第100話
敵影発見の一報がもたらされたのは、ルアーノたち四人に魔法陣の解析を託してから、十日目の昼頃のこと。
マグロのような魚を追いかけ、沖合に出ていた漁師たちが船団を発見したらしい。
血相を変えた彼らは全速力で櫂を漕いで港に戻り、息も絶え絶えに連絡を寄こした。
北東の方角から迫る、津波のような無数の帆。
その話が届いた時、自分たちはイーリアの屋敷でちょうど昼ご飯の最中だった。
イーリアはパンを飲み下すと手を払い、すっと立ち上がる。
そのパンは、あの百日紅の館の男が約束を守り、乗っていた船に言いつけて超特急でジレーヌ領に届けてくれた麦で焼いたもの。
戦いに備え、物資の準備も万全だ。
「さあ、皆、覚悟はいいかしら? 間抜けたちにうちの強さを思い知らせるわよ!」
勝てないかも、なんて不安は微塵も感じさせない領主然。
上に立つ者の仕事をきっちりこなしている。
それからイーリアは、長テーブルの隅でじっと手元を見ているコールに声をかける。
「戦ではなにが起こるかわからないから、仮にあなたの故郷の船が沈んでしまっても、恨みっこなしってことでいいわよね?」
コールはバックス商会支配人の息子でありながら、ロランでは明らかに浮いていた。獣人の血を引く娘に恋をしたせいかどうか、獣人を商品としか見ていないあの社会を憎んでさえいた。
今更ロランのバックス商会に戻るという選択肢はなかろうが、そのことと故郷の者たちを傷つけても平気かというのは、また話が違うだろう。
バックス商会がロランの中心的な存在なら、間違いなく戦の船にはコールの肉親か、よく知る者たちが乗っているはず。
その場にいた全員の視線が集まる中、コールは顔を上げた。
「僕には兄弟のように育った獣人がいます。そして本当の兄弟は、そちらのほうです」
居丈高な貴族の見本みたいに振る舞っていたコールだが、本当の一人称は「僕」らしかった。
すっかりおとなしくなったコールは、毒気が抜け、肩ひじも張らなくなったせいか、最初の印象よりずいぶん少年めいて見えた。
「結構。それじゃあ、クルル」
イーリアがクルルの名を呼ぶと、クルルは珍しく不服そうに目をそらしている。
「あなたは私の側じゃなくて、ゲラリオさんと一緒に行動して。わかったわね」
作戦を練った結果、ここ数日ずっと二人の間で交わされているやり取りだった。
イーリアの一番の従者を自認するクルルとしては、敵が攻めてきている時にイーリアの側から離れたくないのだ。
ロランで離ればなれになってしまった記憶もまだ新しいから、仕方ないと言えばそう。
けれどクルルのほうも、もちろん作戦の理屈はわかっている。
だからイーリアの命令にささやかな抵抗を示すのには、それ相応の理由がある。
「……わかり、ました。ですが」
イーリアに忠実なクルルは、ついに主人の言うことを受け入れてから、コールを睨みつける。
「私の代わりに、お前がイーリア様の側にいることを認めるが、イーリア様になにかあったらお前のせいだと思うからな。たとえ雨が降ったせいでイーリア様が風邪を引いても、昼寝で寝違えて首が痛くなったとしても、お前のせいだと思うからな。そこのところを覚悟しておけよ」
クルルがコールを睨む目つきは、ノドンに雇われていた時の自分を見る目そのものだった。
ただ、コールを詰めるクルルを見て、イーリアは困ったように笑っているし、健吾やゲラリオも同様だ。
本当に嫌っているというより、無理に嫌おうとしている感がありありなのだから。
クルルはコールとイーリアの間に、距離を開けようと必死なのだ。
なぜなら、コールがイーリアに恋をしているから。
しかも最近のコールは、なんとも憂いがちで影があって、青年と呼ぶにはあと少しだけ届かない線の細さが、いかにも良家の少年らしかった。
要は、なんだか変にモテそうな雰囲気なのだ。
戦を前にして、イーリアがロランとの外交的な面のことを相談していたのは、もちろんこのコールである。
