第57話 確かにあったあの日々
リティシアが目にしたのは、小さな竜を抱きかかえるようにしてうずくまる、巨竜の姿であった。
『リティシアか……』
ガロンからの念話だった。
リティシアの目から見て、ガロンに抱きかかえられるルーはどう見ても無事には見えなかった。
「ガロンさん、その……ルーさんは?」
『まだ生きている』
まだ、という言い方が不吉きわまりなかった。
「まだってどういうことですか? どうして治療しないんですか?」
『弾かれるんだ、おれの力は』
「弾かれる?」
『ああ、だからルー自身でなんとかするしかない』
リティシアの目に映るルーは、すでに自身でなにかができるようには見えない。
豊かだったであろう毛艶は色褪せ、身動ぎすらしないその様子は生きているのかもわからない。
「ルーさんは、助かるんですか……?」
ガロンは答えない。
リティシアにとっては、それは答えに等しかった。
悲しさよりも、怒りが先行した。
いったい誰のせいでこんな事態になったのか。
魔族のせいか、ガロンのせいか、ルーのせいか、それとも自分のせいか。
冷静に見れば複合的な理由に違いないが、リティシアは自身こそがそのきっかけを作ったという確信があった。
自身に向ける怒りが、悲しみを払拭していく。
責任は取らなければならない。
リティシアはルーを見つめる。
竜であるルーは、元気ならばさぞ美しかったであろうと思わせた。
リティシアはルーを見て気付いてしまった。竜であるルーの指先に、ガロンから渡された黄色いリボンが巻いてあることを。
絶対に助ける。
決意は決まった。
可能性はまだある。ガロンが助けられないとしているのは、ガロンの力が及ばないからだ。
リティシアの力ならばまだわからない。
人の力ではあるが、リティシアには魔導がある。時術がある。
あのときは、魔族に狙われたときは呪われた力だと思った。
この力がなにか意味のあるものだとしたら、なにかのために持たされたものだとしたら、今がそのときだと感じた。
リティシアはルーに近づき、杖をかかげる。
『リティシア……?』
「治します」
『なにをするつもりだ?』
「戻します」
『やめろ、死ぬぞ』
「いえ、やります」
『やめろ!!』
「どうして……」
ルーを治すのをやめろ、というガロンの言葉が感情的に処理できない。
ルーに対して時術をかけようとすれば、その負荷でリティシアにまで危険が及ぶ。ガロンはそう言っているのだろうと理屈ではわかる。
しかし、リティシアにはそれを理詰めで理解するだけの理性がない。ガロンの言葉にどうしようもない脱力感を覚え、リティシアは、杖に寄りかかるように、その場にへたり込んだ。
「どうして竜は……!! すなおになれないんですか!?」
リティシアは感情のままに叫ぶ。
「ガロンさんもルーさんも!! すなおにしてればこんなことにならなかったのに!! 竜の誇りがそんなに大事ですか!? 見栄を張るのがそんなに大事ですか!?」
リティシアは、自分の中に逆巻くこの感情が、怒りなのか、悲しみなのか判別できなかった。
ただ、避けられた事態に到達してしまったやるせなさと、ここまで来てなお、なりふりを構おうとするガロンが許せなかったのかもしれない。
「ガロンさん、正直に答えてください」
ガロンの目を見つめる。竜の目と、人間の目がお互いを見つめ合う。
「ルーさんを、助けたいと思いますか?」
ガロンの返事に迷いはなかった。
『当たり前だ』
「ならやらせてください。絶対に助けます。たぶんこの力は、そのためのものです」
ガロンは迷っているようであった。リティシアを見つめたまま、しばらく動かず、その後自分が抱いているルーに視線を移し、
『……頼む』
「まかせてください」
リティシアは杖を支点に立ち上がり、ルーの元まで進み出る。
杖をそっとルーに当てる。
たしかに、生きているの感じ取れた。魔力はもう消え入りそうであるが、浅く呼吸をしているのがわかる。
やけになっているわけではなかった。
リティシアには、不思議とルーを助けることができるような、予感じみたものがあった。
