さよならのキス

おはようのキスが好きだった

おはようのキスが好きだった。毎朝、同じ時間、同じ場所に唇をそっと触れさせて、彼女の柔く滑らかな肌に触れる。黒くふさふさとした長い睫毛が震え、頬に影を落とすのを、すぐ近くで感じるのが好きだった。弱い彼女と、今日を迎えることが出来る喜びを、胸に抱え、心臓を震わせた。彼女といると、僕の心臓は常に歓喜していた。

「おはよう······」

寝起きの掠れた、それなのに美しく艶やかな声で僕の鼓膜を震わせる君に、僕も心臓をいつもより活発な速度で、ますます震わせることになる。いつか、いつか、僕の方が彼女より先に召されるのではないかとすら感じられた。高い窓から差し込む陽の光に負けないくらいあたたかく微笑む君に、されど少し冷えた君の頬に、おはようのキスを送るのが、日課だった。

「嗚呼、おはよう」

手を取る。

「今日は朝ごはん、食べられるかな」

寝癖を治してやる。

「空を見てごらん、天気がいいね」

頬を撫ぜる。

「新しい服を買ってきたんだ、着てみて、きっと似合う」

目を合わせる。

「今日は一日そばにいられるよ」

彼女は胸元で手を組みながら、嬉しいと言って笑う。歓喜に震えているのが、愛おしかった。

「うん、僕も嬉しいよ」

彼女が大好きなメニューを揃えたテーブルへと手を引く。彼女はよろめいて、僕に、とっ、と飛び込んだ。少し寒いのかもしれない。起き抜けの体はやはり、ひやりとしていた。包んで、抱きしめて、暖めてやった。

この世に溢れかえっているような言葉では到底表すことのできない美しさを持つ君と、ずっと一緒にいられるなんて、なんて素晴らしい。

「少し顔色が悪いね······」

睫毛が、吐息が震えた。

「大丈夫かな······」

ふるり、首を振る。

「もしかして、外に出たい?ごめんね、外は······」

彼女は沈黙した。

「······」


***


おはようのキスが、好きだった。

おはようと言って、笑みを浮かべる君に、おはようのキスをするのが。

キスをする度に嫌そうに顔を顰めて僕を押しのける彼女に、キスを送り続けるのが好きだった。

彼女は寝起きの顔にキスなんかされたくないと言って、僕を押しのけるけれど、彼女の耳は、頬は、雄弁だった。


なぜ彼女は。


***


「あー······」

無意味な音を喉から出して、髪を掻いた。ガリ、ガリ、爪が伸びているのが分かった。僕は悪い癖は改めないといけないと感じた。そう、例えば、爪で頭皮を掻くのは辞めよう、とか、靴下を裏返しのまま洗濯機に入れるのは辞めよう、とか、出来損ないの人形を拾ってくるのは、もう辞めよう、とか、考えた。

彼女に似ているようで、性能(中身)が全く別物であるものに縋ったとて、意味などないのだと、分かっていたのだった。分かっていて、僕は縋っていた。こんなに僕は弱い男だっただろうか。

「ダ、メだ、ダメ、だ」

どれもこれも美しく微笑んでいるつもりの表情を貼り付けて、彼女に全く似ていない。いや、顔は似ている。美しくもある。なのに何故こんなにも違うのだろう。目の配置、鼻の高さ、頬の柔らかさ。僕は凝り性だから、きっと、間違ってなどいないはずであった。いや、きっと、間違っていない、はずであった。

少しだけでも似た声で、おはようと言われれば、反射的に心臓はざわめきたてる。それはつまり、僕の選んだ女性は、確かに彼女に類似しているはずであった。微笑む姿も似ている。問題はその後だった。


彼女は僕のキスをまるっと笑って受け入れたりなんかしない。


「なァんか、違うんだよ。何が違うんだ、何が」

キスの度に恐怖の感情に揺られ、睫毛を震わす女が、僕を見上げた。

彼女は僕に怯えたりなんかしなかった。朝ごはんは毎日食べる子だった。出不精で、外に出たいなんて、滅多に言わない子だった。お世辞だって、言わなかった。正直で優しくて美しくて、少し、照れ屋だった。


これは、だいぶ長くもった方だった。駄目だった。捨てようと思った。これが今までの中で一番彼女に見目は似ていた、もったいない気もしたが──。

「いや」

こんなに取り替えても、取り替えても、取り替えても、あの頃の彼女に近づけないのならいっそ、自分で作りかえてしまえば良いのではないか?

「名案すぎる」

僕は震えた。そう、歓喜に、震えた。自分の天才的で、絶対的にブラボーだと思える発想に、少し恐怖した。しかしそれを嬉しさが上回った。

彼女を組み敷くようにして、にっこり笑ってみせる。彼女は僕の笑顔が大好きだった。彼女でない女が、顔をひどく歪めて、僕を押しのけた。

「あ」

僕は最高に嬉しかった。

「その顔、ちょっと似てる、歪めすぎだよ、もっとさァ、ァ、もうちょっと、あれ?」

そういえば、と思い出す。捨てようとして、捨て場がなくて、困り果てたあとに、溜めるしか出来なかった彼女たちがいた。繋ぎ合わせればきっと、もっと彼女に似るんじゃないか。

「僕、天才か?」





「ア!」

色々手を加えたら、彼女そのものの姿になって、それは僕の前に横たわっていた。継ぎ接ぎが目立つが、それだけだ。さしたる問題ではない。ウンウンと頷く。いや、しかし、最高の出来だ。僕は自分の才能が恐ろしくて仕方ない。最初からこうすればよかった。僕も馬鹿な男だ。

高い位置にある唯一の窓から陽の光が差し込んで、僕と彼女を照らしている。

「おはよう」

彼女は少し顰めた表情で僕のキスを受け入れる。顔なんて、取り替えてしまえばどんな彼女の表情も出来る。最高だ、最高だ、最高だ。

今までのは、試作品か何かで、きっと、本物の彼女を見つけるために、必要なものだった。嬉しい。また会えたね。もう、置いていかないでね。


ほら、他の彼女たちには、敬意と感謝を込めて、さよならのキスをしようね。

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