第184話
***ヨシュ③***
ヨシュは、酒場でちびりそうになっていた。
商人たちの様子を眺める頼信の横顔に、息ができないくらい感動していた。
頼信が用意したのは、ちょっとした喩え話と、数杯のお茶だけ。
たったそれだけで、商人たちの顔を見る見るうちに明るく変えてしまった。
途中からはヨシュと、それから頼信も、ほかならぬジレーヌ領で最も大きい商会の代表として、帳簿の数字を他の商会主たちと照らし合わせ始めた。
それはまさに魔法であり、ものすごい勢いで数字が消えていった。
どうにもならないと思っていた大量の取引契約が、嘘のように消えていくのだから。
手で触ることのできる物を売って、重みを感じられる金貨を受け取る。
商いとはそういうものだと思っていたのに、ここにあるのはまったくの別世界であり、なんならなにかインチキめいたものにさえ見えた。
日が暮れる頃には、クリアリングハウスと名付けられた建物の中には、商人たちの熱気の残滓と、心地よい疲れに似た、穏やかなざわめきが満ちていた。
そして手元の帳簿に、数字が一列だけ残っている。
商会は結構、いや、かなり儲けていた。
そして驚くべきことに、どこの商会もそうだった。
けれどこれも、頼信の説明によれば当然のことらしかった。
ジレーヌ領という島は、魔石を売った金貨が常に大量に外部から流れ込んでいる。おまけに今は、各地の領主たちがもたらす金貨だってある。
そして島の商会は事実上、その溢れかえる金貨を分け合っていることになるのだから。
ヨシュはその説明に、鳥になって商いというものを空から眺めたような気になった。
そういうものの見方があるのかと。
おまけに頼信の魔法はそれだけでなく、もうひとつ別の効果を発揮し始めていた。
どこの商会も、自分たちの抱えている借金が、見た目ほど大きいものではないと理解し始めた。
それまでは取引が山のように積みあがっていたが、足し引きしていくとどんどん減っていき、最後には手のひらの中に納まる程度のものが残ると判明した。
すると各商会の主人たちは、隠し持っていた金貨での支払いに応じるようになったのだ。
いざという時に備え、金貨を溜めて置く理由がなくなったから。
たちまち、やはり金貨を溜めていやがったか、お前だってそうだろう、なんて罵り合いが起こりつつ、商人たちはどこかほっとしたように、契約の決済を進めていった。
もちろん本物の金貨が行き交うわけではなく、金貨で支払うという約束だけが、ぐるぐると色々な商会の間をひとしきり巡っていく。
そして大体が、その約束は最終的に頼信のもとに集まった。
ヨシュが身を切り刻むようにして、商会の金庫から取り出して商人たちに渡した金貨は、すべて大きく増えて戻ってきた。
きっと金庫には入りきらないくらいの量になるだろう。
これが魔法でなくて、なんなのだろう?
頼信には、普通の人には見えない世界を見る目が備わっているとしか思えなかった。
ペンと、インクと、頭の中だけで、世界のすべてを操れてしまうのだ。
ヨシュはまた泣きそうになったが、今度は頼信に見られていないはず。
目元を拭い、ヨシュが大騒ぎの後始末をしていたら、「お疲れさまでした」と頼信から声をかけられた。
商いの大魔法使いから労われ、ヨシュは思わず、大きすぎる声で返事をしてしまう。
頼信は驚き、それから笑っていた。
その後、マークスたちも交えて酒場で食事をとり、商会に戻って、仕事をした。
頼信と机を並べて仕事をできていることが、誇りに思えて仕方がなかった。
夜遅くまで働き、なんと頼信は商会の皆が雑魚寝をしている部屋で眠ると言い出して、さっさと横になってしまった。
ヨシュは緊張しながらも、結局頼信の隣に陣取って眠った。
翌朝は誰よりも早く起きて、頼信の寝顔を見た。
普通の人、いや、言葉を選ばなければ、普通以下に見える人。
不思議な人だとヨシュは思う。
そしてその不思議な人が目を覚ましたので、ヨシュは言った。
「おはようございます」
ヨシュの憧れの魔法使いは、なんだか恥ずかしそうに返事をして、二人して裏庭の井戸で顔を洗った。
ヨシュは頼信の隣にいられることが誇らしかったし、この人は島中の商人たちを危機から救い出し、あり得ないはずの金貨を持ち帰った英雄なんだと、みんなに大声で知らせたかった。
そして今日もその英雄と働けるらしい。
ヨシュはまだ眠そうな頼信の様子に少し笑いながら、揃って帳場に向かった。
ただ、その足が急に止まったのは、ヨシュも頼信も同時だった。
いや、頼信のほうが少し早かったかもしれない。
そこには、眉間に深い皺を刻み込んだ、クルルがいたのだから。
「いつまで寝てるんだ?」
イーリアの従者にして、ノドンと戦って追い出した立役者。
公然の秘密になっているが、ロランの宮殿を破壊して、怒り狂ったロランの反撃を木っ端みじんにしたのもこの人だとヨシュは聞いている。
そのクルルが頼信を睨みつけ、憧れの頼信はというと、棒きれのように固くなっていた。
ヨシュはそんな頼信とクルルを見比べ、そっと距離を開けた。
するとたちまち、頼信から縋るような目を向けられた。
薄情者、とでも言いたげな泣きそうな顔だが、ヨシュだって恐ろしくて、首を横に振ることしかできない。
「おい、誰に助けを求めてるんだ?」
クルルは頼信に歩み寄り、その耳を掴んで引っ張っていた。
頼信にそんなことをできるのは、この島ではクルルだけ。
ただ、ヨシュは恐ろしくて強張っていた体に、懸命に力を込めた。
憧れの頼信を、そんなふうに扱って欲しくない。
頼信はすごい人で、自分たちの主人なのだから――。
「……んっ?」
クルルの頭の上で、猫の耳がぴくりと動く。
そしてヨシュの視線に気がつくと、急にバツが悪そうな顔をして、頼信の耳から手を離していた。
「ったく。ほら、さっさと用意しろ。お前の馬鹿げた計画の後始末をしに行くぞ」
クルルはそう言って、さっさと商会から出て行こうとする。
頼信は新入りの下男みたいな様子で、その後を必死に追いかける。
ただ、ふとヨシュのほうを振り返って、こう言った。
「あの、お仕事を、お任せしても……?」
その情けない様子は、島の情けない男たちを順位付けしたら、きっとかなり上位にくるだろう。
けれどヨシュは、幻滅などしなかった。
先ほどの緊張の反動もあって、顔が勝手に笑ってしまいはしたが、これが頼信だと思った。
この人は、変な人だ。
ものすごく変な人だ。
多くの人は、情けないとか、腑抜けだとか見なすかもしれない。
でも、ヨシュはこの瞬間、頼信のことをますます好きになっていた。
「お任せください」
今度は言葉に詰まらず、泣きもせず、笑顔で答えることができた。
頼信の役に立つ。
それが神に与えられた使命なのだと思っていたが、少し違う。
ヨシュはただ単に、この変な人を助けたかった。
間抜けに見えてそのくせ頼れる、ヨシュだけがすごさを知る魔法使いを。
商会の前で待っているクルルにどやされ、頼信が平身低頭、小走りに駆けていく。
ヨシュはそんな英雄の背中を見送り、腕まくりをした。
「皆さん、今日も頑張りましょう!」
クルルと頼信の様子を見ていた商会の人たちに向けてそう言うと、元気な返事が返ってきたのだった。
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