平和な日常


 エルフの森のあちこちから魔法による虐殺の音が響いてくる。

 煙こそ上がることは無いが、鳴りやんだのを聞くにもう終わったのだろう。

 空に嵐や衝撃波を生じる魔法が飛んでいき、あっという間に暗雲を吹き飛ばした。

 紅黒ウルフの瞳にも正気が宿り、今1つ空へと昇る遠吠えをあげる。


「グゥゥゥゥゥゥガァルル!!」


 紅黒ウルフは覚束ない足取りながらも外套野郎を守るように立ちはだかる。

 失われていない正気の瞳で。弱々しいながらも哮り立った。

 こいつ……。1匹だけでも……。


「なんだ、絆は——」


「何してんだお前ぇ! さっさとそこのメスエルフを倒せっ!」


「なっ、やらせるかよっ!」


 紅黒ウルフが雄たけびをもう1度上げる。

 するとどうだろうか。さっきエルフの森に散っていたバイウルフたちが僅かではあるけど戻ってきたではないか。

 まずいまずいまずい!

 完全に油断した!

 正気を取り戻した紅黒ウルフはさっきと打って変わって速い!

 このままじゃ間に合わ——

 おれは手を伸ばす。伸ばした手をねえさんも掴み返そうとして、


「ガウルッ!」


 巨大な牙が横切った。

 おれは徐々に足を止めた。掴もうとした相手の姿はもうない。

 ガチンッ!

 紅黒ウルフの牙が閉じりきった。

 何が……起きた?

 おれの前で……何が起きた?

 なぁ、何が起きた?

 おれはその場で膝から崩れ落ちる。

 紅黒ウルフの口から覗く牙は、日差しの光をそのまま反射していた。

 間違いなく即死。

 アゲハの【ホーリーバリア】じゃあれを完全に防げない。

 紅黒ウルフ口からは誰のものか分からないが、真っ赤な血がとめどなく溢れ出ていた。


「はっ、ははっ! 見たことかっ! 俺に最初から逆らっていなければそんなことにはならなかったんだぞ!」


 男が醜悪にせせら笑う。

 牙を打ち鳴らしていた紅黒ウルフはやがて飽きたのか、口の中に入れたねえさんを近くの茂みに投げ捨てた。


 頭の中は真っ白だった。

 情けなくもおれは過呼吸気味に陥っていた。

 呼吸を整えようにも、肺が酸素の受け取りを拒否するかの如く全部逃がしていく。

 ねえさんを……やった。


「旦那!」


「ライカ殿!」

 

 紅黒ウルフは油断も慢心もなく、ナイフのように鋭い鉤爪を振り下ろされる。

 バシンッ! とおれは紅黒ウルフの足を殴り飛ばす!

 それだけで紅黒ウルフの片足が吹き飛んだ。


「なんでこいつが死んだことを確認しなかったんだよ。なんで起き上がる可能性を考慮しなかったんだよ。なんで……ねえさんが死ぬ破目になるんだよ」


 おれの頭にあったのは煮えたぎるほどの怒りとどす黒いまでの殺意。

 殺意は紅黒ウルフに向けたものじゃない。

 あの男に向けたもの。

 初めてである。ここまで人を殺したいと思ったのは。

 おれは膝にグッと力を込めて立ち上がる。


「手負いの獣ほど厄介なものは無いでござるよ、ライカ殿!」


 くるみの言葉通り、紅黒ウルフは先ほどの動きを遥かに凌駕していた。

 何度でも言う。それがどうした。

 奴の動きは確かに速い。目が追い付かないほどに。

 けどこっちには仲間がいる。


「アゲハッ! おれの速度を上げろぉぉぉぉ!」


「委細承知!」


 楽しそうな声でアゲハはおれの速度を上げてくれる。

 これで動体視力も良くなった。紅黒ウルフの動きが良く分かる。

 アゲハ。あの時、仲間になってくれて本当に良かったよ。

 紅黒ウルフは森に入り、おれの目をかく乱する。

 草木が揺れる。駆ける音がうるさいほどに響き渡る。

 これで何とかしようって考えなら100年早い。


「エルフの耳は……本当に過敏だな」


「グゥゥゥゥゥゥガァルル!!」


 そして今、おれの真正面から白金に輝く獰猛な牙が迫った。


「待ってた! 【シュトロォォォォォム・インパクトォォォォォ】!!」


 おれはさらに紅黒ウルフの下に潜り、思いっきり拳を突き上げた!

 スパァァァァァァァンンンッッ!