毎日顔を合わせて話しているうち、イーリアがどんどんコールに対し気安くなっているのは、傍から見ていてもよく分かった。
もっとも、だからといってイーリアがコールとすぐに恋仲になるかというと、自分ははなはだ疑問だったし、ほかならぬコールが一番そう思っているだろう。
けれどイーリアのこととなると、クルルは神経過敏になりがちだ。
クルルのイーリアに対する愛は、地球よりも重いのだから。
そんなクルルから噛みつかんばかりに詰め寄られたコールは、静かにクルルを見つめ返してから、言った。
「わかっている。僕は過去の責任を取らなければならない」
ノドンといる時のコールは、歪んだ笑みの似合う嫌な奴だった。
けれど今、クルルを見つめ返しているのは真摯な少年だ。
それにこのクルルだって、コールとはロランと一緒に魔法使いと戦って、互いに命を預け合っている。
根っこのところはイーリアよりよほど単純なクルルなので、コールのことはとっくに仲間と見なしてかけている。
結局、クルルはそれ以上牙を突き立てることをやめ、そっぽを向いていた。
「それじゃあ。配置につきましょうか」
クルルの葛藤をたっぷり堪能したイーリアがそう言うと、全員が動き出したのだった。
◇◇◇◆◆◆
腕木通信の構築は、完全ではないがかなりの部分が完了していた。
獣人の働きがすさまじかったからだ。
彼らはろくな工具がなくとも森から頑丈な蔓を引きちぎってきて縄にして、人間なら滑車を使うか、かなりの人数でなければ持ち上げることもかなわないような丸太を、どんどん組み上げてしまった。
むしろ信号を示す装置の加工のほうが大変なくらいだったが、こちらは町の木工職人たちが頑張ってくれた。本格的な分業を導入したタカハシ工房の影響で、町のほかの職人たちの働き方にも影響を与えているらしく、工房の垣根を越えて協力していたらしい。
ファルオーネたちも教師役として活躍してくれて、通信を担ってくれる獣人たちに、昼夜問わず符合化の概念を教えたり、符合化した単語の対応表リストを大量に筆写したりしていた。
そのおかげで一昨日には魔石鉱山の中腹と、島の西側の間で初めての通信が行われ、昨日には町までそれが到着した。
塔の上で腕木を操作する者たちは、まだ手元のメモを見ながらだし、操作もぎこちなかったが、夜通しの練習でかなり形になっていた。
なにより現時点でさえ、情報伝達は馬や獣人が走るよりも圧倒的に早い。
これならばロラン側が島のどこに上陸しようとしても、すぐに情報を共有することができる。
さらに戦を目前にして、町の人々の避難も粛々と行われていた。
海上からの不意打ち攻撃がないとは限らないから、敵がきた時の行動指針を事前に布告し、町の街区ごとに避難手順を定めておいたのだ。
町の人々がおとなしく従ってくれたのは、竜を討伐したという実績があるからだろう。
こうして人のいなくなったジレーヌの港で、後顧の憂いなくロランを待ち受けることとなった。
「今のところ、船団を展開して包囲するつもりはなさそうかしら」
港にいるのは、イーリアと自分、カッツェたち港湾の男が数人と、ドドルとその仲間がいくばくか。それから、コールとその仲間の獣人たち。
「あそこからだと、さすがに魔法は届かないのよね?」
目の上に手で庇を作り、イーリアは沖合に向けて目を凝らしている。
水平線あたりにロランの船団がいて、自分たちの目では停泊しているのか前進しているのかわからないが、ドドルの話では動いていないらしい。
向こうもこちらからの攻撃を警戒しているのか、それとも威圧のつもりか。
「届くとしたら、超二級の魔石を使用した場合でしょう」
自分の実家が招いた災難という意識がまだあるのか、あるいはクルルがどこかで見張っていると思うのか、少し距離を空けたところに立つコールが言った。
「ただ、かつての帝国との戦いによって、ロランが秘蔵していた超二級魔石は失われたと聞きました。それに、連中は愚かです。仮に超二級の魔石があっても、費用が掛かるからといって使わないと思います。彼らは簡単にここを占領できると思っているはずですし」
