第2話 窓の外へ

 朝起きたらまず体温を測り、必ずコップ一杯の水を飲むように言われます。それから朝ご飯を食べて、歯を磨いたあとは脚や首元などをマッサージしてもらうのですが、その間、わたしは子供向けのテレビ番組をぼーっと眺めているだけです。


 お昼になればまたご飯が運ばれてくるのですが、それまでまだ時間があるので、一ノいちのせさんが持ってきてくれた本を読んで時間を潰します。本は活字が多いせいで読むのが難しく、あまり頭に入ってきません。それでも、一ノ瀬さんが言うのならと、一生懸命ミミズみたいな文字を追いました。


 時々、隣の部屋から大きな音が聞こえてきます。この家にはわたしと一ノ瀬さんの他にもう一人棲んでいるらしく、名前は明日花あすかさんと言います。


 一ノ瀬さんと明日花さんは仲があまり良くないらしく、一ノ瀬さんの言うことに、明日花さんはたびたび反抗して、苛立ちを部屋の壁にぶつけているらしいのです。


 わたしは基本的にこの部屋から出ることはできないので、明日花さんと顔を合わせたことはありません。ただ一度だけ、明日花さんの後ろ姿を見たことがあります。


 一ノ瀬さんがドアを開けた一瞬に見えたのですが、明日花さんは鮮やかな金色の髪をしていました。それはまるで、街に煌めくイルミネーションのようでした。


「これからお昼ご飯買ってくるから、ちょっと出かけるわね。今日は切奈せつなちゃんの好きなおうどんにしようと思うの」


 せつな、セツナ、切奈。自分の中で、何度も復唱します。それが今のわたしにとって唯一の、わたしの存在を証明できるものでした。わたしは切奈。しかしたった、それだけです。

 

 わたしには記憶というものがありませんでした。生まれたときからずっとそうです。日本語を頭の中で空回しするように自問自答しても、自分自身に対する記憶だけが、わたしにはないのです。


「それじゃあ行ってくるわね」


 一ノ瀬さんが軽く手を振ってからドアを閉めます。そのときに、カチャ、と確かな金属音がしました。


 そのあと、こっそり布団から出てドアノブを回してみましたが、やはり開きませんでした。一ノ瀬さんは必ず、ドアに鍵をかけていきます。


 わたしはとっくに読み飽きていた本を閉じ、ラジオ感覚で垂れ流していたテレビを消しました。


 窓の外を眺めると、やはり、雪が降っています。毎日のように雪、雪。と代わり映えのしない景色は眺めることさえ億劫になっていきます。けれどそれしか、やることはないのです。


 一ノ瀬さんは何度も説明してくれました。わたしが普通ではないことと、このままじゃ命に危険が及ぶこと。でも、きちんと管理すれば人並みに生きていけること。


 わたしが普通の人と違うということは、わたし自身なんとなく分かっていたので驚きはしませんでした。


 しかし、だからこそ教えてほしいのです。わたしはこの部屋で、何のために命をつなぎ止めているのかを。


「なんのためにあるのか分からない命に、価値などあるのでしょうか」


 ただれたゴムのような命からは異臭がします。わたしの心臓は、焼ければいいと思っている。だから焦げて、灰ばかりが胸に降り積もって残っていく。


 これなら、目なんて覚まさなければよかったのに。


 延々と降り続ける雪を、窓越しに眺めて意味もなく時間を潰していた。そんな時でした。


「むりむり! ゼッタイむりだよー!」

「いけるいける! 小枝こえだが手離さない限り落ちたりしないから!」

「そんなこと言われたって・・・・・・きゃー!」


 窓の外から、声がしたのです。それも、ただの声ではありません。


 最初は悲鳴かと思いました。けれど、悲鳴にしてはどこか緊迫感がなく、間延びしています。声は二つ重なっていました。散々叫んだあと、静かだった雪が降るだけの世界に、大きな笑い声が響き渡ります。


