第29話 この世に現れた悪夢の結晶
ガロンの予想通り、リティシアは魔族に捕まっていた。
作戦はシンプルだった。
短期決戦をしかける。
リティシアと魔族の位置は把握した。
ガロンは駆け続ける。
リティシアの無事は感知できる魔力からわかった。
森のひらいた空間にリティシアと魔族はいる。
待ち構えているのはガロンにとって、かえって都合が良かった。
魔族は追われ続ける可能性よりもここで決着をつけることを選んだわけだ。
魔族はガロンが別の魔族を屠ったのも把握しているはずだ。それなのに待ち受けての決着をつける選択をしたのは、やはり相当な自信があるのだろう。
人の姿で手に負えるとは思えない。
可能性があるとしたら短期決戦だ。
強襲をしかけて何をさせるまでもなく倒す。
下手な小細工や駆け引きで勝ちに繋がるとは思えない。
唯一可能性があるとしたら最短距離で命に手を伸ばす方法だけだ。竜の本能がそう言っている。
魔族の姿が見えた。
リティシアの姿も同時に目に入った。さいわいリティシアは軽い拘束を受けているだけだ。魔族からはすこし離れた位置にいて、現状では盾にされたり巻き込んだりすることはなさそうに見えた。
魔族もガロンの姿を認めたのだろう。
人では絶対に視認できない距離から、ガロンの視線と魔族の真紅の視線が交錯する。
ガロンの戦意が爆発的に高まる。
森中の鳥が飛び立ち発狂する。
ガロンは止まらずに更に加速する。
魔族とリティシアがいたのは、瓦礫だらけの廃墟だった。
笑っている魔族が見える。たいした自信だ。
ガロンと魔族のあいだに突如炎の壁が出現し、炎の壁は荒ぶる波となって魔族に襲いかかった。
ガロンはそれに追従する形で魔族に迫る。
炎の波が全てを焼き払いながら進み、魔族にもそれらと同じ運命を辿らせようとした。
魔族を飲み込むはずだった炎の波が、魔族を避けるように左右に割れた。
ガロンはそこから入った。
炎を割って得意顔をしていた魔族の表情が凍りつく。
ガロンの踏み込みで石畳が砕ける。
瞬く間にガロンと魔族が、お互い触れ合えるほどの密接距離まで近づいた。
ガロンが右腕を振るった。人が受ければ十度死んでも足りない純粋な暴力を、魔族はすんでのところでうしろに跳んでかわした。
逃さない。
ガロンはそれを追うように攻めた。
左腕を振るう。
魔族は逃げる。
そこから暴力の嵐が魔族を襲った。
ガロンは攻め手を緩めない。手どころか足まで使い、ときには体をぶつけて死を要求し続ける。
竜の本能で相手は術師だとわかる。密接距離で何もさせないまま終わらせる以外に勝ち筋はない。
ガロンは攻めて攻めて攻めた。魔族はそれをかわし続ける。
荒れ狂う暴力の奔流が、少年姿の魔族にはあと一歩のところで届かない。
ガロンにはわかっていた。おそらくこれが勝ちに繋がることはないだろうと。
それでも取れる最善がこれであり、この姿でこれ以上の何かはできなかった。
魔族の背後にぼろぼろに崩れかけた壁。
ガロンが下から打ち上げるように拳を放つと、魔族は左に大きく飛んだ。魔族の背後にあった壁が何かの冗談のように粉々になって飛び散る。
隙。
魔族の両足が宙に浮いている。
魔力だけで宙を移動する場合、ほとんどの種族は地に足をついて移動するよりもはるかに遅い速度でしか動けないものだ。
ガロンの両腕に殺意がみなぎる。
ガロンが追いすがろうとしたその瞬間、
水。
魔族を追い詰めようと飛び出したガロンの目の前に、爪の大きさほどの小さな水滴があった。
水滴はガロンの額に当たった。
嘘みたいなことが起きた。
ガロンは、まるで大質量のなにかに激突したかのように頭をのけぞらせ、そのまま耐えきれずに吹き飛ばされた。
空気中の魔力をこねくり回して強引に体勢を戻し、何事もなかったようにガロンは魔族への突撃を再開しようとした。
魔族がふたりいた。
ふたり、というのは正確な表現ではないかもしれない。しかし視覚上はそのように見えた。
少年の姿をした魔族が二体いたのだ。
それは魔術で、おそらくは分身の類。驚くべきことは二体の魔力はそれぞれ減衰することなく元のままであり、ガロンからはどちらが本物かまったくわからない。もしかしたらこの術には本物という概念はないのかもしれなかった。
