第194話

***頼信⑭***


 廊下から広間を覗くと、すっかり宴会の体だった。

 ご馳走が並び、楽師が奏で、イーリアとコールが踊っている。


 コールの顔が赤いのは酒のせいではなさそうだが、それでもさすが貴族の生まれで、つまずきがちなイーリアを上手にエスコートしていた。


 もっとも、イーリアのほうは明らかに酒に酔っていて、げらげら笑いながら踊っているのだが。


 その様子に陽気に手を叩く健吾がいて、クルルが呆れたように酒を啜っている。


 バードラの領主や、おそらくバードラの重鎮であろう者たちは、イーリアの盛り上がりようにいかにもほっとしたような顔をしていた。


 イーリアはすでにお飾り領主ではなく、怖れられ、要らぬ気を回される側だ。


 もしもクルルの提案に従って晩餐に出ず、さっさと帰っていたら、バードラの領主は夜も眠れなかったに違いない。

 あるいは彼の誇りを傷つけ、謀反の芽を植え付けてしまっていたかもしれない。


 その意味で、イーリアのあれは領主様としての立派な仕事だ。


 半分以上は、忙しいジレーヌ領での仕事から解放されての、憂さ晴らしだとしても。


 自分はそこに混じる気もなかったので、中に案内しようとする屋敷の者に断り、飲み物だけもらって中庭に向かった。


 ドドルの話もあったし、やはりジレーヌ領をもう一歩前に進めるには、銀行制度が必要だと痛感していたので、そこも考えたかった。


「身分、確認……」


 それができれば銀行が作れて、銀行ができれば預金を集められる。


 預金はそのまま自由にできる金貨であり、人々も口座ができることで貯蓄ができる。


 さらに口座から口座への振り替えをやれば、あのクリアリングハウスのように、現金を介さず人々の買い物を仲介できる。


 ジレーヌ領の経済を爆発的に発展させるには、ぜひとも必要な制度なのだ。


「身分、確認、身分、確認……」


 ぶつぶつ呟きながら、署名や証明書の発行などを考えていく。


 けれど、どれも不確かだったり、紛失の場合のリカバリー方法がなかったりと、問題ばかりだった。行政制度が確立され、身分保証のための方法が複数種類存在しないと、どの方法もうまくいきそうにない。


