第195話

***頼信⑮***


 ダンスのために密着して、クルルの熱い体温を胸に感じている。


 けれどその緑色の瞳は嫌そうに細められ、忌々しそうにこう言った。


「お前、ドドルと会ってたのか」


 思ってもみない言葉に、ぽかんとした。


 クルルはその間にもう一度匂いを嗅いで、体を離す。


「くそ、間の悪い……」


 忌々しげにつぶやいて、縁石の上に置いた酒に手を伸ばしていた。


 取り残された自分は、自分の服の匂いを嗅いでみるが、もちろんドドルの匂いなんてわからない。ただ、臭かったわけではないらしいので、その点だけはかなりほっとした。


 前の世界では、年齢的に加齢臭の単語がひたひたと近寄りつつあったので、なおさらだ。


「そんなに……しますか?」

「あいつに抱きついてるみたいでぞっとした」


 確かに、クルルの尻尾を見るといささか尻尾の毛がぼさついていた。


「せっかく無様な踊りをからかおうと思ったのに」


 やっぱりそれが目的かと苦笑いしていたら、クルルは言う。


「それになんだ、お前、ドドルを脅したのか?」

「え?」

「あいつはよほど緊張してたんだろ。そういう匂いがする」


 言われ、ドドルの話の内容を思い出すと、むべなるかなと思う。


 ドドルは戦を前提にした社会は良くないと進言してきた。

 戦いによって人間から支配権を取り戻すと息巻いていた張本人としては、なかなか言い出しにくいことだったろう。


 けれどそれでも、獣人たちにとって良くないことだからと思い、自分に提案してきた。


 言いにくいことでも、正しいと思えばきちんと言える。


 ドドルはやはり、得難い人材だと思う。


「けど、すごいですね、そこまでわかるんですか」

「当たり前だ。だから、今のお前が、いかに緊張していたかも丸わかりだ」


 踊りのために体を密着させ、腰に手を回した。


 クルルの意地悪な笑みに、自分は情けなくも顔を逸らす。


 クルルは機嫌よさそうに喉を鳴らしてくつくつ笑い、肩を寄せてくる。


「広間に顔を出した時もすぐわかったぞ。逃がすものか」


 どうやら匂いで気付かれていたようだ。


 こちらを見上げるクルルの目は、まるっきりおもちゃを追いかける猫そのもの。


 やられっぱなしも悔しくて、こう言った。


「自分だって、クルルさんが背後に立ったのはわかりましたよ」


 イーリアが干したての布団のようなら、クルルは蜂蜜のような匂いがするから。


「たまたま気がついただけだろ、偉そうに」


 不服そうなクルルだが、さすがに女の子相手に体臭のことを言うのがセクハラなことくらい、自分にもわかる。


 けれど、なんならクルルの耳の付け根は特にクルルらしい匂いがすることも知っている。


 その余裕が顔に出ていたのか、クルルはますます顔をしかめていた。


「ふん。そろそろ広間に戻るぞ。イーリア様がむくれてるかもしれない」


 歩き出そうとするクルル。

 自分はその手を、ぎゅっと掴んでいた。


「んあ?」


 クルルがこちらを振り向いた。


「なんだ、本当は踊りたかった……の……」


 クルルの言葉が消え、顔が引き締められていく。

 なにか起きたのかと、クルルはすぐに周囲を見渡し、警戒している。


 けれど自分のほうも、どうしてクルルの手を掴んだのかわからなかった。

 わからなかったが、ある言葉が頭の中で反響し続けていた。



 ――イーリアは干したての布団のような、クルルは蜂蜜のような匂いがする。

 ――なんならクルルの耳の付け根は、特にクルルらしい匂いがする。



 これは、なんだ?


 なにかとてつもなく大事な手掛かりのような気がして、それを掴むために、思わずクルルの手を掴んでいた。


 匂い。匂い、匂い。


 そう。広間に現れた自分を、クルルは匂いですぐに気が付いたという。

 さらにドドルの言葉だ。


 ワレらは前に立てば――。


 


「おい、ヨリノブ、一体なにを――」


 そう言いかけたクルルの体を、思い切り引き寄せていた。


 これだ、これが答えなのではないか。

 銀行は、これで作ることができるのではないか。


 今回、前の世界の知識チートは役に立たなかった。

 おまけにこの手の話でありがちな、ギルドカードみたいな便利道具もなかった。


 しかし、どこにでも道具はある。


 この世界ならではの、確実な方法があった。


「ヨリ……おい、ヨリノ、ブ……」


 手首を掴まれ、強引に引き寄せられたクルルが、困惑したようにこちらを見ている。


 踊りを教えてやると言って密着した時には余裕しゃくしゃくだったのに、今はいつもの強気が鳴りを潜め、イーリアよりもよほど乙女な素顔が見え隠れしている。


 そのクルルに、自分はゆっくりと顔を近づけていった。


「へっ? ゃっ……お、い、ヨリ……」


 クルルはもがこうとするが、本気で抵抗しているわけではない。

 ただ赤く染めた頬と、伏せがちの長いまつげの下で、上目遣いの瞳が不安そうにしている。


 そのクルルが、唇をきゅっと引き結んでから、目を逸らして軽く顎を上げる。

 なんなら、少し背伸びをしていたかもしれない。


 自分はそんなクルルに、顔を近づけていく。


 クルルの体が、こちらの腕の中で、明らかに緊張で硬くなる。


 …………そして。


 その耳の付け根に鼻を当て、思いきり吸い込んだ。


 脳髄を、クルルの蜂蜜のような匂いが刺激する!


「これだ!」


 クルルをクルルだとわからしめる独特の匂い。


 それはつまり、身分の証である。


 身分確認は、解決できる問題なのだ!


 獣人たちならその匂いで誰かをすぐに判別でき、しかも体臭は偽造しにくいのだから。


「これです! これで銀行を作れます!」


 自分は謎が解けた嬉しさで、感謝の口づけのように何度もクルルの頭の匂いを嗅ぐ。


 この方法なら、自分の名前を書けるかどうかすら関係ない。

 それに匂いを確認する獣人たちに、まったく新しい仕事を提供できる。


 ついでに銀行の窓口に獣人がいてくれたら、銀行強盗をするような馬鹿もいなくなる。


 完璧な計画だった。


「クルルさん、ありがとうございます! クルルさんの匂いのおかげで、ジレーヌ領は前に進めますよ!」


 クルルに感謝を伝えると、クルルはぽかんとして、曖昧にうなずいていた。


 銀行の素晴らしさがまだ実感できないだろうから、仕方ない。

 けれどすぐにその利点を理解してくれるだろう。


「広間に戻りましょう。健吾とコールさんに話して、銀行設立の計画を練らないと。金貨の問題もこれでかなり解決するはずです。そうしたら、ええっと、次は――」


 やるべきことを頭の中で並べ立てながら歩きだそうとしたら、ぐいっと手を引かれた。


「ヨリノブ」

「はい?」


 振り向いた直後、目についたのは、真っ赤になった泣きそうな顔。


 そしてこちらがなにかを言うより早くに迫りくる拳……を視認しところで、意識が途切れたのだった。

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