二体になった魔族の正面には、それぞれ小さな水滴が一粒ずつ浮いている。
「いやあ、少し驚かされたよ」
水滴がガロンに向かって発射される。魔弾のようなそれを、ガロンはすんでのところでかわした。
目標から外れた水滴が、石畳を炸裂させる。
攻守は完全に逆転した。
点でしかない相手の攻撃をガロンは凌ぐ。
防御に徹すれば防げないことはなく、回避と防御を組み合わせて魔族の水滴をしのぎながら距離を詰めようとする。
魔族が、いつのまにか三体に増えていた。
少年の姿をした魔族の、真紅の瞳が笑っていた。
ガロンはそれ以上なにもできない。
避け続けるガロンと増え続ける魔族。
魔族の数は十を超え、すでに廃墟はまともな生物が生存できる場所ではなくなっていた。
死の領域のさなかで、ガロンはぼんやりと思う。
結局決断もつかぬままリティシアの前で竜の姿を晒すことになるなど、ずいぶんと情けないことになったなと。
リティシア。
ガロンの視界の端。
どうやったのか、リティシアが拘束を解いて、魔族に仕掛けようとしていた。
魔族もリティシアに視線を向けてはいないが当然気付いている。
一つの水滴がリティシアを狙った。
それが決定的な隙になった。
まさかやらないだろうというのはわかってはいた。魔族はリティシアを手に入れるために動いたのであり、今すぐ殺す可能性は万にひとつもないと。
それでも意識が一瞬だけリティシアを守ることに向いた。
それは、綱渡りのような防御を続けていた中では致命的だった。
一つの水滴がガロンの防御をすり抜け、脇腹に命中した。
あとはもうめちゃくちゃだった。
真横に吹き飛ばされるガロンを逆側から来る水滴がとらえ、それが連鎖してガロンは空中で弾かれ続け、最後には地面へと叩きつけられた。
「ガロンさん!!!!」
リティシアの泣きそうな叫びが聞こえた。
倒れ伏すガロンに、魔族の分身体のひとつが進み出て言う。
「よく生きてるね」
ガロンは起き上がり、真紅の瞳を睨む。
魔族は勝利を確信したかのような余裕に満ちていたが、そこにはガロンが立ち上がったことへの驚きもあるように見えた。
「いったい何者なんだい? 北の大陸の魔族かな? きみほどの力があって見たことも聞いたことないってちょっと考えられないんだけど」
リティシアがガロンに駆け寄ろうとし、分身体のひとつに捕まった。
魔族はリティシアの耳元でささやくように言う。
「そうだ思い出した。ねえきみ、聞いてみなよ? 人間ですかって」
リティシアはやりすぎなくらい首を横に振った。
「きかないとこの人、今すぐ殺しちゃうかもよ?」
リティシアの表情が凍りついた。
リティシアがガロンを見つめている。
ガロンとリティシアの視線が交わる。
リティシアの瞳は、恐怖と困惑で彩られていた。
リティシアがおずおずと口を開く。
「ガロンさんって、人間ですよね? 騙してないですよね?」
肯定できなかった。
返事をしないガロンを見て、リティシアの表情は次第に曇り、最後には崩れて膝をついた。
覚悟は思いのほかすぐ決まった。
たぶんガロンは、リティシアの信頼を裏切ったのだろう。
失ったら戻らないものもある。それについて何かを後悔する意味はない。
最後はいまひとつだとしても、ガロンは悪くない期間を過ごしていた。旅のはじめとしては中々楽しめたと思う。学べることも色々あった。
例えば、リティシアが初めの頃に言っていたことを思い出す。
冒険者の心得そのいち、冒険者は失うことを恐れない。
ガロンは笑った。
うじうじ考えていたガロンは、最初から冒険者失格だったのかもしれない。
魔族が怪訝そうにガロンを覗き込む。
「どうしたの? 気でも狂ったのかい?」
リティシアの周囲の空間がぼやけるように歪み、リティシアがいきなり姿を消した。
ガロンは複雑な魔法は不得手だが、無抵抗の相手を危険が及ばない程度の距離へ転移させるのは容易い。
魔族の分身体全てが一斉にリティシアがいたはずの場所を見た。
「待て、いったい何をした?」
ガロンは立ち上がる。
無数の真紅の瞳に見据えられる中、ガロンは悠然と立っている。
「死ぬ前に、ちょっと話を聞いてくれるか?」
魔族が答えるまで、はっきりとした間があった。
「遺言? 正気かい?」
