第142話
「そういえば、ファルオーネさんのやってた実験ってなんだったんですか?」
一応ゲラリオにもあわせて念を押しているが、大規模魔法陣の試し打ちは絶対に街の中でやらないように、ということになっている。
「面倒なことだよ」
クルルの顔が苦々しいのは、先ほど笑わされたことが悔しいのかもしれない。
クルルは少し汗ばんだ前髪をかきあげて、疲れたように言った。
「魔法陣はどこまでいい加減に描いたら起動しなくなるのかって、次から次に魔石を渡された」
「……ゲラリオさんの話だと、結構いけるみたいなことでしたけど」
なにせ魔石は戦いの場で用いられる。魔石の魔法陣にちょっと傷がついただけで魔法が起動しないようでは、とても実用に耐えないだろう。
ただ、その程度となると、いかほどか。
ゲラリオも詳しくは知らず、文献にもなかったという。
魔石が超高価なので、こんな無駄遣いをしてまで誰も系統立てて試さなかったのだろう。
地味に見えるが、かなり貴重な知見だと思う。
「私も驚いたが、かなりいい加減でもいけた。魔石工房の職人たちが知ったら、明日からまじめに働かなくなるかもな」
「そんなにですか?」
「だいぶ大げさに言った」
クルルはそう言って、いたずらっぽく笑っていた。さっきの大笑いの残り火だろう。
「けど、代償はもちろんあった。湿気た木みたいなもんだ。火はつくけど、消えやすいし、安定しない。それでも全力で火に突っ込めばきちんと燃えるって感じだな。私みたいな低い魔法の能力だと苦しいが、師匠やコールなら、おそらく結構いける」
「なる、ほど。ああ、だからルアーノさんたちの、あれなんですね」
彼らは中庭で、任意の魔法陣を刻むための装置を試作している。
そんなに精度を出せるとも思えなかったが、雑な魔法陣でも魔法が起動できるとわかったうえでのことだったようだ。
「ただ、そうなると、奇妙な気がしないか?」
クルルの妙に静かな声に、視線を中庭から戻す。
「魔法陣って、本当にこの形である必要があるのかなって」
その言葉の方向を掴みかねていると、クルルは耳を左右に動かしていた。
「ほら、いい加減な形でもいいのなら、丸と四角の差ってなんなんだって、そういうこと思わないか?」
「それは、確かに……」
自分が真っ先に思い出したのは、脳トレ系ゲームだ。
漢字を書かせる問題があるが、いくつかの要素に注目して判定しているため、その限界を攻めるとおよそ漢字とは呼べないものでも合格と出てしまう。
魔法も、そういうたぐいのものである可能性がある?
もちろんその要素を突き止めるには途方もない試行錯誤が必要になるだろうが、魔法陣の解析においては重要な視点になると思った。
それに、『そういう方向での暗号化』もあり得るか、と思ったのだ。
たとえば現状では大規模魔法陣はどれも機能しないが、機能しないだけでほとんど正しい、という可能性がありうる。あの大規模魔法陣はほとんどが無意味な装飾で、起動に影響する部分は巧妙に隠されている、など。
むしろ大規模魔法陣の危険性を考えれば、安全装置が施されているのは自然なことだとも思う。
だとすると、以前ファルオーネが頭を掻きむしっていた、あの謎の基礎魔法陣がもっとも怪しい候補となる。ものすごく単純な図形で、それそのものではなんの魔法も起動しない、無意味としか思えないからだ。
しかもそれは、大規模魔法陣にだけ含まれている。
なんだかかなり正解の方向を向いているのではないか、と興奮しかけたところ、なにか顔の前に気配を感じた。
「っ」
はっと我に返ると、クルルの顔がやけに近くにあった。
緑色の瞳の、まつ毛の本数まで数えられそうな距離だ。
「なんだ、きちんと起きてるじゃないか」
クルルは体を引いて、つまらなそうに言ってから、意地悪そうに笑う。
しばらくほうけていたが、ようやく気が付く。
慌てて自分の口に手を当てたら、クルルがますます楽しそうに笑っていた。
「アホ」
嬉しそうに、こんなに親しみを込めた悪口は聞いたことがない。
というか、クルルのことを散々見た目に寄らず乙女だとか思っていたが、誰が一番乙女なのか、今この瞬間に明らかになってしまった気がする。
