第163話
途中でクルルに追いついて、バダダムは走るクルルをそのまま後ろから抱えあげる。
そのすぐ隣をヘレナが幽霊のように着いてきて、クルルがぎょっとしていた。
「お、い! なんで! こいつ、が!」
耳を切るものすごい風と、首が取れそうなくらいの上下動。
さらに胃の中身が全部出そうな浮遊感にたびたび見舞われる中、どうにか言葉だけを喉から出した。
「味方、に――なって――」
クルルが意をくみ取って、ものすごく嫌そうな顔をしてヘレナを見た。
『今はそんな感じなのね。百年前は天使様扱いだったのに。姿を見られたら困りそうだから、後でね』
その声は、頭の中に直接響くような不思議な感じだ。もしかしたら精神に作用する魔法の応用なのかもしれない。
ヘレナはそのままふっと姿を消してしまう。
クルルはますます顔をしかめてこちらを見ていたが、なにも言わず前に向き直る。
聖女役の少女たちがいる庵の前を、風のように走り抜ける。
何事かと聖堂のほうを窺っていた彼女たちが、悲鳴を上げていた。
その頃には森の木々の隙間からちらちら聖堂が見えていて、状況も大まかに把握できた。
天井部分に一部ぽっかりと大穴が空いて、煙が上がっているものの、追加の魔法が放たれた様子はない。黒い煙も、すでに青い空に消えようとしている。
それは勝敗が決してしまったことを意味しているのか、それとも単に膠着状態なのか。
聖堂の敷地を広く視界に収められる森の斜面に出たところで、バダダムが足を止めた。
悪い可能性を考えまいとしている様子のクルルが、待ちきれないようにバダダムの腕から飛び降りた。
「なにか聞こえるか?」
バダダムは息切れさえしていない。今までずっとそこに潜んでいたかのように、静かな面持ちで聖堂のほうに耳を向ける。
まだ聖堂までには結構な距離があるのに、多少ならわかるらしい。
『……聞き覚えのある師匠の声がする。なにを言っているかまではわからないが、一応無事のようだ』
クルルが険しい顔のまま、ほっとしていた。
『が、激昂して怒鳴り合っているふうだ。魔法を撃ったのは師匠かもしれないな』
「……」
クルルの顔の険しさの意味合いが変わる。
魔導隊は聖女を引きずり出すため、獣人を薪のように積み上げていた。
その獣人たちを助けに行こうと、クルルとバダダムは頭に血をのぼらせていた。
そこに撤退を言い渡したのは、冷静なゲラリオだった。
しかしあの時、一番怒っていたのは実はゲラリオだったのかもしれない。
やっぱりゲラリオは良い人なのだ。
実に得難い人を仲間にできた幸運に感謝するとともに、この窮地から絶対に救わなければならないと思い直す。
「バダダムさん、それで――」
そこまで言った瞬間、その大きな手がこちらの頭を押し下げた。
『ヒトが来ます』
バダダムが身をかがめ、同時に地面に押しつけられる。
腐葉土の匂いが鼻いっぱいに広がり、夏休みに飼ったカブトムシの籠のことを思い出す。
首筋に当たるのは草葉なのか、それとも肩を這って登ってきた虫なのか。
けれどいくら間抜けの自分でも動かず、息もしなかった。
木立ちの向こうから聞こえてくる足音の持ち主は、森にいるどんな猛獣よりも恐ろしい生物なのだから。
「へっ、聖堂では面白そうなことになってんのに、俺たちだけ山狩りかよ。お前が酒を飲みすぎるからだぞ」
「人のせいにすんな。鴨みたいに獣人を魔法で撃ってたのはお前だろ」
聞こえてきた話し声は、だるそうな若い男のものだ。
「さっさと調べて戻ろうぜ。面白いところが終わっちまうよ」
「聖女様がいるって話だろ。こっちもお楽しみさせてもらおうじゃねえか」
「馬鹿、隊長に殺されるぞ」
身分的には貴族というから、うわべだけでも上品な者たちを想像していたが、まるっきり口調がならず者だった。
なんならマークスたちのほうがましかもしれない。
「それにこっちの山には、なんか妙な魔法使いがいるかもって話だろ。そっちで楽しめるんじゃないか?」
「ああ? それが聖堂で暴れてる奴なんじゃねえの?」
不思議なもので、彼らの足音からも、不遜な感じが伝わってくる。
イキった輩がかかとでやたら足音を立てる、あの歩き方。
前の世界ならばその手の輩でもせいぜい格闘技経験者か、刃物で武装している程度だが、ここではそういう連中が兵器みたいな力を持っている。
そして体の内側からあふれ出る魔力と一緒に、倫理とやらも流れ出てしまっている。
聖堂に積み上げられた獣人は、面白がって狩られた哀れな獲物。
ジレーヌ領がおままごと、というゲラリオの言葉がよく理解できた。
「魔法使いが山に潜んでるなら、今もこっちを狙ってるかもな。へまするなよ」
「誰に言ってやがる?」
まさか気付かれてはいまい、と思うが、肝が冷える。
向こうは才能ある魔法使いの二人組で、こちらは半人前魔法使いが一人。
ただ、おそらく魔導隊は合成魔石の秘密を知らない。
ならば彼らが持っている魔石の大きさには限度があり、クルルの魔力の弱さというハンデは埋められるはず。
彼らが通り過ぎ、背後から奇襲すればおそらく勝てる。
まさに猫のように身を潜めているクルルも、そのつもりだろう。
「あ?」
そんな声と共に、男たちの足音が止まる。
そして、明らかにこちらに意識が向いているのが気配でわかった。
みぞおちの当たりが冷たくなり、冷や汗が噴き出してきた。
気付かれた? でも、なぜ?
バダダムが大きな目でクルルになにか目配せをしている。
不意打ちで対処するつもりだったクルルは、突然のことに歯を食いしばっている。
正面からでは勝てないとわかっていたのだ。
「へっ、田舎の野良魔法使いか」
やはりばれている!
クルルが魔石を手にし、バダダムが陽動に立ち上がる。
魔法戦が始まる――その瞬間だった。
『私がいること忘れてない?』
悪魔の声が、凛と響き渡った。
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