魔族は、理解できぬものを見る目でガロンを見つめている。
「人間のかわいい女の子ってやつは見ているだけで気分がいいだろ?」
「何の話をしているんだ?」
ガロンは、大きなため息をつく。
「しかしおれの今の姿を見てくれ、ゴツいおっさんだ」
「あたまがおかしいのか?」
そう言いつつも魔族が自分の言った言葉を信じきっていないのは明白であった。突然消えたリティシアから転移魔法を察し、今の意味不明な状況に最大限の警戒をしている。だから仕掛けてこない。
「これがかわいい女の子だったら、どんなにいいかって思わないか? 朝ベッドから起きて、鏡を見たら美少女が映るわけだ。最高じゃないか?」
「だから何の話をしているかと聞いている!!」
何重にもきこえる魔族の声音は怒りを孕み、今にも爆発しそうであった。
「変身についての話だ。おれはどうがんばっても美少女の姿にはなれなくてね」
ガロンの周囲の空間が歪む。
「ああ、何者かが知りたいんだったか? 今、正体を見せる」
みしり、と空間自体が異様な音を立てる。
「おれが魔族だとリティシアに言ったのか? 残念ながらそんなにかわいいものじゃない」
リティシアから人間か? と聞かれて決着をつける決意はすぐに固まった。
人間ではない。
ガロンは竜だ。
そして竜であることに誇りを持っている。
ガロンはただ美少女に変身して良い気分になりたいだけであり、竜をやめたいわけではない。
ジーナが言っていたのを思い出す。
人には人の誇りがある。竜には竜の誇りがあるでしょう? と。
その通りだ。
竜には竜の誇りがある。
そしてガロンは守護竜だ。
人類を驚異から守ると決めた竜の頂点だ。
人間であるリティシアを守るのが守護竜であるガロンの生き方だ。
魔族の分身体すべてが、これ以上ないほどの量の水滴を浮かせた。
「もうきみが何者かなんて興味ない、死になよ」
魔族は水滴の群れに魔力を漲らせ、ガロンを狙った。
「なにも理解していないようだな」
ガロンの変身が、解ける。
「おれはおまえが死ぬ前に話を聞いてくれと言ったんだ」
分身した魔族が一斉に水滴を放った。一粒でも当たれば人が消し飛ぶような水滴が、何百とガロンに襲いかかった。
破壊の嵐がガロンとその周囲を包みこんだ。
石畳がめちゃくちゃに破壊され、巻き上がった粉塵が視界を遮る。
粉塵があけると、そこには竜の形をした絶望があった。
魔族の水滴すべてが直撃してなお、赤褐色の鱗には傷ひとつなかった。
魔族は逃げようとしたのだと思う。
ガロンの動きの方が早かった。
ガロンの尾が魔族の分身体を薙ぎ払った。
その動きは神速で、すべてが終わったあとにガロンの尻尾の位置が変わったことからしか判断できないものだった。
壊滅的な破壊が巻き起こった。
ガロンの尾が薙いだ箇所には巨大な穴が生まれ、払われた石畳や土はその延長線上のすべてを巻き込み、森の木々をなぎ倒して新しい道ができてしまった。
直撃を受けた魔族の分身体は、文字通り弾けた。
泡が針で突かれるように。
おおよそ生物に起こるはずがない衝撃に跡形も残らなかった。
一体だけ魔族が残っていた。
ガロンが作った穴の縁で、腰を抜かしたように座り込んでいる。
巨大な竜を見上げる真紅の瞳が恐怖に濁る。
突如出現した巨竜は、魔族にとってこの世に現れた悪夢の結晶に他ならず、絶望以外の一切の感情を許さない。
ガロンは魔族の周囲の空間を捻じ曲げて拘束した。
魔族は意味をなさない悲鳴をあげていた。
ガロンはゆっくりと身体を起こし、巨大な左脚をそっと魔族にのせようとする。
魔族は拘束を解こうと必死にあがくが、無慈悲なまでの魔力差がそれを許さない。
魔族ができることはもはや、許しを乞う金切り声をあげるだけであった。
そして、それをガロンがきくことはなかった。
避けようのない死が、魔族を押しつぶす。
それきり魔族が静かになった。
※
リティシアはすこしはなれた場所から巨大な赤竜の姿を見ていた。
竜は力強く、今までの自分の悩みがすべて馬鹿らしいものに思えた。
空を見上げると、雲の合間から日差しが覗き込んでいる。
きっとこれから晴れるであろう。
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