第45話 男湯と月見酒


 日の出湯はクランガ温泉郷有数の老舗で、その規模はクランガにある温泉宿の中で二番目の大きさを誇る。


 その最大のウリは露天風呂である。


 クランガ温泉郷の北西の隅を専有し、どこよりも大きな露天風呂を提供しているのだ。

 他の温泉宿よりも東の文化のまねごとに傾倒しているのも特筆すべき特徴だ。


 もし東の人間が日の出湯を目にすれば、鼻で笑うようなものも混ざっているかもしれない。それでも大陸の人間が目にする分には、まったくの異国の温泉宿という風格を保ってはいる。


 ここが、ガロンたちが二日目に泊まる宿だった。

 宿には、余計なおまけがふたりついてきた。


 リヒターとイーノックである。


 ガロンが二日目に泊まる宿について話すと、リヒターは姉さんに会うために絶対に同じ宿に泊まるといって聞かなかった。

 イーノックはそれを止めようとした。費用の問題だ。日の出湯の宿泊費はもちろんバカ高い。イーノックとしては、リティシアと同じ宿に泊まるためにそんな費用は払えないと考えるのは当然であった。


 リヒターはじつに男前だった。イーノックの宿泊費はすべて自分がもつと告げたのである。これにはイーノックもにっこり。

 こうして、高級宿にはリヒターとイーノックまでついてくることになったのである。


 そういうわけで、今三人は露天風呂に浸かっている。


 あたりはほのかに暗い。

 日が沈む間近で、空は地平線側の白と夜闇の黒で二分されている。


 露天風呂は岩組みで周囲をおおってお湯貯まりを作っていて、底は石造りでてきていた。雨の日でも入れるように、という配慮なのか、風呂の端のほうには屋根があった。

 男湯と女湯が分かれているにもかかわらず、ちょっとした池くらいの大きさがあった。もし深さが十分あったならば、ガロンが竜の状態でも入れたかもしれない。


 ガロンと、イーノックと、リヒターの三人は、夢見心地で温かい露天風呂に浸かっている。


 これだけ広い風呂を三人で専有できるのはかなりの贅沢なのではないかという気がしてくる。夕方から入ろうとする人間は少ないのか、他に客は見当たらなかった。

 ガロンはこれほどきれいな湯の風呂に入ったのは始めてだった。湯は透き通っていて、底の石敷きがよく見える。


 三人の近くには、お湯の上を風呂桶がぷかぷかと浮かんでいる。


 その中には酒がある。


 ルーからもらった酒だ。






 日の出湯に来るまでに、リティシアの背嚢が妙なふくれかたをしていたので気にはなっていた。


 宿について手続きを終わらせ、部屋を分かれて一服したあとだった。


 ルーとリティシアがガロンの部屋にやってきたのだ。ルーはその身体には大きすぎる酒瓶を抱え込んでいた。

 ルーが瓶の口を掴み、ガロンに差し出しながらこう言うのだ。


「さくじつはご苦労であった。これをねぎらいに飲むがいい!!」


 ガロンは、一瞬何が起きたかわからなかった。

 リティシアの顔をうかがってみると、瓶を受け取れ! とその顔に書いてある。


 ガロンはおずおずと酒瓶を受け取った。

 なんとも言えない沈黙が部屋に立ち込める。


「嬉しくないのか?」


 ルーが心配そうな上目遣いで言った。

 リティシアがすごい目でガロンを見ている。その迫力は竜もかくやというところで、ガロンですらひるまずにはいられないものであった。


「い、いや、うれしいぞ。ありがとう」


 ルーが何も言わずうしろを向いた。

 そのまま走り出して部屋から出ていく。


「ルーさん、ガロンさんががんばってると思って、一日お土産考えてたんですよ」


 リティシアもそう言って部屋から出ていった。


 ガロンの頭が遅れて動き出す。

 ルーはガロンのために酒を手に入れ、それを渡したわけだ。

 しかも、その理由はねぎらいだと言っていた。昨日分かれたとき、ルーには人の世のためとか適当なことをぬかした気がする。


 ルーはそれを真に受けていた。つまり、ルーは「人の世のためにはたらくガロンに」ねぎらいとして酒を渡したわけだ。


 ガロンは渡された酒を見る。ずっしりとした重量感に、瓶に巻いてある紙の豪華さからして見るからに良い酒だった。