 そこでわたしは、思い切り窓を開け放ったのです。


 声の主は、思っていたよりも近くにいました。


 わたしと、同じくらいの女の子が二人。こんな雪の積もった外で、自転車に乗っています。頬に切り傷の跡があるショートカットの子が自転車に乗っていて、もう一人の子は自転車からずり落ちている途中でした。


 わたしと、頬に傷跡のある子の視線が、五秒ほどでしょうか、混じり合いました。その間に、ずり落ちていた子がようやく体勢を直して自転車の荷台に腰を落ち着けます。


 その子はぐずぐずと泣きながら、頬に傷跡のある子の腰をギュッと抱きしめていました。


「だから離すなって言ったのに」

「ぐずっ、だって。そもそも、雪で台を作って跳ぼうなんて無茶だったんだよぉ、肝心の台はすぐに壊れちゃったし」

「それは小枝の作り方が甘かったんでしょー。いいよ、次はあたしが作るから。中に石ころ詰めれば多少は頑丈になるでしょ」

「あ、危ないよっ!」

「あたしは怪我の直りが早いからいいの。それより、ん」


 頬に傷跡のある子が顎でわたしを指します。さっきまで泣いてた子がわたしを見ると、小鳥のようにこっくりと首を横に傾げました。


 わたしはどうすればいいか分からず、とりあえず頭を下げて挨拶をしました。


「あなた、名前は?」

「あ、あの。切奈と言います」

「つな?」

兎羽とわちゃん。せつな、って言ったんだと思うよっ」


 泣いていた子も、鼻先を赤くしながらこちらに近づいてきました。


「へー、なんか缶詰みたいな名前だね。あたしは兎羽。そんで、こっちのポッキリ折れちゃいそうなくらい細いのが小枝ね。小枝はもっと食べたほうがいいよ。そのままじゃほんとに枝になっちゃう」

「そこまで細くないよ!? 最近は食パン二枚だって食べられるようになったんだからっ。って、切奈ちゃんだったよね。よろしくねっ」


 兎羽さん。それから、小枝さん。


 なんだか二人とも正反対の性格をしているのに、二人の間にはとても強い絆のようなものがある気がします。そう感じるのはきっと、投げ合う会話の裏に確かな気遣いが垣間見えるからなのでしょう。


「切奈は本とか読むんだ。うわー、難しそう。うちの親もそういうの読んでるけど、なにが面白いんだかさっぱり分からないや」


 兎羽さんが、枕元に置いてあった本を見て言います。


「いえ、わたしもそんなに読んでるわけじゃないです。どちらかというと、見てる、というべきで。あまり頭には入っていません」

「えー? それじゃあ意味ないじゃん。なんでそんなの読んでるの?」

「読むように、言われたからです」


 わたしにとって、一ノ瀬さんの言葉が全てでした。記憶のないわたしにとって、一ノ瀬さんの言葉は白紙に絵の具を一滴垂らすのと同じなのです。だからわたしはこの部屋で安静にしているし、時間をただ浪費しないために本を読んでテレビを見ている。


 一ノ瀬さんいわく、わたしは普通の人間のようには生きられない体みたいなので、知識のある一ノ瀬さんに管理されながら生活するのが、最善なのだとは思います。ただ、正しい道というものは、とても安全で、平坦なものでした。


「読むように言われたからって、つまらないなら読む必要なくなーい?」

「でも兎羽ちゃん、私は切奈ちゃんの言うこと分かるかも。やれって言われたことはやらなきゃだし、やらなかったら怒られるし、悲しませたくもないから。だからイヤでもやらなきゃってときはあるよねっ」


