痛くはありませんでしたが、もし雪がなかったらと思うと恐ろしいです。
なんとか受け身をとれたわたしと兎羽さんとは違い、小枝さんは頭から雪に突っ込んで埋もれていました。小枝さんの脚を掴んで引っこ抜くと、踏み台が壊れていないことを確認してからわたしたちは再び自転車に乗りました。
それから五回ほど挑戦しましたが、やはり空を飛ぶことはできません。それどころか、ピョンと跳ねることすらできていませんでした。
三人も乗っているのですから、それも当然だと思います。物理法則的に、三人乗せた自転車が、たったこれだけの助走で、小さな踏み台を使って空を飛ぶなんて不可能なのです。
小枝さんはもう恐怖からか、泣きじゃくってしまっています。けれど、それでも健気に定位置について兎羽さんにしがみついている様子は、おかしくもありました。
わたしもわたしで、もう一ノ瀬さんが帰ってきてるかもしれない時間なのに帰ろうとは思いませんでした。
「次こそ絶対飛べる! まさか、二人とも、諦めてるなんて言わないよね!?」
どうしてか、兎羽さんの真っ直ぐな声を聞いていると、もしかしたら、と思ってしまうのです。
「いっくぞー!」
六回目の挑戦。兎羽さんも、小枝さんも、そしてわたしも。掴めるものすべてを掴んで、体を空に任せました。
がむしゃらに走った自転車は、チェーンを鳴らしながら、兎羽さんの脚に応えます。ものすごいスピードです。これまで感じたことのない風を全身に受けながら、最前席に座ったわたしの視界が、めまぐるしく変わっていくます。
踏み台を超えた次の瞬間、自転車が回転しながら宙に浮かび上がりました。一回、二回、三回、それから半回転して、わたしたちの体が空中に投げ出されます。
重力を手放したわたしは、まるで鳥のように滑空していきました。降り積もった雪が遥か下にあり、見上げると太陽と空が身近に感じて、しんしんと降り続ける雪と一緒に空を泳いでいるようでした。
こんな景色、あの部屋にいたら絶対に見られなかった。
退屈や無価値から解き放たれたその時間は、永遠とも、一瞬とも感じました。
それから体が落ちていき、雪の上を転がると、わたしたち三人、同じような場所で大の字になりました。わたしたち三人の吐息が白い煙となって、いまだ空を目指しています。
「すっごーい! 見た!? マジで三回転しちゃったよ!」
「うん、すごい。すごいよ兎羽ちゃんっ!」
二人はすっかり興奮したようでしたが、わたしはいまだ、空を飛んだときの余韻に浸っていました。鼓動する、自分の命の輝き。ずっと不明瞭だった、わたしの存在に、少しですが、色が付いたような気がしたのです。
「ね、どうだった?」
隣から、兎羽さんの声が聞こえてきます。
「すごかったです・・・・・・! 本当に、鳥になったみたいで。空がこんな、近くにありました!」
「それはよかった。もしよかったらなんだけどさ、切奈のことまた誘ってもいい? 切奈はなんか、他の子とは違って魔法の素質がありそうだから」
「はい、是非。こちらこそ、よろしくお願いします」
大の字になったまま、兎羽さんと手を繋ぎます。そしてもう片方には、小枝さんの手を。三人で繋ぎ合ったわたしたちは、一つの輪となって、雪の上に広がります。
生きていても意味がないなんて言っていたわたしが、バカみたいです。
世界はこんなにも、楽しいじゃないですか。
わたしの命に、意味をもたらす。
兎羽さんはたしかに、魔法使いなのかもしれません。
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