 人口が増えれば見知らぬ者がほとんどとなり、昔ながらの身分確認はすぐに役に立たなくなる。

 その人物が誰であるかと記録、管理しようと思えば、巨大な行政・官僚機構が必要になる。


 これは再び、人口の問題に話が戻ってきてしまう。


 増えた人口のせいで起こる問題を管理したかったのに、ますます人口を増やさなければならないのだから。


「なにか、ないか……知識チートみたいなものが……」


 文字の読み書きが全員出来るわけではなく、特定の住所すらないその人物が、誰であるかを示すものといえば、周囲に住む人の証言だけ。


 この世界で、土地や家を持つ者たちのことを市民と呼び、名誉ある人とするのには理由がある。


 身分を証明する方法が、それくらいしかないのだ。


「うーん……」


 唸りながら、酒を口につけようとした直後。


 ふわっと嗅ぎ慣れた匂いがした。


 振り向くと、クルルがこちらの頭を叩こうとしていたのか、手を振り上げたところだった。


「あれ、クルルさ――あいたっ」


 いたずらがばれたクルルは、不機嫌そうにこちらの頭を叩いてくる。


「なんでこんなところにいるんだ」


 そう言って睨みつけてくるクルルの目は、不機嫌というより、酔っているように見えた。

 それにいつものお仕着せの格好だが、なんとなく全体的にくたびれていた。


「クルルさんこそ、いいんですか?」


 ロランで毒を盛られた一件から、クルルは晩餐を警戒していた。


「調理場をカカムの奴が見張って、イーリア様が踊り狂っているところはバダダムが見張っている」


 万全の体制。


 ただ、クルルが席を外したのは別の理由があるような気がした。


「踊らされたんですか?」


 少し笑いながら尋ねると、思いきり嫌そうな顔をしたクルルから、足を蹴られた。


 やはり全体的にくたびれているのは、イーリアに無理やり引き出されて、踊らされたせいなのだろう。

 だいぶ盛り上がったようなのは、まだ少し前髪が湿っているところからもうかがえた。


 それに、こちらを驚かそうと忍び足で近寄ってきたクルルに気がつけたのも、クルルの匂いがしたからだ。


「お前も同じ目に会え」

「絶対に嫌です」


 だから広間に入らなかった。

 クルルが自分に気がついたのは、きっと広間から逃げ出したくて、出口の様子を窺っていたからだ。


「ふん。それで、仕事は?」

「終えてきましたよ。獣人の皆さんが円滑にジレーヌ領にやってこられるよう、手配してきました」

「そうか」


 クルルはそう言って、目を閉じると、ひっくとしゃっくりする。


「結構飲んでるんですか?」

「イーリア様がしつこいからな……」

「水をもらってきましょうか?」

「いらない。大して酔ってない」


 酔っぱらいはただでさえ頑固だ。

 曖昧にうなずいて、折を見て水をもらってこようと思う。


 ゆっくり目を開いたクルルは、ぼんやりと言った。


「結局、今回のことでいくら借りたんだ?」


 その言葉の後に向けられた目は、酒の飲み過ぎを諫めるのと似たような目つきだった。


「いくら、でしたかね」


 細かいことは健吾とコールに丸投げしていたので概算しかわからないが、ざっとした金額を述べる。


「多分、金貨で四百万枚くらいじゃないですか?」


 物価の物差しが前の世界と全然違うのであれだが、金貨は一枚で数万円くらいの感覚だ。

 すると今回の取引は、五百億とか一千億とか、そういう規模の商談となる。


 もちろん数百万枚の金貨なんてものは、バードラの町全体の貯金箱を割っても出てこない。

 これからバードラの領主が、イーリアの歓心を買いたい者たちから金貨を集めるのだ。


 そもそも町の建設も一気に全部やれるわけではないので、すべてが終わるまでには数年かかるだろう。


 そんな諸々を、酒をすすりながらクルルに説明した。


「なのでこの借りた金貨は、今のところ契約書の上にだけ存在するものですね」


 クルルはこちらの手から酒を奪い、一口すする。


「ケンゴの奴は、金貨も借りたって言ってたぞ」

「あー……この町の商会の人たちが、イーリアさんに交易の特権を願い出ていましたから。その対価です。金貨で、何千枚って言ったかな……」


 クルルは胡乱な目つきになり、呆れた様子で酒を飲んでいた。


 自分も感覚がマヒしつつあるが、クルルと一緒にノドンを倒そうとした時は、実験用の魔石を一個手に入れるのも大変で、それが金貨数枚とかいう話だった。


 それが今、ちょっとイーリアが微笑むだけで、数千枚が転がり込んでくる。


「前の世界にも、王様たちのいる時代というのがあったんですが」


 自分がぽつりと言うと、クルルの耳がぴんと立つ。


「……今は王がいないのか?」

「いますはいますけど、なんていうんでしょうか。言い方は悪いですけど、ノドン追放前のジレーヌ領みたいに、権力が制限されています。ただ、皆に尊敬されていて、その土地の象徴みたいな感じではありました」

「ふん」


 ノドン時代は面白い思い出ではないようで、クルルは鼻を鳴らす。


「で、王様の権力が全盛の時代、みんな山ほど借金してたんですよ」

「へえ?」

「しかも絶対に返せない金額を借りて、何度も踏み倒して。それでもなぜ借りられるのかなって不思議だったんですが、そりゃあ、こんなに簡単に手に入るなら借金しますよね」


 自分の言葉に、クルルは忌々しそうにため息をつく。


 その横顔を見て苦笑するのは、気持ちがわかるから。


 自分たちの置かれた立場のあまりの激変ぶりが、どこか滑稽にじるのだろう。


「あの時、お前の馬鹿な提案を受け入れたのが運の尽きだ」


 クルルはそう言って、ぐいっと酒を呷る。

 弱いわけではなかろうが、酒豪という感じでもない。


 飲み過ぎを諫めようとしたところ、クルルに睨まれた。


「お前だけ、いつも平気な顔をしやがって……」

「ええ……?」


 そんなことはないと思う。

 むしろだいぶいっぱいいっぱいで、顔に出ないように頑張るのが辛いくらいだ。


 戸惑っていたら、クルルは不意にくつくつ笑いだす。


「生意気だから、踊りを教えてやる」


 唐突だし、話が繋がっていない。

 いや、自分が踊れるはずないから、そのことをからかって憂さ晴らし、ということなのだろう。


 酔っぱらいめ……と思いつつ、クルルの手から酒を受け取って、近くの縁石の上に置く。


 クルルは腰帯を締め直し、髪もアップにまとめている。


 そんな本格的に踊るのかと慄きつつ、クルルのうなじに見とれていたら、目が合った。


「ほら、手を出せ」 


 犬のお手のごとく手を出したら、ぎゅっと掴まれ、引き寄せられる。


「照れずに背筋を伸ばせ。顎を上げて、足元を見るな。それだけでだいぶ様になる」


 てきぱきと指示を出されその通りにするが、多分、同じ台詞をイーリアか、さもなくばコールから言われたのだろう。


「手は私の後ろに回せ」


 クルルと正面からくっついてその腰に手を回すのは、やはりかなり緊張する。

 今までも距離が近いことはちょくちょくあったが、戦いの場であったり、それどころではないことが多かった。


 こうしてきちんと相対すると、やっぱりクルルの体つきはきちんと女の子なのだと実感する。


「えっと、それから……?」

「それから……なんだったかな。そう。右足、左足、右足、右足が基本の組み合わせだ」


 宮廷舞踏みたいなものは大体どこも似通ったものになるのだろう。

 とはいえもちろん自分が踊りなんかやったのは、小学生の時の林間学校以来だ。


 せめて足を踏まないようにしないと。


 そんなことをあえて頭の中で何度も繰り返すことで、密着しているクルルの体温やら、その体の華奢な割りに柔らかい手応えやらを、無理やりにシャットアウトする。


 しかし、言われたステップを頭の中で反芻し、心の準備をしていたが、クルルは一向に踊りださなかった。

 なにやら、もぞもぞしている。


 背筋を伸ばして顎を上げていたので、なにをしているのかよくかわらない。


 ちらりと視線を向けたら、クルルは鼻でも痒かったのか、こちらの胸に顔を近づけていた。


 いや、違う。

 なんだかやけに真剣な顔で、こちらの匂いを嗅いでいるのだ。


「あ、の?」


 臭かったろうか。


 この世界は、毎日風呂に入るような習慣がない。

 水浴び程度はちょくちょくしているが……と思ったら、クルルが急に顔を上げて、目が合った。


 まつ毛の本数まで数えられそうな距離から向けられる、大きくて綺麗な緑色の瞳。


 密着したクルルの体からは、その体温の高さが伝わってくる。


「えっ……と……」


 緊張でかすれる声で、そう聞き返した直後のこと。


 クルルが言った。


「お前、ドドルと会ってたのか」


 クルルはものすごく嫌そうな顔で、鼻の頭には皺まで寄っていたのだった。

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