第32話 異世界の実感

 保健室……というか、『癒しの小神殿』を後にすると、僕は理事長室に向かうことにした。


 廊下に出ると、まず目につくのが床の改装だ。床がリノリウムではなく石造に替わっている。


 廊下の窓は以前のままだ。城塞にしては無防備な気がする。窓から夕暮れの校庭を見下ろした。確かに男子寮、女子寮らしき建物がある。隅には物見やぐらがあると言われていたが、僕の想像とは違った。石造の立派な塔である。


 高い城壁が見える。城壁の外側にさらにもうひとつの城壁が建造中のようだ。

 城壁と城壁の間は見えなかったが、おそらく城塞関係者の住居が造られるのだろう。


 城壁越しに森が見える。

 大森林だ。

 窓を開ける。東京の空気の匂いではなかった。土の匂いに樹木の匂い。

 風が吹いた。乾いている。いっそ爽快なくらいだった。


 ──僕は異世界にいる。


 そのことを実感せずにはいられなかった。早くも郷愁に駆られて泣いてしまいそうだ。


 廊下は静かだった。みんなはどこにいるんだろう? 僕のロングレザーブーツが立てるコツンコツンとした音だけが響く。


 よく寝たせいか、いまはものすごい空腹感に襲われていた。

 性欲が満たされたことも大きいかもしれない。

 ドラゴンブレスはまだまだ吐き出し足りなかったけど、精神的に満足だった。自分でするのと大違いだ。

 睡眠バッチリ、性欲スッキリなので、おあとは食欲のみといった感じだった。


 売店に寄りたかったけど、そもそもこの城塞のなかに売店が残っているのだろうか。それに買うお金もない。


 ん? こちらの世界は、貨幣制度はどうなっているんだろう? 僕の知ってる異世界ファンタジーなら、貨幣経済がすでに発達しているはずで、円に代わる通貨があるはずだった。


 そもそも学校が城塞に様変わりしたところで、この世界で独立してやっていけるのだろうか?

 ひとつの城を維持するためには、その数倍の農地が必要だったはず。

 農業も機械化や農薬などの発展がなければ効率も悪いだろうし。


 そのあたりの事情を知るためにも、理事長の呼び出しに応えるのにやぶさかではなかった。

 なかったけど、気鬱であることも確かだ。


 王都に行け、とか、言われるんだろうなあ。

 王都に興味がないわけではなかったけど、それよりもゆっくりしたかった。


 ゆっくりゲームなり読書なりをしたかった。

 あ。この世界、ゲームはなかったんだっけ。

 読書は……この世界の文字が読めるかどうか。

 会話ができるのと、文字が読めるのとでは、また別だからね。


 会話? そう僕たちは会話ができた。第一言語というのかな、母国語と同じレベルで。

 テレパシーとは違う。英語が苦手な僕が、ヒヤリングであくせくしないで済んだが、確かに外国の言葉だった。


 そんなことを考えていると、ちょうどこの世界の人間とおぼしき二人組に出くわした。


 二人組は僕に気づくと真っ直ぐに近づいてくる。

 日に焼けた顔に白い眼光が鋭く光っていた。


 二人とも武装していた。

 一人は革鎧、一人は鎖帷子チェインメイルを着ている。

 兜は二人とも金属製で、バイザーがないタイプだ。

 革鎧の方は長剣ロングソード、鎖帷子の方は鉄棍メイスを腰にぶら下げている。

 革鎧の方はのっぽで、鎖帷子の方はずんぐりしていた。


 いまは授業中なのか、廊下には人影がなかった。

 そこを歩いていた僕は、不審人物と思われても仕方がない。

 なにせ鎧に着こんでいる。授業をサボっているだけの生徒とは思われないだろう。


「ア・レグ? セイン・デ・クロスナ」

 と、こんな感じが、

「誰だ? 名を名乗れ」

 と、理解できるというわけだ。


 むしろ、意識してないと外国の言葉に聴こえないくらいだ。


「エ・レグ、ショウタ・コモリ、セイン・ア」

 と、流暢に喋ることができる。こちらも意識してないと日本語を喋っている感覚だ。


 英語をまったく喋れない僕だが、バイリンガルとは違う感覚だそうだ。

 これは後で英語の北川英理子先生から聞いた話。

 日本語ばかりではなく、英語も自動的に理解できるらしい。

 両言語とも現地語になってしまうので、英語の授業の意味がなくなってしまったと嘆いていた。


「きみのことは聞いている。早く理事長室に向かいなさい」

 鎖帷子を着こんでいるのは、丸顔の中年男だ。鼻の下に髭をたくわえている。


 僕は質問のチャンスを逃さなかった。

「少し質問、いいですか?」

「ダメだ」

 と、即答したのは、革鎧を着こんだ若い男。面長の顔に細い目が尊大な光を宿していた。

 それを制したのは、中年男。

「手短にお願いします」

「あなた方は、ダルカン公爵の兵士ですか? それとも雇われた兵士?」

「私たちが傭兵かどうかお尋ねならノーです」

「では、冒険者とか?」

 二人組はちょっと驚いたようだった。

「まさにそうですが、驚きました、冒険者という仕事があることを説明するのに、隊長がずいぶん骨を折ったようですから」

「ダンジョンとかあって、そこに潜ったり?」

「まさにそれです。ダンジョン攻略が我々の本来の仕事です」

「よかった」


 学校を中退したら、どうしようか、悩んでたところだ。

 冒険者という仕事があるのなら、それに就けば、食いっぱぐれることはないだろう。

 モンスターは怖いけど、なあにパーティーに入れば、そのうちレベルアップする。そして、最弱のモンスターを倒して細々と暮らすのだ。


「もうひとつだけ。ダルカン公爵はエルフなんですか?」

 そう、それが気になっていた。

 カディアさんの耳は尖っていた。ただし、和製異世界ファンタジーのようなアンテナのように長く伸びてなかった。

 ハーフエルフなのかも、と思って聞けなかった。ハーフエルフなら、複雑な事情を抱えている可能性があったからだ。

「もちろんです。真正のハイエルフです」

「ではカディアさんも?」

「あの方はハーフエルフです。母君がウッドエルフですので」

 え? エルフ同士でもハーフエルフなの?

「この世界で、人間は?」

「少数種族です。アヴァロンはエルフの島ですので」

「人間とエルフの子は……?」

「エルフとみなされます。人間は、祝福されし者か、召喚されし者の末裔です。侮られることはありませんが、偏見はあります」

「さあ、もういいだろう、行け」

 面長の若い方が割って入ってきた。

「それだけ聞ければ結構です、ありがとうございました」

 本当はもっと知りたいことがあったが、とりあえず頭を下げた。

「きみも大変だろうけど、女神のご加護がありますように」

 丸顔の中年男の方が額に人差し指と中指を当てて印を切ってくれた。

 僕もとっさに真似をした。この世界ではお辞儀よりも、こちらの方がいいのかもしれない。

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