感覚異常

何が正常なのか

一 視覚


 少女はヒトの顔と名前を覚えることが、すこぶる苦手であった。より正確に彼女の性質を表せば、少女にはヒトの顔が見えないのであった。彼女の周りにいる人間という人間──稀に動物でさえも──一様に黒い仮面を被っているのである。見えないから覚えられない。顔が分からないので名前と顔を一致させられない。学生時代は地獄のようであった。みながみな同じ制服を着て同じような髪形をしている。少女はヒトと距離を置いて話さずに済む方法を身に着けていた。もはや声や、それなりに慣れれば雰囲気で察して話をするしかなかった。きっと私の眼に、カミサマが意地悪をしたのだわと思っていた。幼い頃は普通にヒトの顔が見えていた。気づいたらみんな仮面をつけていたので、そうだと思うしかなかった。仮面というのは、安っぽい黒の絵の具で塗りたくられた、楕円形の何かである。素材などは分からなかった。ただ、元は白であったのか、塗り残した部分が時々ちらりと見えて、それを見るたびに少女は、カミサマというのは、随分と塗り絵が下手くそなのだなとだけ思うのである。鏡を見るたびに少女は首を傾げる。少女の顔に、仮面はない。


二 聴覚


 青年は人の話を聞けない人間であった。より正確に青年の性質を表せば、青年には人の声だけ聞くことが出来ないのであった。青年の周りにいる人間という人間は口をぱくぱく動かすだけで、音など一声も発しないのであった。鳥や犬や、無機物でさえ騒音を出すというのに。昔はそうではなかった。青年が幼児であった頃は、話すのが大好きな子供であった。周りが話すのを聞くのも大好きであった。それが突然聞こえなくなるものだから、目を白黒させて、叫ぶように掴みかかったりもした。きっとおれに意地悪をしているんだろうと思っていた。そうではなくて、自分が異常なのだと気づいた。するといつしか青年は、常にイヤホンを付けるようになった。聞こえもしない歌詞を聞いて、ひとの声を無視するようになった。聞いていなければ、聞こえないのだから。ヒト以外が騒がしい街で、青年はただ耳を塞ぐ。青年には青年の声だけが人の声であった。


三 感情


 少年は他人に共感することが出来なかった。より正確に少年の性質を表すならば、少年は、感情を動かすのが、他人より数時間も遅れてしまうのであった。何も感じない訳では無い。むしろ人一倍感情は強く表出するような人間だった。ただ、ひとから何かを言われたり、されたりしても、すぐに反応することが出来ない。昔から運動は出来、反射も鈍くなかったはずなのに、いつの間にかそうだった。誰かと話せば、喜怒哀楽がその日の夜に来てしまうのなんて当たり前で、少年を、周囲は他人に関心のない、情のない人間なのだと評し、囁いた。情なんてしんでしまったのだろう、と言うのである。どうせ何も感じないのだろうと、意地悪をしてくる輩も増えた。その噂や、仕打ちすら、少年は何日も後になって、理不尽だと泣きたくなるのであった。少年の心は、まだ生きている。


四 正常


――彼女は、


 彼女は人の顔と名前を覚えるのが苦手であった。見えないものは覚えようがなかったのだから。生まれてこの方、自分の顔すら見たことがなかった。自分の肌色の淡さ、髪の艶は、爪半月の大きさだって、知らない。触れて、ようやく分かるのは形だけで、色も光も知らないのだ。ひとはそれを異常と捉え、治療しようとし、しかしそれも無理だと、可哀想だとよく言った。彼女は人の話を聞けない人間であった。人の声どころか、全ての音が聞こえなかった。自分の声で喉が震えど、それが何と発しているかは分からなかった。名前の書き方は覚えど、どんな音をしているのかは知らなかった。そも、音とは何か、知らないのである。ひとはそれを異常と捉え、治療しようとし、しかしどうにも出来なくて、憐れだとよく言った。彼女は常に凪いだ心をしていた。心を波打たせる気力が無いほど、日々に擦れていった。同じ時間、違う人物が、同じ検査をしては、去っていき、家族すら見捨てて何も無い視界の中、何の音もなく、何の刺激もない中で過ごしていくのであった。彼女は知らないが、白と薄い緑色だけの病室で、見舞いのいない病室で、ただ日々を費やしていく彼女を、ひとはやはりどうにかしたくて、けれどどうもできないので、お気の毒だと勝手に思うのである。

 しかし彼女は彼女を正常だと思っていた。他を知らぬ彼女は、それが、正しい状態であった。何も無い中、何も聞こえない中、何の刺激もない中で生きていくのが、もはや当たり前であった。別に可哀想でも憐れでもお気の毒でも何でもなく、ただ、意地悪してくる世の中で、ちょっと生きづらい身体に生まれただけの、偶然なのだと思っていた。彼女は最期に問うた。

「先生、何を以てして、正常と成すのですか」

 彼女は見えぬ聞こえぬ、感じることすら鈍かったが、不自由だとは感じていなかった。それが、普通だから。けれど外野が、さぞ不便かろ、もっと普通に生まれればよかったのにな、と言ってくるので、それだけ、なんだか可笑しいなと思っていた。

 彼女の身体は、正常なその時を止めた。

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