第41話 湖の主は大空を駆ける夢を見るか
センニン湖は、太古の昔にクランガ山の噴火によってできた湖だ。
その大きさは大陸の中でも最大級であり、温泉につぐクランガの名物として長く親しまれている。
センニン湖の生態系は極めて独特で、魔法生物じみた魚が数多く生息している。
ふつう、閉じた湖に魚はいない。ではなぜいるのかと言えば東から来たとされる亜人が関わっている。
亜人は、こちらで言うところの錬金術師に近い研究をしているものであった。
その研究は既存の生物に手を加える、新しい生物を作り出すといった、一見きわめてマッドな代物であった。
しかし、その研究の目的は、生物兵器を生み出したり、不老不死といったものではない。
うまいものを作るためだ。
こうしてセンニン湖の歴史は紡がれた。
今ではもう東の亜人はいない。
だが、センニン湖には、美味で、繁殖力が極めて強い魚が今も元気に泳いでいるのだ。
※
そういうわけで釣りだった。
ガロンたちは昼過ぎにはもうセンニン湖についていた。
仕事の内容は魚をとること、それだけだ。
金酒杯の時期周辺は魚はいくらあっても足りない。
リヒターとイーノックは酒目的に滞在しつつ、なんと釣りでその滞在費を稼いでいるらしい。
イーノック曰く『危険がなく、割もいい、誰もが得する聖職者よりもクリーンな仕事』だそうだ。
これだけでガロンが高級宿ふたり分の宿泊費を賄えるのかといえば、かなり怪しい。
宿泊費を伝えたとき、リヒターは露骨に「マジっすか」という顔をした。
けれども、堅実安全でありながら一攫千金の機会もあるところがこの仕事のさらにいい点だ。
この湖にはヌシがいる。
その正体は不明だが、ゴブリン程度なら丸呑みにできるほど巨大な魚で、捕獲できれば非常に高価で買い取りされることが確約されているそうだ。
「ガロンさんなら釣れますよね!」
とリヒターが何の根拠もなく言っていた。
それについて可能ではある、とガロンは考えている。
湖に着くなり感知の範囲を広げ、湖の中の生物の気配を一気にさらった。
確かにいる。湖の西側、それほど深くない場所に、他の魚にくらべて明らかに大きな魚が。
話ほど巨大かはともかく、他にそれらしき魚は見つからない。消去法でこの魚がヌシなのだろう。
そうしてガロンたちは湖の西側まで移動して釣りを初めた。
実はガロンは釣りというものを始めてやる。
イーノックたちに説明された手順は簡単で、釣り糸の先に餌をつけて魚がかかるのを待つ。
かかったら引き上げる、これだけだった。
最初の最初こそうまくいかなかったが、ガロンもすぐにコツをつかんだ。
気をつけるのは二点で、ひとつめは釣り餌は動かさずにじっとしておくこと。魚が餌の近くまで来ているのがわかったとしても、そちらに餌を近づけたりしてはいけない。それによってかかる場合もあるが、警戒される割合の方が多いのだ。
ふたつめは引き上げるときには力の加減をすること。最初など魚を森の奥まで飛ばすことになった。魚を釣り上げるのにそれほどの力は必要ない。かなり弱めの力で釣り上げるだけでいい。
イーノックとリヒターは慣れた手付きで魚を釣り上げていく。
釣り上げた魚は、持ってきた荷台の上にある桶に入れておく。このペースで釣っていたら、夕方までには桶が満杯になってしまいそうだった。
一度わかってしまえば、魚が大量にいる湖での釣りは簡単だった。
餌をつけて、釣り糸を垂らす。魚がかかったら釣り上げて桶に入れる。
ガロンはこれをひたすらに繰り返す。
正直この作業は「無」であった。
初めこそ楽しいと感じたが、繰り返せば繰り返すほど飽きがくるというのは自然の摂理で、たいした時間も経たないうちにガロンは飽きた。
ガロンは適当な石に腰をかけ、ただ無の作業を繰り返す。
