第3話

中学3年生になった。

その頃、同じ中学で部活の先輩だった山田先輩が塾に戻ってきた。

特に仲が良かった先輩。

高校2年になった先輩は大学受験のためにまた同じ塾に通うことにしたらしい。


久しぶりの再会に、私たちは先輩が中学生だったときのように仲良しになった。

でも、私も受験生で先輩も高校生用の授業を受けていたから会う機会はあまりない。


それと同時に、授業が増えて中村先生と会う頻度は多くなっていたが、ゆっくり話す機会は減っていた。


中学3年生になって塾の先生たちは、厳しくなった。

そんな中、中村先生は変わらなかった。

でも、授業中自分の想いについて話すことは増えていた。

きっとそれが先生のやり方だったんだろう。

他の先生は、厳しさで生徒たちに受験の緊張感を持たせようとする中、中村先生は生徒たちに期待して自分の熱意を伝えることで、勉強をさせようとした。


そして、そんな先生のやり方の方が生徒たちに受け入れられた。


ある日の授業中。隣のクラスから他の先生が怒鳴る声が聞こえてきた。

その先生はよく怒る人で、授業中当てられたことがある私も、間違えてため息をつかれたことがあった。


こちらの教室で授業をしていた中村先生は、徐にチョークを下ろした。

「先生は、あんな風に怒れないな」

少し笑いながら言う。怒鳴り声に反応するとは意外だった。

「あんな風に怒るのは、先生たちもお前らのこと合格させようと必死だからなんだ。

ああやって言ってしまう気持ち、先生もすごい分かるよ。

…でも怒ってもお前らにそんなことは伝わらないだろ?」

みんなの顔を見回す先生。

「先生は、お前らに失望されるのが一番怖い。だからああいう風には怒れないよ」


先生はよく親の話もした。

私たちの親の話だ。

「朝起きたら、朝食ができているだろ?それって当たり前じゃないんだよ。

お前らの親御さんも「頑張れ」なんてわざわざ言わないけど応援しているんだ。

お前らのこと。

塾の帰りお前らを迎えに行ったら「ありがとう」って言われる。

それだけできっと嬉しいって思うよ。

それが親孝行になるから、たまにはちゃんと感謝しろよ」


先生は、幼いころに母親を亡くしたらしい。

その話もなんの気ないようにみんなに言っていた。

「もし自分に子どもができたら、すごくかわいがると思う。

ぜったい親ばかになる」とも。

子どもの話をする先生は楽しそうで、子どもが好きと言うより「家族」が好きなように感じた。

私はいつもそんな先生を見て

「先生は寂しいのかな。家族がほしいのかな」

と、なんとなく思っていた。


先生に抱く感情。

それが特別なものだと言うことにはとっくに気が付いていた。


でも、それが「好き」という言葉で表していいのかは分からなかった。

先生は私を肯定してくれる。私を見てくれる。私に期待してくれる。

もっと私を見てほしい。期待してほしい。褒めてほしい。


でもそれは憧れに近い感情で、いつも私の言葉を聞いて肯定したり、私の小さな世界を広げる助言をしてくれたりする先生はまさしく私の「先生」で、私は先生の言葉を一つも聞き逃さないようにいつも必死で。

これを好きという簡単な言葉で表していいのだろうか。

考えても分からないことには蓋をした。


でも、先生はそんな私の気持ちを分かっているかのように、私の気持ちを「好き」へと傾かせるかのように、私に触れてくるようになった。


平日の昼間。自習をしに塾に来ていた。

広い教室に一人きり。

集中してノートに向っていると、遠くから聞こえていた革靴の足音が止まり顔を上げた。


先生が目の前にいた。久しぶりに2人きりで話す先生にドキンと胸が鳴るのが分かった。

「勉強してていいよ」

そう言って、私のすぐ後ろの席に座る。


先生を気にしないように単語を書いていた私は、後ろから髪をひっぱられて手を止める。

「気にしないで」

振り向くと、なんでもないように先生が言った。

このまま勉強を続けろということらしい。


私はまた前を向きなおす。

すると、今度は髪を手櫛で梳かしはじめた。

それでも前を向いたまま集中しているふりを続けていると、シャーペンを持っていない左腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。