 小枝さんと兎羽さんが、窓の下を陣取って話し合います。小枝さんの意見に対して、兎羽さんは不満げな顔をしていました。


「そんなこと言ってるから小枝はいつまでもあの親の言いなりなんだよ。小枝の将来の夢ってラジコンなの?」

「そうじゃないよっ、でも。お母さんがあんなに言うのは私がバカだからで・・・・・・私がもっと頭良くなればお母さんもきっと安心して優しくなってくれるはずだから」


 なにやら二人の間に、というよりも、小枝さんの表情に陰がかかったように見えました。わたしの視線に気付いた兎羽さんが、肩を竦ませます。


「バカにならないように気をつけすぎて、バカになってんの」

「は、はぁ」


 なにやら、わたしには知り得ぬ事情があるようでした。


「ね、切奈は今暇? よかったら一緒に空飛んでみない?」

「空、ですか? 空って飛べるものなのですか?」

「そりゃもちろん! 空は鳥だけのものじゃないよ。あたしたちにだって、空を飛ぶ権利はある! 地面に寝っ転がってるだけなんてもったいないよ!」

「と、兎羽ちゃん!? まださっきのやるつもりなの!?」

「当たり前じゃん。人数増えて、前人未踏の三人での飛行! 重さがあったほうが勢いも増しそうじゃない?」


 小枝さんの顔がみるみる青ざめていきます。


「あ、あのね切奈ちゃんっ。イヤだったら全然断っていいからね。というか、断ったほうがいいと思う!」


 先ほどの会話を聞くに、おそらく二人は、この自転車で空を飛ぼうとしているのでしょう。小枝さんは自転車からずり落ちて頭から雪に突っ込んでいた当事者なので、怖いのは当然だと思います。


 わたしは、ドアの方を見ました。


 一ノ瀬さんは買い物に行っていて、おそらくわたしのお昼ご飯を買ってくれているのだと思います。何時ごろ帰ってくるかは分かりませんが、もう少しの間、かかりそうです。


 部屋の中には加湿機と空気清浄機が置かれていて、遮光カーテンが窓を隙間なく覆っています。毎日同じような番組ばかりを流すテレビ、感情のない文字だけが羅列された興味のない本。途切れることのない暖房。コップに汲まれた水と、横に置かれた錠剤。


 わたしを生かすためだけにある充実したこの部屋に、わたしは目的通り、ただ生かされています。


 結局、記憶を失う前のわたしは何をしていたのか。わたしの体はどういう状態にあるのか。何も分かっていません。


 けれど。


「ね、行こうよ! 切奈!」


 差し出された手のひらは、まるで白紙に一滴垂らした絵の具を上から塗りつぶすような、乱雑で濃密な、ペンキの役割をしているように思えました。


「はい、ではよろしくお願いします」


 わたしは手を取り、窓の枠に脚をかけると、そのまま飛び降りました。


 兎羽さんがわたしを抱き留めて、隣では、小枝さんの驚く声が聞こえています。


 わたしが、何のために生まれたのか。


 それを知るためには、この人たちが必要なのだと思いました。


「それじゃあ行こう! まずは三回転半を目指して!」

「いきなり!? まずは跳ぶことから始めようよ!」

「目標は高く大きく! そのほうが楽しいよ! 人生なんて、一回きりなんだから」

「・・・・・・もう、分かったよ。それじゃあ、今度はちょっと離れた場所でやろ。あそこなら積雪も多いし、転んでも怪我しないと思うからっ」

「せきせつ?」

「雪の積もってる量ってことっ! 兎羽ちゃん、授業ちゃんと聞いてる?」

「かー! これだから良い子ちゃんは!」


 兎羽さんが囃し立てるように言うと、小枝さんは諦めたような表情で、自転車を引いていきます。


「切奈も行こ」

「・・・・・・はい」


 どこへ? 


 そういう疑問はきっと、今は不要なのでしょう。これからどこへ行くのか、そういうワクワクが、今は勝っています。


 兎羽さんに手を引かれながら、わたしは未知の世界に脚を踏み入れました。


 いろんなものが落ちている。見つけたいものがそこにある。そういう、夢のような世界に。


「兎羽さん」


 わたしの手を引く彼女の顔を見ながら、問いかけます。


「どうして、泣いているのですか?」


 兎羽さんは、答えてくれません。


 まだ、知らないことばかりです。


 

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