イーノックとリヒターは、爆釣だと喜んで釣りに勤しんでいる。金を釣っているようなものだ、とイーノックが言っていたのを聞いて、ガロンはすこしだけやる気が戻る。
ヌシの気配は、動く様子がなかった。
警戒しているのか、それとも関心がないのか。
そもそもあれだけ大きな魚が、餌の小さな虫を食うためにわざわざ釣り針に食いつくのか、ガロンは不安になってきた。
ガロンは光のない目をしながら釣りを続ける。
待つ、釣る、桶に入れる、待つ、釣る、桶に入れる。作業がだんだんと洗練されていくのを感じ、それが虚無感を加速させた。自分はいったい何をやっているのか。
イーノックとリヒターとの雑談ですら救いに感じた。
なんでもふたりは、ガロンたちが旅立ったあとは組むことに決めたらしい。
お互い特定の相手とは組まずに動く冒険者であったが、イーノックと丸くなったらしいリヒターは思いのほかウマがあった。
リヒターはイーノックの老獪さを、イーノックはリヒターの実力を買っているそうだ。
ガロンからしたらそのふたつには大いに疑問があったが、突っ込む気力すらももう失せていた。
ただ無の時間が過ぎる。
定期的に見上げる太陽の位置が動いていることに、心の安らぎを感じる。
ヌシが動く気配は微塵もない。
途中、気を失っていたような気すらしたが、ふたりに聞くとガロンは手際よく釣りをしていたそうだ。
日が傾き始めていた。
荷台の上の桶はすでに満杯近くなっている。
「これだけあれば宿泊費もなんとかなりますよ」
とリヒターは言った。
ちなみにガロンはルーの分の宿泊費まで必要だという話はしていない。
つまり、これでは確実に足りない。
このままでは、十中八九、花火の打ち上げの手伝いをすることになる。
酒が飲めないのは嫌だ。酒が飲めないのは嫌だ。酒が飲めないのは嫌だ。
ガロンの頭の中がそれだけになった、そのときだった。
「旦那!! 引いてますよ!! 引いてますって!!」
言われるまでまったく気付かなかった。
ガロンの持っている釣り竿が、今までにない勢いで引かれているのだ。
ガロンは瞬時に湖の中の気配を探り直す。ヌシは動いていた。
ガロンの釣り竿に、食いついていた。
来た!!!!
ガロンはこのときだけ、釣りの真の楽しみを味わった。
大物が釣り竿を揺らす感覚を、釣ったあとを想像する楽しみを。
ガロンは釣り竿をあげた。
今までの鬱憤を晴らすように、虚無のすべてを吹き飛ばすように。
全力で。
人間の姿をとっているとはいえ、ガロンは誇張抜きに竜の中の竜である。そんなガロンが、全力で釣り上げようとすればどうなるのか。
釣り上がったには釣り上がった。
湖から、巨大な魚が姿を現した。
人と同じくらいの大きさをした魚が、湖から飛び出してきた。
この日、最も称賛されるべきなのは釣り糸であろう。ガロンの力に少しでも耐え、その力の幾分かを伝えたのだから。それは全世界に誇れる偉業であり、糸界の誇りといってもいい。そんな世界があるのかは知らないが。
ともかく糸は一瞬で切れた。
それでもガロンは追った。
驚異的な速度で反応し、空へと殺人的な速度で飛び上がるヌシをその手で掴もうと跳び上がった。
ガロンの手は、ヌシの尾に爪先が触れるだけに終わった。
ガロンが着地する。
ヌシの姿はもう見えなかった。
「い、いやぁー、さすがっスね!」
何がさすがなのか、リヒターがよくわからない称賛を浴びせてくる。
ガロンは、ヌシに触れることすらできなかった右手をじっと見ている。
ガロンは釣りの楽しみを知った直後に、釣りの悲しみを知った。
左手に握られた釣竿が、ガロンをバカにするようにびよんびよんとしなっていた。
酒が飲めないことが確定した。
※
この日の夕方、大陸の東側では、超高速で空を飛ぶ巨大な魚の目撃情報が複数上げられた。
魔法協会はこの目撃情報を一笑に付し、集団幻覚として処理した。