少女漫画なら、今のシーンは明らかに男女が逆だ。
「お前は最近すぐぼうっとしてるな。働きすぎじゃないか? イーリア様もずっと大変そうだったし、そろそろ少しのんびりしたいな」
確かにここ最近は、ずっとレベル99のテトリスをやり続けているみたいだ。
クルルに同意しつつ、先ほど頭に浮かんだことは、ファルオーネたちに伝えるために近くにあった紙に軽くメモしておく。
ただし、危険すぎる話ゆえに、日本語で。
クルルが宿題を邪魔する猫みたいにこちらの手元をじっと見ていたので、誤魔化すためにも話題を振ってみた。
「この世界で休暇というと、どんなことをして過ごすんですか?」
前の世界ほど、娯楽にあふれているわけではない。
「お前のところではどうだったんだ?」
クルルが逆に質問を返してきたのは、書かれた日本語を見たせいかもしれない。
ただ、長い尻尾が先端だけゆらゆらと揺れているので、機嫌は良いらしい。
「前の世界だと……」
自分の実際の休日の様子を思い出すと悲しくて死んでしまうので、ちょっと理想を述べてみた。
「旅行……でしょうか」
出てきたのは、自分の人生を反映した、つまらないありきたりのものだった。
それにこの世界の常識を忘れていた。
「休暇なのに、旅をするのか?」
馬鹿じゃないか? みたいな物言いだったが、この世界の旅は危険で過酷で、歩く苦労のない船旅でさえ、しばらくはごめん被りたいもの。
休暇でやるような娯楽ではないのだ。
「前の世界は移動が楽だったんですよ。それに、オンセンは好きでしたし」
「オンセン?」
クルルが顔をしかめる。
無意識に日本語を使っていたらしい。
「暖かい湯が地面から湧き出るところがあるんです」
「ああ、温泉か。噂では聞いたことがあるが、本当にあるのかそんなところ」
幼い頃、あちこちの土地をたらいまわしにされてきた彼女たちだが、自由に出歩ける感じではなかったようで、クルルたちの見聞は広いようで狭い。
「こっちの語彙に温泉があるのなら、あると思いますよ。山があるなら火山だってあるでしょうし」
そして火山があるならマントルがあり、マントルがあるなら放射性物質がある。
放射性物質があるのなら……とまで思ったところで、クルルがやけに真剣な目をしていた。
「ふん。温泉か……ふん……」
頬杖を突いたままのクルルは、一体なにを想像しているのかわからないが、目が悪戯をしている時の猫みたいだった。
一度長いまばたきをした猫娘は、ゆらりと体を起こす。
「イーリア様に聞いてみよう」
珍しく前向きだが、なにかちょっと嫌な予感がしないでもない。
この荒っぽい世界で、温泉が男女別、みたいなお上品なことになっているとは思えない。
それに寒い時期は、男女分け隔てなく裸になって同衾して暖を取るのが常識らしい。
郷に入りては郷に従えとは言うが、いや、しかし……と思っていたら、広間と続きの部屋から、ファルオーネが戻ってきた。
むすっとした顔なのは、不機嫌なのではなく、単に頭の中が思考でいっぱいなだけ。
ルアーノたちの作業に混ざらなかったのは、聞き集めてきた鉱山の様子や、新規の魔法陣、それに各地の昔話などがそれだけ興味深かったからだろう。
どこか上の空で歩くファルオーネは、すたすたと広間の真ん中まできて、中庭の作業をじっと見つめてから、急にこちらを振り向いた。
「時に諸君、また出かける話をしていたか?」
「温泉の話だよ。あんたなら、どこにあるかとか知ってるか?」
「知っているとも」
クルルが耳をぴんと立てると、ファルオーネはその耳を見てから、こちらを見た。
その瞬間、なぜかファルオーネは、悪い商人みたいな笑顔になった。
「ちょうどいい場所があるんだがね?」
揉み手までしそうなファルオーネに、クルルがこちらを振り向いた。
こいつはなにを企んでいるんだ? と言いたげだったが、実際になにか企んでいるのだろう。
「それって、どこなんですか?」
こちらの問いに、ファルオーネはある辺境の都市の名を口にしたのだった。
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