45.【決壊③】

「テミス」


 ティアは突き破られた食堂の壁の外で、その名を呼ぶ。

 探すまでもない。


 彼女は逃げる素振りも見せず、ただそこに悠然と佇んでいた。


「失敗、しちゃったのなの」


 そう言って、はにかむようにテミスは笑う。

 

「諦めるんだぞ。テミス」


 攻撃術式を発動直前で構えながら、ティアは彼女に言った。

 降伏勧告だ。

 

 今ならば、まだ間に合う。――かもしれない。

 300年前に姉妹機として製造され、そしてここで姉妹として振舞った時間は忘れがたい。


 それはティアが【姉】としてできる、最後の行動だった。


「お姉ちゃん……テミス。テミスね……?」


 テミスは自分の服の裾を握りしめながら、もじもじと落ち着かなげに視線を落とす。

 

 それが懺悔の言葉だったならどんなに嬉しいだろう。

 それが自分と同じく戦いたくないという言葉ならばどんなに喜ばしいだろう。


 だがティアは、しょせんそれが自分の願望だということを認識していた。

 

 ――顔を上げたテミスはいつもと変わらない笑顔だったのだから。

 

「今、すっごく嬉しいの……!」

「嬉しい……?」

「だってテミスはお姉ちゃんの妹だけど、テミスの方が性能が高いのは知ってたのなの!」


 彼女の言うことは正しい。

 形式番号が並びであったとしても、その性能がまったく同等とは限らない。

 むしろ後継機であるテミスにあって、自分にはない機構がある可能性は大いにある。


 人が追いつけない速度で科学力が進歩した時代なのだ。


 ティアの基本性能がテミスに劣ることはあっても、その逆はあり得ない。

 

「どうせ『お姉ちゃん』なんて呼んでも、『お姉ちゃん』らしくないって思ってたの! 『パパ』もそう! 今思えば『パパ』なんて呼んで甘えてみせたけど、結局はぜんぜん賢くないの! だから、テミスはお姉ちゃんをお姉ちゃんなんて思ってなかったの!」


 テミスは両腕を広げて思うままに語り出す。

 そうだろう。上位モデルであっても、ときに人が重きを置く血の繋がりや、何かの縁を信じることは難しい。

 

 だから、子供たちはティアたちを【ママ】とは呼ばない。


 自分たちは人ではない。親から子への愛情も、母としての母性も、成体が幼体に見せる庇護欲も理解できない。

 最初はそう思っていたから。

 

「お前は最初からあるじを殺しに来たのか? そのためにあちきを『お姉ちゃん』なんて呼んでいたのか?」


 ティアは自分の発言に、いつもの抑揚がなくなっていることに気づく。

 なぜかはわからない。しかし、この質問が自分にとって最も重要であることを認識していた。


 テミスはピタッと止まって、こちらを指差す。

 

「そうなの! けどっ! けどなのなの! さっきのお姉ちゃんは本当のお姉ちゃんみたいで、カッコよかったのなの! こんなの初めてなの! これがお姉ちゃんなのなの!?」


 テミスは新しい何かを見出したかのように、目を輝かせている。

 きっと、その感覚はテミスにとっては新鮮で、とても感動的なものだったのだろう。

 

 なるほど。ならばいい。


 ティアは息を吐いて、自分の目的を確かにする。

 

「だからね! お姉ちゃんにはもっとお姉ちゃんらしいとこ――」

「もういいんだぞ。テミス」

 

 テミスが動きを止めた。

 目を丸くして、舞うように広げていた腕を降ろす。


「もういいって……どういう意味なの? お姉ちゃん」

 

 彼女の背後に赤い揺らめきを察知して、ティアは知覚速度をもう1段階上げる。

 『敵』の言葉にもう耳を貸すのは、やめにした。

 

 この個体はティアのマスターを殺害することを目的にここへ来た。

 その事実だけで、ティアは十分だった。

 

