第143話
「温泉か。俺は好きじゃないけどなあ」
岩に腰掛け、短剣の柄に滑り止めの布を巻きなおしながら、ゲラリオが言った。
ファルオーネからとある都市への訪問を提案されて二日後、自分とゲラリオ、それにクルルは、島の中でも特に人のいない、木々がまばらに生える荒れ地にいた。
「師匠こそ行くべきだ。一度じっくり湯浴みをして、こびりついたものを落として身ぎれいにしたほうがいい」
「ば、馬鹿野郎。ぴかぴかの冒険者なんて格好がつかないだろうが。これは俺の矜持なんだよ」
お世辞にも身ぎれいとは言えないゲラリオが、慌てたように言い訳している。
ロランにいた時、クルルから下品だと言われてショックを受けていたし、二人のやりとりを見ていると思春期の娘と父親みたいだ。
「それより、さっさと実験とやらを終わらせちまおうぜ」
ゲラリオも連れてこんなひとけのない場所にいるのは、魔法の実験のためだった。
もちろん、大規模魔法陣の試しうちではない。
「やばくなったら全部丸焼きにすればいいとは思うが、お前ら本当に妙なことを思いつくな。植物に肉体強化の魔法を撃とうなんて、確かに面白いけど、正気か?」
「思いついたのは私じゃない。ヨリノブだ」
クルルは魔石を構えながら、こちらに向かって顎をしゃくってみせる。
「普通の魔石なら、費用対効果が悪すぎて誰も試してないはずです。貴重な知見を得られると思いますよ」
魔法で植物を元気にするくらいなら、その魔石を売って元気な植物を山ほど買える。
ゲラリオは呆れたように下唇をつき出していた。
クルルが手にしている合成魔石には、ゲラリオが普段は鎧につけている、肉体強化の魔法陣が刻まれている。その肉体強化というのは、筋肉増強剤みたいな感じではなく、エナジードリンク系のニュアンスらしい。試しに使ってみたクルルは、目が覚める感覚と言っていた。
そしてその状態で腕相撲をしたら余裕で負けたのだが、これは元から自分が非力なせいではなかろうかという感じもした。
とにかく、この肉体に関する魔法から察するに、魔石や魔法にはなにか生命力みたいなものに関与できるのではないか、という推察ができた。
ハウス栽培ならぬ魔石栽培ができれば、ジレーヌ領の食糧事情は大きく改善されるだろう。
だが懸念点として、魔石鉱山で魔物が出ることから、植物が魔物になる可能性もあった。
もっとも、それならそれで、敵対勢力の土地においては強力なテロ行為の手段となりうる。
単独で魔法使いを潜入させ、収穫間近の畑の穀物を片っ端から魔物に変えればいいのだ。
やられたほうは、悪夢としか言いようがないだろう。
「じゃあ、いくぞ」
クルルが魔石を構える。
そこに、こっそり耳打ちした。
「クルルさん」
「ん?」
「木が踊りだしても、笑っちゃだめですよ」
クルルはぶふっと吹き出し、それから怒ったようにこちらを睨みつける。
必死に笑うまいとしているのが可愛かった。
きょとんとするゲラリオをよそに、クルルは咳ばらいをして、木立に向き直る。
「目覚めよ!」
魔法の起動に言葉は必要ないらしいが、気合のようなものはあればあっただけいいらしい。
クルルの手の中の魔石が微かに発光し、遅れて紫色の煙がまじり、魔石がしぼんでいく。
しかし。
「……なにも起きませんね」
木立は静かなまま。
ただ、なにも起きなかったわけではない。
クルルが急に魔石を取り落とし、膝をついたのだ。
「え、クルルさん⁉」
クルルはうつむき、胸を抑え、背中を丸めている。
慌てて体を支えると、顔中に脂汗を浮かべ、顔も真っ赤だった。
一体なにが、と思っていたら、自分たちの身体に影がかかる。
振り向けば外套を翻したゲラリオで、呆れた目でこちらを見下ろしていた。
「そうなるんじゃないかと思ったが」
ゲラリオは懐から魔石を取り出し、右手に握ると空に向けて掲げる。
そして膝をつけば、クルルの背中に左手を突っ込んでいた。
「ほら、ゆっくり深呼吸してみろ」
ゲラリオはそう言って、頭上に向けて炎を撃つ。
ゲラリオの手の中で魔石が煙になっていくのに合わせ、急激にクルルの顔色が良くなっていく。
それはまるで、タイヤから過剰な空気が抜けていくかのよう。
クルルの背中、肩付近には魔法を使うための入れ墨があって、その背中に突っ込まれているゲラリオの左手にも、入れ墨がある。
魔法の起動に際しては、そこを魔力みたいなものが通過するとのことだった。
「師匠を連れてきて正解だったな、猫姫様よ!」
クルルの服の中から左手を引き抜いたゲラリオは、その掌で背中を叩いて、からかうように笑っていた。温泉の件で、遠回しに不潔だと言われた仕返しかもしれない。
そのクルルだが、しばらく激しく咳き込んでいたものの、喉につかえたなにかが取れたように大きく息を吸っては、吐いていた。
力の抜けた尻尾の感じから、もう大丈夫そうだ。
「昔、娼館で何回ヤレるか回数を競ったことがあってな。こっそりこの魔石を使ったんだが、加減がわからずにこんな感じになった」
相変わらず下品な例えだが、いわんとすることはわかった。
エナジードリンクを灯油ポンプで胃の中に注ぎこんだみたいな状態になっていたのだろう。
クルルはなおも何度か咳き込みつつ、ようやく呼吸が落ち着き、へたりこんでいた。
「なんで帝国が、決まった魔法陣を決まった大きさの魔石に刻むのか、よくわかるだろ」
量が変わると質が変わる。
ましてや新規の魔法陣となると、輪をかけてなにが起こるかわからない。
軍の運用では、規格化と確実性が求められるのだ。
「多分だけど、お前らのやりたいことは、こういうことじゃないか?」
ゲラリオはクルルの取り落とした合成魔石を拾い、くっついた小石やらを払ってから、木立に歩み寄る。
そして魔石を押し付けると、魔法を起動させた。
「わっ」
思わず声を上げてしまった。
土地がやせているせいなのか、どこか元気のなかった木立ちが、空気を入れられたみたいになった。さすがに細胞分裂を促すわけではないらしく、新しい葉や根が伸びることはなかったが、明らかに木が元気になっていた。
「男のアレと同じだな!」
ゲラリオはそう言って笑い、木の幹を叩いていた。
へたり込んでいたクルルはそんなゲラリオを見やり、大きなため息をついてから、こちらを見た。
「思ってたのとちょっと違いましたね」
クルルは耳をしょげさせてから、肩を落としたのだった。
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