第145話

 その都市はクウォンといい、四つの属州がひしめく半島の中心部分に位置していた。


 山岳地帯にあって、湯治場として知られる一方、木材の供給地として栄えているらしい。

 そこから流れる川に木材を流し、南側の海から世界に輸出する。


 ジレーヌ領は絶賛町を拡張中で、木材はいくらあっても困らない。

 クウォンと直接取引できれば、木材の輸入を拡大できるだろう……というのは、ジレーヌ領の責任者がクウォンに赴く理由としては悪くない。


 ただ、クウォン行きは細心の注意を払って秘密にした。


 そうしないと、ジレーヌ領と少しでも近づきたい者たちが、こぞって道案内やらを申し出るだろうからだ。


「ヨリノブ」


 出発の日の早朝、まだ太陽も登っていない時刻に、クルルが研究所にやってきた。


「準備はできてるか?」

「もちろんだとも」


 答えたのはファルオーネだ。


 ジレーヌ領にたどり着くまでの旅路で着ていたという、年季の入ったフード付きの外套を頭からすっぽりかぶり、肩にずた袋を下げ、右手には身長ほどもある棒を持っている。

 クウォンは山奥なので、陸路用の格好らしい。


「あんたの心配はしてないよ」

「いえ、自分も大丈夫です……」


 眠気で目が開かないのだが、なんとかそう答える。


 またしばらくジレーヌ領を留守にするので、自分の決裁が必要そうなことを急いで片付ける必要があった。それにロランからの専門家たちを交え、構築を急いだイーリアの宮廷がいよいよ動き出していたので、その対応もあった。


 マークスを筆頭にした治安維持、ヨシュを筆頭にした町の経済的な諸問題相談窓口、それからコールを頭に据えた司法と徴税機構が動き出していたので、てんてこまいだった。


 イーリアの宮廷人事の発表で周囲に驚かれた大抜擢は、詐欺師のマークスではなく、コールだった。誰よりも本人が驚いていたが、生真面目で知識があって、育ちの良いコールならば法律問題を安心して任せられる。

 特に、獣人たちに対して公平であると期待できるのが大きかった。


 もちろん、ジレーヌと同盟を組んでいる諸勢力からの陳情やらは教会に移譲してある。コールが担うのは領内の揉め事一般のほうで、これもジレーヌ領内に変なしがらみがなく、公平な裁判を期待できる点だった。


 コールは望外の重職にあっけにとられていたが、イーリアから直々にお願いされたら、いちころだった。


 それでも、システムというのは最初から完璧にうまくいくはずもなく、動かしてみて、出てきた問題を片っ端から潰さなければならない時期がしばらく続く。

 早速あちこちで噴出する大騒ぎの調整で忙殺され、気がついたらクウォンへの出発日という感じだった。


 もっとも、正確には出発日というか、ゲラリオとファルオーネの我慢の限界点というところだったのだが。


 聖女の奇跡が本物の回復魔法なら、ゲラリオはツァツァルの怪我を治す重要な手掛かりを得られる。そしてもしも聖女が人間でないのなら、ファルオーネは世界の秘密に近づく手がかりを得ることができるのだから、ふたりの鼻息が荒くなるには十分すぎる。


 もちろん自分も、教会という組織、そして教会と世界の統治を分け合っている帝国が、魔法の神髄やこの世界の秘密について、どこまでたどり着いているのかを確かめたい。


 けれどそれは、明らかになって欲しいような、欲しくないようなことでもあった。


 開ければとてつもないものが飛び出してくる扉であることは、間違いないのだから。


 クウォン行きは、ヴォーデン属州の鉱山よりも目的が明確な分、期待と不安が大きい。

 確かに眠くて目は開かないが、それなりに色々思うところがあるので、旅支度には気合が入る。最後に腰帯をきつく締めて研究所から出たのだが、そんな自分を上から下まで見たクルルは、小さく肩をすくめていた。