「お姉ちゃんはお前を殺すことにしたんだぞ」

「壊すのなの?」


 胸の前で両手を握りしめて、テミスはいかにも嘆かわしそうに言う。

 

 可愛い妹。犬など飼ったことはないが、子犬がいればこんな風について回ってきてくれたかもしれない。

 広い艦内で、無秩序な世界で、長いときを経て、唯一の姉妹機に巡り合うことができた。


 その事実はこの上なく幸運なものだった。

 けれどこの話は、それで終わりだ。

 

「あるじを殺そうとしたお前を、あちきは許さない」

「あの悪魔の命令で?」


 ティアは一歩、テミスに近づいた。


「みんなを騙してあるじを危険に晒したお前を、あちきは許さない」

「妹のテミスを?」

 

 もう一歩近づくと、テミスの紫色の髪の毛が淡い光を纏うのがわかった。

 ボディの出力を戦闘状態に引き上げた排熱がそうさせるのだろう。


「あるじからお前のことを頼まれたあちき自身が、お前を許さない」

「お姉ちゃんが?」

 

 どんなことをしても、どんなことになろうともアドニシアを守る。

 それが姉妹機だろうが、関係ない。

 

「お前を破壊する」

「あはっ……あはは! じゃあ最後に見せてなの! お姉ちゃんのもっと! ううん、全部! テミスに――っ!」

 

 バキン、と音がして、テミスの立つ床材がひしゃげた。

 

「見せてほしいなのなのなのぉぉぉぉ!」


 人間の目では捉えることが困難だろう速度で、真正面から突っ込んできたテミスが拳を振り上げる。

 発動時に顕現する幾何学模様は【衝撃波ショックウェイブ】の前兆だ。


 ティアは予め溜めておいた自らの【衝撃波ショックウェイブ】で、先ほどと同様に迎え撃つ。


 ヘクスの生み出す斥力波同士がぶつかり合い、眩い光を撒き散らした。

 

「ぐっ!?」


 だが、ティアの体はその場から20メートルほど吹き飛ばされていた。

 DCSダメージコントロールシステムでは異常はない。相殺した余波を食らっただけだ。

 だが、今度はこちらが吹き飛ばされるとは。


 まだこの姉妹機は、本気を出していなかったらしい。

 

「やっぱりあの悪魔の力なの? すっごく硬いの!」


 今の速度を見るに、テミスもヘクス原体を持つマスターからのエネルギー供給を受けていることは明白だ。

 性能も限界以上に引き上げられているだろう。


 でなければ、20メートルというこの距離で、極近距離戦闘が始まるわけがない。

 吹き飛ばされたティアの眼前にはすでに、構えを取ったテミスが肉薄していたのだから。

 

「あるじを――ッ!」


 知覚速度を何十倍にも引き上げられた世界の中で、ティアの股関節部が滑らかに振り上げられる。

 高い位置に達した踵を、白い光が纏った。

 

 これは術式でも武装でもない。

 強いて言うのならば運動性能を向上するための補助だ。

 

「悪魔なんて呼ぶなッ!」


 一時的に亜空間から質量を取り出し、体の一部に付与する。

 同時に電磁シールドをピンポイントに発動させることで威力を増した踵落としをティアは見舞った。


 テミスはその踵が振り下ろされる前に接近できると踏んでいたのか、表情を変えて咄嗟に腕を交差した。

 そこにティアの踵落としが直撃する。


「あっ……あはっ……!」

「てやあああぁぁぁッ!」


 テミスの防御による一瞬の抵抗――だが、彼女を支える床はそれに耐えられなかったらしい。

 床材へ放射状に亀裂が生じ、受け止めきれなかった衝撃がティアの足元までを巻き込んで周囲を崩落させた。


 轟音が艦内を揺らし、ティアとテミスは下層のブロックへ落下する。


 砕けた床材やひしゃげたフレームが空中を舞う中でも、戦闘は終わらない。

 それらの瓦礫を足場に、ティアはテミスと打撃を交える。

 