振り返る私に、先生は黙ったまま。視線だけで「続けろ」と言う。

腕を掴まれたままの私は身体半分が後ろを向いた体勢のまま、ノートに向き直るしかなかった。


先生は私の腕をつまんだり、おしたりこねたりしている。

それに飽きると、手を繋ぐように握った。


心臓がうるさくなる。手汗が心配になった。

それでも私は平静な顔を作りながら、必死でノートに単語を書く。

当然頭に入ってなんていない。


先生は繋いだ手の上に頭を置いて、机に突っ伏して目を閉じた。

2人きりの教室にはシャーペンがノートをすべる音だけが響いていた。


それから何分たったのか。

廊下が騒がしくなる少し前に

「じゃあ、頑張れよ」と私の頭を撫でて何事もなかったかのように教室から出ていった。

その日は1日勉強に身が入らなかった。


それから益々頭を撫でたり、頬をつねったり、意味もなく腕に触られることが増えた。

私はその度に、早くなる鼓動を抑えるのに必死だった。


そしてもう一つ、先生がよく言ってくることがあった。

それは「先生と結婚する?」だ。


私が親の言葉で傷ついた話をしたとき、テストの点が思ったよりも良くなく落ち込んだとき、帰り際先生に突然腕を掴まれたとき。

前触れも、流れもなく、先生は突然そんなことを言って私の顔をじっと見た。

その目を見返しても「冗談だよ」と笑ってはくれない。

「はやく答えろ」と視線で促す。


私はそれに「はい」と答えることは一度もなかった。

先生の戯言を真に受けられるほど素直ではなかったし、先生が私をからかっているんだと言うことは分かっていた。

そう言われたときはいつも「そんなに相手に困っているんですか?」と笑いながら返した。


でもある日。

軽口でごまかすことを許してくれない時があった。

先生は帰り際私を呼び止めた。それは先生が気まぐれにやる行動で、私はその度に胸がうるさく鳴った。


近くに来た私の腕をつかむ。

そのまま自分の近くに引き寄せた。

少し距離を取ろうとしても、先生はぐっと腕に力をいれてそれを許さない。

どこを見たらいいか分からない私に、先生は腕をつかんだまま聞いた。


「なあ」

「…はい?」

「今から言うことに素直に答えてほしいんだけど」

「…はあ」

変な前置きをした先生は、私を近くに引き寄せたまま言った。

「先生が本気でプロポーズしたら、おまえ断れないだろ?」

「え。…なんですかそれ」


いつもと少し違う確信に満ちた言葉。いつものように笑って流そうとする私にもう一度言った。

「…断れないよな?」

先生は目を合わせるように、腕をぐいと引っ張った。

その目は真剣で、顔は笑ってもない。


「…」

「先生はおじさんだけど、先生にプロポーズされたら断れないだろ?」

「…」

「なあ」

「…はい」

「なに?ちゃんと言って」

「…断れません!」


促されるままそう言っていた。

先生は力を込めていたのが嘘のようにパっと手を放した。


「だよな」

そしてにやりと笑う。

「なんでこんなこと言わせたんですか!」

顔を赤くしながら聞いた私に先生は言った。


「うーん、優越感かな」


そこには、悪い大人の顔をした先生がいた。

「ほんっと性格わるいですね」

私が毒づくと、「ごめんごめん」と心のこもっていない謝罪をする。

「でも、そんな先生のこと断れないのはお前だろ」


私が中学生じゃなかったら、こんな男のこと「クソだ」と一蹴して自分のことを大切にしてくれる人を探しただろう。

でも、その時の私は自分の気持ちを弄ばれるようなことをされても、少しも幻滅しなかった。

そもそも同等な立場なんて最初から思っていない。

私は常に恋焦がれる側で、先生は私を弄ぶだけ。

それが痛いほど分かっていた。

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