 そこには『竜殺し』とある。もしかしたら婉曲的な挑戦状なのだろうかとも考えたが、ルーに限ってそんなことはあるはずがなかった。


 自分に受け取る資格があるのか、ガロンはつかんだ酒瓶をじっと見る。





 とはいえ、酒は酒だ。酒は飲まれるために作られたものである。

 客室係の女性がガロンの部屋でその酒を目にしたとき、風呂に入りながら飲む場合はお知らせくださいと言っていた。

 ガロンは強く興味を惹かれた。


 飲む資格があるのか怪しい酒は、あまり悩まれることなく開けられることになった。


 ガロンは湯船の中で身体を伸ばす。じつに心地がいい。

 かすかな硫黄の匂いに、肌のぴりぴりする感覚。リティシアが行きたいと言っていた理由も納得できるというものだ。


 浮かんでいる風呂桶には、変わった形の瓶が入っている。

 大瓶のまま風呂に持ち込むわけにはいかず、客室係が小瓶に分けてくれたのだ。

 そして、風呂桶の中にお湯を入れ、そこにつける形で小瓶を入れる。


 ガロンは初め、熱い酒なんてどうなのだろうと思ったが、これがウマい。


 風呂桶の中の瓶から、東風のとても小さな杯に一口分だけ酒を注ぐ。

 それをクイッと一口でやるのだ。


 うまい。


 麦酒以外の穀物酒というものをガロンは始めて飲んだが、なかなか気に入った。

 温めた効果かはわからないが、香りが独特で、喉越しも素晴らしい。微かに辛口のじつにうまい酒だった。

 味は薄めなのに上品な印象を受ける味だ。高級な酒、と言われればなるほどと思えるものだった。


 これなら一口一口飲むというのも悪くない。

 いつもなら量より質のガロンであったが、こういう楽しみ方も悪くないと思わされるほどのものだった。


「いやーほんとウマいッスねーこの酒!」


 リヒターだった。三人は風呂桶を中心に囲むように湯船に浸かっていた。


「ほんとほんと、あのお嬢ちゃんに感謝しないとね」


 イーノックも杯に酒を注ぎ、たまらんといった息を漏らす。


「そういえば、あのお嬢ちゃんは何者なんスか?」


 困る質問が来た、とガロンは思った。

 竜であるとはもちろん言うわけにはいかないが、適当な言い訳が思いつかない。


「何者だと思う?」


 イーノックが真面目な顔をする。


「貴族とかですか? 貴族の護衛。頓狂な娘が親から離れて旅行したくて、それで旦那たちを護衛に雇ってーとかそんな感じですかね?」


 なるほど、そんな考え方があるのか、とガロンは関心する。


「まあそんなところだ」


 ガロンはそう言って小瓶から酒を注ぎ、ぐびっと一杯いく。うまい。

 ところで、この酒はずいぶんと強い気がする。ガロンはあまり感じないが、リヒターの顔が真っ赤になっているのが気になった。


「なんスか?」

「いやなに、酔ってるんじゃないかと思ってな」


 リヒターはとろんとした目をしながら言う。


「そりゃあ酔いますよこんなうまい酒。貴族のお嬢ちゃんに乾杯!」

 

 そう言って杯を高く掲げる。


 女湯の方からルーの声が聞こえた。


 なにやらきゃーきゃーと楽しそうな声がしている。


 男湯と女湯はもちろん区切られているが、その間にはバングラスの木で作られた簡易の仕切りがあるだけだ。


 仕切りの向こうには、リティシアとルーが風呂に入っている。


 男湯にはガロンたちの他に客はいないが、女湯の方までそうとは限らない。

 迷惑をかけてないだろうか、とすこしだけ心配になる。


 大きく息を吐いた。

 空を見上げると、すっかり暗くなっていた。

 風呂の湯気ごしに、細い三日月が上りはじめているのが見えた。

 ガロンはそれを見ながら杯をかたむける。


 うまい。


 昨日はさんざんだったが、これくらいうまい酒が飲めるならば、金酒杯を逃した慰めにもなろうというものだ。

 ルーには感謝をしなければいけないかもしれない。いや、しなければならないのだろう。


 ところで、女湯からリティシアの叫び声が聞こえた。

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