リティシアは自分の時術を正確には把握してないが、できそうだ、と思ったことはなんでもできたし、無理かもしれない、と思ったことはひとつもできなかった。
実想乖離にのっとれば、竜に対して時間干渉を行うなど、到底不可能としか思えないが、リティシアにはそれができる確信があった。
リティシアは大きく深呼吸。
戻す。
いきなり死ぬかと思うような頭痛がきた。
意識が飛ばなかったのは、その痛みがあまりにも激しかったからかもしれない。
それ以上ルーの時間を戻そうという試みを続けるのは不可能だった。気合や根性といった次元の話ではなく、このままルーの時間を戻そうとするのは、明確な自殺であると脳が警鐘を鳴らしていた。
リティシアはその場にくずおれる。
唇になにかの液体が触れる感触がして、ようやく自分が鼻血を出していることに気付く。
視界がぼやけているのは涙のせいで、ルーに時術をかけようとした数秒だけで、リティシアの顔はぐちゃぐちゃになっていた。
『リティシア、やはり無理だ』
無理なはずはない。リティシアの勘がそう言っている。
時術ができることの範囲で、リティシアが見誤ったことはない。
だからなにかが間違っているのだ。
「いえ、やります。絶対にできます」
リティシアはローブで涙と鼻血を拭って再び立ち上がる。
ガロンは、止めなかった。
もういちどやる。
リティシアは浅く呼吸を繰り返して目を瞑る。
高位の竜の時間を戻す、と考えるからいけないのだ。
魔導も魔法と同じくイメージに大きく依存する。
リティシアがしたいことはなにか。
それは、高位の竜の時間を戻したいのではない。
ルーとの時間を取り戻したいのだ。
リティシアはルーに向かって杖を掲げて思い出す。
突然テーブルの向かいに腰を下ろしたルーを。
いつも自信満々で、生意気そうなルーを。
いっしょにしりとりをしていたルーを。
いつもいっしょに寝ていたルーを。
馬車の中で踊っていたルーを。
氷菓子の頭痛で悶ていたルーを。
くじ引きで大喜びしていたルーを。
一緒に温泉に入ったルーを。
お酒で酔っ払って甘えていたルーを。
ルーとの日々をリティシアは思い出す。
急に力が通った感覚があった。
まったく動かなかった歯車が突然なめらかに回りだしたような感覚。
リティシアは思い浮かべる。
ルーベリオンという竜ではなく、ルーという仲間が、友達が、元気に動き回る姿を。
目を瞑っていても、何かが光っているのがわかった。
目を開けると、そこには人間の姿のルーがいた。
ルーはガロンの前の地面に、まったくの普段どおりの姿で横たわっている。
ルーは竜のときのような瀕死には見えず、浅く呼吸をし、ただ寝ているだけに見える。
リティシアは、ルーの時を戻せたのだ。
ルーを助けられたことと、自らの力が役にたった、双方の安堵感から、リティシアは涙が溢れてきた。
ルーから視線を上へと移すと、ガロンがルーを見つめていた。
その瞳には、涙がたまっているように見えた。
リティシアの視線に気付いたのか、ガロンは露骨に顔を背けた。
不自然に顔を背けたまま、ガロンはしばらく動かない。
「ガロンさん? どうしたんですか?」
『いや、なんでもない』
ガロンはまだリティシアの方を見ない。
どうやら、竜の見栄っ張りというのはなかなか治らないものらしい。
しばらくして、ようやくガロンはリティシアの方に向き直った。
『あー、リティシア、その、なんだ……』
「なんです?」
『……ありがとう』
「ルーさんは、わたしにとっても大事なともだちですから!」
『そう言ってもらえると、ルーも喜ぶだろう』
不意に、ガロンの瞳が動いた。
リティシアがその視線を追って振り返ると、なにかの小動物が茂みの中に逃げ込んだように見えた。
竜の表情はわからないが、ガロンの気配が変わった。
『リティシア、すこしの間ルーを頼めるか?』
「どうしたんですか?」
『おれは、やるべきことを、やる』
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