「すごい! すごいの! お姉ちゃんも一緒に来るの! 汚染されたデータを綺麗にして、テミスと一緒に頑張るのなの! どう!?」

「お前を破壊してから考えるんだぞ!」

 

 ティアが肘打ちを繰り出せばテミスはそれを受け流す。

 その勢いを利用したテミスの裏拳が顔面を狙ってくるが、ティアの膝蹴りがそれを阻止する。


 技量はまったくの互角――互いに有効な打撃を与えられていない。


 ティアは落下してくる破片を避けながら着地すると、同じく猫のような身のこなしで降り立ったテミスを見据えた。

 

『ティア。敵性オートマトンとの格闘では致命的な損傷は与えられないと思われる。分析の結果、同様の格闘ソフトウェアを使用している模様』

 

 そのとき、イーリスから通信が入る。

 それはティア自身も今しがたの打ち合いで理解していた。

 

 このままでは致命打を当てることは叶わない。

 ならばどうすればいいのか。


『既存のデータに頼らず、現在までの蓄積データによる対応を提案』

「ヒーローの物真似なら大得意だぞ」

 

 ティアは足場の邪魔になる瓦礫を蹴り飛ばしながら吐き捨てる。

 

 これまで自分はクレイドルの生活の中で色々なものを見た。

 最初は子供たちと遊ぶために見始めた幼児向けの古い映像作品からだった。

 そのうち、ティアはそれを「面白い」と感じて、様々なアニメや映画を見た。

 

 それらは全て空想だ。


 どれだけ高く跳躍しようが横方向への蹴りの威力は変わらない。

 指で人間の特定部位を刺激しても相手の頭は爆発しない。


 けれど、その空想を現実に変える機構がここにはある。

 ヘクスは単なるエネルギー供給のための物体ではない。

 元は人の精神に感応し、事象変異をもたらすマザーコアの末端機関だ。


 だから物事は単純だ。常に自分はそう考えてきた。


 つまり――ティアができると思えばできる。


 高速で思考しているにも関わらず、その間にテミスは拳を振り上げてティアにせまっていた。

 だからこそ、既存の情報を踏み越えるために、ティアは笑って覚悟する。

 

「あちき流格闘術そのいちィ!」

「あはは! お姉ちゃんが急にバカになったの!」

 

 案の定、笑われた。

 自分でも何を言っているんだろうと思った。


 だが断行する。必ずできる。絶対に決まる。確実に殺す。


 そう決意したティアの感情に、両手のヘクスが反応したように光った。

 電磁シールドをピンポイントに張ったテミスの拳が迫る。

 

「さまーそるときっく」

 

 相手の動きから視線を外すことにもなるが、ティアはその背を反らしながら跳躍――同時に、全力で足を蹴り上げた。

 背後に回転しながら繰り出された蹴りは、テミスの拳が届く寸前、彼女の顎先を掠めるように打ち上げる。


「へひゅっ――!?」


 もちろんティアにインストールされた格闘ソフトウェアの中に「サマーソルトキック」などという技は存在しない。

 だが、それはまるで映像作品のように、物理法則を無視した速度で確かに放たれた。


 ティアはつま先を床に突き刺すように着地し、テミスを見る。

 顎を破壊する威力を持っていたはずだが、彼女の防御は間に合ったらしい。

 丸顔の可愛らしい顔面は健在で――しかし、多方向に小刻みに動く双眼がそのダメージを表していた。


 周囲を覆うフレームさえ破壊されなければ流体金属素子のCPUは機能を停止しない。だが、強力な衝撃や振動を受けると、わずかにだがその演算にノイズが入る。

 

 やるならば、テミスがそのノイズから復旧する前――!


 ティアは攻め手を考える前に床を蹴っていた。

 その他の演算に割く余裕はない。


 ただひたすらに早く、拳を打ち込むための踏み込み。


 ティアの繰り出した正拳突きが、テミスの顔面へと叩き込まれた。


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