「どんな奴も、旅装だとそれなりに見栄えがするもんだがな。お前は相変わらず弱っちそうだ」


 呆れたように言ってくるクルルだが、そのクルルはゲラリオに鍛え直されて、また少し迫力が増している。


「護衛に頼りがいがありますから、ちょうでいいでしょう?」

「……」


 クルルは鼻から大きく息を吸って、まあまあだな、みたいな顔をしていた。


 それから港に向かうと、前回と同様に今回もついてきてくれるカカムとバダダムのほかに、イーリアたち見送り組が来ていた。


 ゲラリオやツァツァルたちは別の船で、事前に対岸の陸地に向かっている。

 自分たちも、表向きはロランへの表敬訪問ということになっていた。


「気をつけてね、クルル」

「ええ、今度はたくさんお土産を買ってまいります」

「美味しいものがいいわね。お酒が有名だと聞いたし」


 領主と従者はそんな呑気な台詞をやり取りしているが、旅の不安については二人だけでたっぷり話し合った後のようだ。


『留守の間にすべての数学を習得し、魔法の謎を解いてしまっても怒るなと、ルアーノさんからの伝言です』


 早朝の漁に出ていたゼゼルもいて、ファルオーネにそんなことを言っていた。


「教本の写しは持っているが、ヨリノブ殿は説明できないのだったか?」

「せいぜい、公式の説明くらいですねえ……」


 家庭教師役として健吾がどれだけ優秀かは、自分がこの世界の言語をすぐに覚えられたことからも明らかだ。


 ファルオーネはクウォンに向かって聖女に会える一方、健吾の教えは受けられなくなるので、数学の学びにおいてルアーノたちに後れを取ることになる。ゼゼルとアランは外の世界になど行きたくないと言うので、ふたりはおとなしく留守番だ。


「ヨリノブ」


 と、クルルが荷物を船に積み込むタイミングを狙って、イーリアがすすっと近寄ってきた。


「クウォンには温泉があるのよ。わかってるわね」


 イーリアは尻尾をぱたぱたさせながら、目をキラキラ輝かせている。


「わかりません。イーリアさんも、お仕事を怠けませんように」

「もう!」


 そんなことを言って、こちらの肩を叩いてくる。

 そしてひとしきり頬を膨らませた後、ふっと息を吐いて、甲板上で荷物を受け渡しているクルルを見た。


「クルルもすっかり冒険者ね」


 クルルが船に乗る姿を見るのは、これが二度目になる。

 その輪郭はもちろん女の子のままだが、ただ華奢なだけではない安定感みたいなものが備わってきている。


「一生なにも変わらないと思ってたのに、色んな事がどんどん変わっていくわ」


 その台詞はクルルについてだけでなく、港の様子を見回して。


 ようやく太陽が昇るかどうかの時間だが、港はすでに働く人たちで賑やかになりつつある。

 島の住人たちのみならず、遠方からの商人たちもいる。


 輸出入も活発なせいで、沖合では停泊している船が今か今かと入港を待っている。


 そうやって港を見回すイーリア自身、留守を任せてもなんの不安も抱かないくらいには、領主の役が板についている。


「きっとそのうち、面倒くさくなって見送りにこなくなるくらい、当たり前のことになるのかもね」


 イーリアはこちらを見て、そんなことを言った。

 その時にはきっとイーリアもクルルももう少し背が伸びて、大人の娘になっているだろう。


「それくらい島が発展していたら、誰かが仕事を全部引き受けてくれてるはずです。逆に船になんか乗らなくなってるかもしれませんよ」

「あら、それはいいわね。でも、人が増えるんだから、理屈としてはそういうことよね」


 イーリアは耳をぱたぱたさせながら、無邪気に喜んでいた。


 ちなみに前の世界、第二次大戦の直後、偉大なる経済学者のケインズは言った。

 経済が発展し続ければ、数十年後には人類は仕事を探す必要がなくなって、余暇の使い方に頭を悩ませることだろうと。


 そして歴史がどうなったかは、自分と健吾はよく知っている。


 けれど明るい未来を予測することは、少なくとも楽しいものだ。


「早くのんびり暮らせるようにしてね、大宰相様」

「仰せのままに」


 イーリアは微苦笑を見せてから、軽くハグをしてきた。


「からかう相手がいないと寂しいから、早く戻ってきてよ」

「きっとまた不精髭が生えてますから、お楽しみに」


 イーリアは顔をくしゃっとさせて笑い、一歩下がった。


 それから横に視線を向けると、冷たい目つきのクルルがいた。


「ヨリノブ、行くぞ」


 こちらの手をやや強引に引くクルルに、イーリアが言う。


「大丈夫だって、取らないわよ」

「……」


 クルルは珍しくイーリアの言葉を無視していた。


「行って参ります!」


 クルルが振り向いて乱暴に言うと、イーリアはにこにこと手を振っていた。


「あと、お前はこまめに髭を剃れよ」


 甲板に上がると、クルルはこちらを見て言った。


「仰せのままに」


 クルルはじっとこちらを見やり、ため息をつく。


 そして船はジレーヌの港を離れ、朝の海に向かって進み始めた。


 その先に世界の秘密が待っているかどうかは、神のみぞ知るのだった。

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