狂言回し

彼女に何があったのか

「事の始まりは、」と彼は言った。

目の前の男は、目を逸らし、僕もその視線の動きにつられながら、言葉を待った。早くなにか云ってはくれやしないか、僕から何か云ってやろうか、口を開いた。目の前の男も口を開いた。耳を傾ける。


全ての事の始まりは、彼女が、いや、彼女の、違う、彼女だった。そう、彼女である。僕の恋人、美しい人、彼女が始まりであり、全てである。彼女は寂しい人だった。僕に縋っていないと生きていけないような、哀しい人だった。彼女の家は、冷たい家だった。彼女が僕に縋って暖をとろうとするくらいには、凍えた家だった。僕がもし彼女と同じ立場だったら。僕も僕のような男に縋ろうとするだろう。そう思う。けれど僕は楽しい男ではない。暖かい男ではない。程々の男である。彼女は人を見る目がなかった。人を見る目があるフリをした、ただの女だった。例えば僕が彼女の寂しさを消し去るだけの何か楽しさを兼ねた男であれば、例えば僕が彼女が家でも生きていけるほど暖めてあげられる何かを兼ねた男であれば、きっと事は起きなかったに違いない。事が起きてしまったと云うことは、つまり、そう、僕にその器量はなかったと云うことである。分かり易いだろう、そうだろう、君にも分かるように云っている。

彼女は云った。いつかあの家を出るの。僕は云った。出たら何処に行くの。彼女は笑って何かを云った。それはきっと、僕のいる処とか、そんなことであった。そのあとの彼女との快楽に溺れて、詳細は覚えていない。

彼女は計画した。大して良くもない頭を振り絞って振り絞って、なんとか常人並のアイデアを出そうとした。結論馬鹿みたいなこの計画を実行するに至った。僕も馬鹿だった。快楽に溺れた男はみなこうであるから、僕が特別馬鹿な訳では無い。あの時だけ馬鹿であった。

彼女が誘拐されるに至った経緯は以上である。それ以上はない。この事件は、彼女があの冷えきった家を出たいから起きたことであった。あの家が暖かければ、彼女が寂しがり屋でなければ、起きなかった。僕に非はない。あるとすれば、それは彼女と、彼女の家にある。仕方がないと諦めてくれ。僕に止められなかったと云うことは、どうせ君にも止められなかったろうと云うことだ。

だからあれから起きたことは、僕にも知らされていなかったことだし、彼女が勝手に行ったことである。僕は怒っているんだ。僕に誘拐の発端を掴ませておきながら、その先を勝手に決めて、行動したことは、許されないことだと思わないか。

彼女が彼女の家から消えた後、僕は彼女の家に電話をかけた。最近はいいね、簡単に声を変える機械が手に入る。その間彼女はちっちゃな倉庫で蹲って、くふくふ笑っていたようだ。彼女がこの計画で得たかったのは、彼女の家族からの注目であった。それだけのために、僕はこの片棒を担いでやろうと思った。構われたがりの彼女を、仕方ないなと思いながらね。僕は適当にアリバイを作りながら、数日を過ごした。

まさか彼女がその間に、死ぬなんて思わなかったからね。

どうしてだと思う。僕のもとに来ると云ったくせに、どうして彼女は死んだと思う。彼女の家は、彼女が誘拐、それは狂言だったわけだけど、されても尚、彼女のことを見なかった。彼女はいっそ、幽霊だったのかもしれないね。僕だけに見えるお化けだったのかもしれない。けれど僕が彼女のいる倉庫に行ったとき、彼女の肉体は確かにそこにあって、気持ちの悪い肌の感触を晒していた。どうして温度のない肌はあんなに気色が悪いんだろう。君、知ってるかい。いや、僕が知らないのに君が知っている訳がないね、ごめん、ごめん。見つかった彼女を前に、彼女の家族は一雫の涙も流さなかった。彼女はいっそ、家族型ロボットだったのかもしれない。けれど燃やされて出てきた彼女には機械の部品はなく、きっと僕と同じ骨だけがそこにあった。熱気に包まれて、呆然として、僕は帰ってきた。ほら、君も僕も、黒いネクタイが洒落ているだろう、ハハ。

これが起こったことの全てさ、ハハハハハ。


彼は夜を映す硝子の向こうで、僕と同じ顔をして笑った。

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