 空気が弾け飛んだ。

 一呼吸おいて紅黒ウルフは遥か天空へと飛ぶ。

 落ちてきた紅黒ウルフの頭は跡形もなく消し飛んでいた。


「くるみかアゲハ。ごめん、もう動けない」


 肩で息をしながらおれはその場で膝をつく。

 感触の鈍くなった右腕を押さえつけ、外套野郎に眼を飛ばす

 この技、使った後動けなくなるのどうにかならないだろうか。

 ここはよう修行の必要があるな。


「ば、化け物! お、お前はエルフなんかじゃない! 何がエルフだ! 拳で魔物を叩き潰すなんて聞いたことがないっ! お前はただの化け物だ!」


 阿鼻叫喚する男。

 ここまで来るとあれだな。手に負えないな。

 もう哀れすぎて何も言えない。

 ある意味、最初から【祭具】の力を引き出せなくて良かったと思うよ。

 魔力を持っていなかったこと誇りに思えるよ。

 男は捨て台詞を吐いて逃げ出そうと踵を返し、


「ライカを、侮辱するな!」


 直後、飛来した石の礫が男の顔面にクリーンヒットした。

 吹っ飛ばされて空中へと身体を持っていかれる男。

 鼻は完全に潰れており、血がぼたぼたと広がっていく。

 今ので完全に気絶したのだろう。男は涎を垂らしながら、白目を向いてしまった。

 いや……それより今の声と魔法は……。


「ねえさん!?」


 5体満足、どこにも怪我が見当たらない状態のねえさんがおれに抱き着いてくる。


「えっ……、えっ? ねえさん、なんで?」


「分かんない。分かんないけど生きてる!」


 えっ……、分かんないのに生きているの?

 ねえさんは本当に心底不明といった顔つきだった。けれど今はどうでもよいのか、おれの背中にギュッと手を回してくれた。


  *  *  *


「「【アフェクション】?」」


「そう、1か月に1度きりの超超々! 切り札!」


 おれたちは男の身柄を警邏兵に突き出してから、冒険者の酒場に戻ってきていた。

 くるみを含めてテーブルにつき、貰った報酬金と紅黒ウルフの素材で稼いだ金で豪遊している最中である。

 今回の話題はしきりに紅黒ウルフを討ち果たしたおれらでいっぱいだった。

 背中に腕を回すなど絡もうとしてくる輩もいたけど、ねえさんがめっちゃ睨みを聞かせているので変なことにはならなかった。

 ねえさんはなんで自分が無事だったのか気になったようで、原因を究明しようとしたところ、アゲハから答えが返ってきた。


「神の愛情を施す奇跡。その効果は1か月に1度だけ、ありとあらゆる攻撃を無効化する聖なるバリアを展開できる。カッキーン! ってね」


 手をクロスさせてバリアのポーズを取るアゲハ。


「……なんでそれもっと早く言わなかったんだよぉ! おれマジでねえさんが死んだと思って――」


 おれはテーブルを叩いて立ち上がる。

 言っていて涙が零れ落ちる。おれは裾が濡れるのもいとわず涙を拭った。

 アゲハはバツが悪そうな顔つきでくるみに視線を送る。

 くるみはジョッキを傾けながら、ニヤニヤとピースをする。


「油断大敵でござる。きちんと魔物に止めを刺さないとああなる。アゲハ殿が使えるのは分かっていたから、教訓として利用させてもらったでござるよ」


 ……お前かよ。

 確かに良い教訓になったよ。間違えればねえさんが死ぬところだったんだから。

 思えばまだ片付け終えていないのに【祭具】を鞘に戻した理由って。

 もう2度とあんなヘマはしないと誓うよ。絶対にな。

 ねえさんはそんなおれの頭を撫でながら言ってくる。


「けど、どうしてあの強そうなウルフは簡単に倒されたの?」


「それは恐らくあれが急造だからでござるな。そもそも自分より弱い奴を倒したところで強くなれるはず無いでござるよ。術式阻害など付けられるはずも無し」


 そう、それ聞いた。

 あのウルフたちは蟲毒で最強の王者を決めるから数が少なくなる。

 術式阻害の道具は高価すぎるため取り揃えることなど難しい。

 そして魔法が通じてしまうのであれば。

 あのブレイジング・ゴブリンよりも弱くなってしまうのであれば。

 おれなら簡単に倒せるだろうって。

 実際、筋肉痛が起きていないから残当である。

 レベルも変化ないし。


「最終的にねえさんが無事だった! 犯人の男も捕まえられた! これで十分だ!」


「……うん」


「それでこそウォーターの旦那!」


 おれとねえさん、アゲハの3人で笑いあう。

 そう、細かいことはなしにしよう。

 全員無傷で生還できた。犯人も捕まった。もう言うことなしだ!


 そしてこんな目出度い日だからこそ。


 グラスに入った果汁のジュースを飲んでいるおれの前に、遂にステーキが運ばれてくる。

 ずっと食べたかった。本当、11年間ぶりの肉だ!

 ジュュュューーーっと、鉄板で肉汁が踊る音。

 肉を焼き上げるこの匂いだけで、もう食欲を抑えきれそうにない!

 エルフに転生してからずっと、喉から手が出るほど焦がれたジューシーな肉。

 おれは両手を合わせ、豪快にかぶり付いたのだった。


 *  *  *


「やばい。腹の音が鳴りやまない」


 肉を食ってから数時間後、おれは組合のトイレに籠っていた。

 腹がうるさいほど鳴りやまない。

 多分、種族的に何千年と食べていなかった物を食べたせいだろう。猫にチョコみたいな。

 すごい腹が痛い!

 ちなみにねえさんはあの後も野菜しか食べていなかったので平気である。肉美味しいのに。

 なお、あまりに慌てすぎたのとついいつもの癖で男子トイレに駆け込んでしまったけど……誰も見ていないよね?

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