さすがの魔法協会も思わなかったのである。本当に超高速で飛来する巨大な魚が存在するとは。
※
ヌシは、世界が水の中以外にも広がっているのを理解していた。
ヌシの住処を囲む壁の上には魚が生きることが許されない空間が存在する。
そして壁の上の世界には、魚ではない者たちが大量に存在するのだ。
それに、世界というのはそれだけではなく、さらに広いというのも、ヌシはわかっていた。
水の中からでも見えるのだ。湖の上、遥か遠くにある色を変える広大な空間が。
ヌシはそれらに興味はあったが、そこが自分たちにとって死地だというのは知っていた。
だからヌシは、今日も湖の中で静かに暮らしているのだ。
そんなヌシに気に入っている遊びがあった。
湖に浮かぶ、虫を食べる遊びだ。
何が遊びなのかといえば、それが罠だからだ。
他の多くの魚は、その虫を口にしようとしたが最後、壁の上へと連れ去られて二度と帰ってこないのだ。
ヌシはそんな危険な虫を遊びとして食べる。
ヌシは連れ去られることはなかった。
ヌシだけは、その虫を食べても平気でいられた。
だから、お気に入りの遊びなのだ。
自分だけが特別だと実感できる、自分こそが強いのだと実感できる、そんな遊びだ。
今も、その虫が浮かんでいるのが見えた。
ヌシは虫へと近寄り、いつも通りそれを口にした。
世界が色を変えた。
何が起きたかは理解できなかった。
気付けば感じたことのない衝撃に全身が包まれていた。
そして、ヌシは信じられないものを目にした。
壁の上の死地だ。
ヌシは壁の上の死地を宙空から見下ろしていた。
巨大な魚が、茜色の空を超高速で飛んでいく。
ヌシは今、いつも湖から見上げていた、色を変える空間にいた。
景色が飛ぶように過ぎていく。
身体への衝撃も、呼吸ができないことも忘れて、ヌシはその体験を心に刻んでいた。
あるいはこれが死後の世界なのか。
ヌシはそう考えながら、大空を信じられない速度で飛ぶ。
この体験がどういった結末を向かえるかわからないが、そのときが来るまでこの光景を目に焼き付けておこうとヌシは思った。
ところで、落下の衝撃は、その速度が早ければ早いほど増大する。
そしてヌシは、空を飛ぶ力を得たわけではなく、単に吹っ飛んでいるだけである。
そのときは、意外と早く来た。
結末だけ伝えよう。
翌日、トルーク領南部トルメーヤ平原に、何のものかも判別できない、すり身状の肉塊が発見された。
※
『急募!! 魔力に自信のある方募集!!』
ガロンは魔力には自信がある。
純粋な魔力量で言えば、この世に生きとし生ける全ての生物の頂点に立っている。
ガロンは親方と呼ばれる雇い人の元へ向かい、試験らしき魔力計を破裂させ、五秒とかからずに採用は決まった。
※
よく晴れた、星空の美しい夜だった。
ガロンはクランガ山の中腹にいる。
おそろしいほどの無表情で、魔道具に調節した魔力を注ぎ続けている。
「いやー、あんちゃんすごいなー!! おかげで大助かりだよ!!」
なんでも、契約していた魔法使いの一団が事故で到着しなかったらしい。
ダメ元で張り紙を張ったらガロンが来たというわけだ。
『未経験者歓迎!』も『魔道具に魔力を注ぐだけの簡単なお仕事です!』も『みんなの笑顔を作るお仕事です!』も『実力次第ではいきなりこんな報酬も!?』も嘘ではなかった。
ガロンは金酒杯で振る舞われる酒に思いを馳せながらただ魔力を注ぐ。
報酬は十分すぎるもので、リティシアに借金をするという事態は回避された。
親方の合図で花火が打ち上がる。
巨大な爆発音のあと、ひゅるるると間抜けな風切り音が続く。
ガロンは死んだ目で夜空を見上げる。
今日ほど虚無を感じる日は、長い竜生でもそうなかったと思う。
ガロンの打ち上げた花火は美しかった。
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