イーリア奪還の時も、魔法使いと戦っていたら経費削減なんて単語が出てきた。
あそこに警護の魔法使いが一人しかいなかったのも、帝国の軍門に下ってからはさっさと頭を切り替えて、商いに軸足を移していたせいだろう。
「じゃあ、定石どおり、まずは交渉の使節がくる感じかしら」
「うちの者が……いえ、ロランの連中がまともな思考をいくらかでも残しているのなら、そうするでしょう。ジレーヌをどうするつもりにせよ、世間に示す建前が必要です。連中の船がやたら多いのも、ロランがこの侵略を正当化するため、周囲の貴族たちを引き連れてきたからのはずです」
「それでうちを叩きのめすところを見せつけて、揺らいだ権威を立て直そうって腹ね?」
コールはうなずき、イーリアは腰に両手を当て、特大のため息をついていた。
イーリアを呼び寄せたところに毒を盛って幽閉し、それを無様にも奪還されて宮殿を半壊にされたロランとしては、あらゆる手段を使って権威を取り戻す必要がある。
特に、経緯を知るジレーヌの関係者の口は、絶対にふさぐ必要がある。
しかし権力者としては格上の自覚があるから、やり返すにしてもその体面を保たねばならず、一定の建前と儀式が必要となる。
そんなところだろう。
「どいつもこいつもノドンそっくり」
イーリアがげんなりして吐き捨てるように言うと、コールがうつむいてしまう。
恋したイーリアと接点を持てるからと、コールはノドンとの魔石取引を通じてたびたびこの島にきていた。しかも照れと見栄と、好きな子の気を引くのに意地悪するくらいしか思いつけない少年らしさから、ノドンたちがイーリアを馬鹿にするその言説に乗っかっていた。
イーリアはもう気にしていないみたいなのだが、コールの後悔は深そうだ。
「情けないけど、ずっとお飾り領主だったから戦の外交儀礼なんててんでわからないのよね。ゲラリオさんの話だと、こういう時は攻め手から船が送られるってことだけど」
この世界では、お互い魔法を撃てばそれなりの距離からダメージを与えられてしまう。
そのため、魔法を使えない獣人がまず互いの中間地点にて邂逅し、交渉を持つらしい。
獣人がそこに行かされるのは、お互いの魔法による不意打ちを回避するという点もあろうが、死んでもいい捨て駒という、世知辛い意味もあるのだろう。
『それで間違いないようだな。小舟が下ろされている』
そう言ったのは、目を細めて海上を見つめているドドル。
『ドドル、ワレらのほうも準備はできている』
港に浮かぶ小舟に乗るのは、ドドルの仲間の獣人で、バダダムというらしい。
「船に敵の魔法使いが潜んでて、人質に取られたりしないかしら」
イーリアは心配そうにしているが、先ほどのダメージから立ち直ったコールが答える。
「連中には、獣人が人質になるという発想などないでしょう」
「……」
戦の緊張を隠すためか、どこか呑気な様子だったイーリアの仮面が、さすがに外れる。
怒りとも悲しみともとれる顔つきで、海の向こうを見る。
「ここは私の領地よ。あんな奴らの好きにはさせないわ」
その言葉に、獣人たちの耳がそれぞれ少しずつ立てられた。
それはドドルも例外ではない。
「私はここを、呑気にお昼寝できる領地にしたいの」
そして続けられたイーリアの言葉に、空気が緩んだ。
『ふん。ワレらはそんなオマエらに賭けてしまったわけだ』
「素敵でしょ? 私の尻尾の毛並みを信じてちょうだい」
ドドルは肩をすくめ、バダダムに目配せすると、小舟が出発する。
そしてすぐに、ドドルは教会の尖塔の方角を振り向き、大きく手を振って合図を出す。
尖塔の上からこの様子を見ている者がその合図を腕木で翻訳し、それを見た別の者がまた腕木を操り……と、島に広がっていく。
島のどこかでゲラリオと共に配置につくクルルも、今頃報告を受け取っている頃だろう。
二人の魔法使いの様子を想像すると緊張してしまうのは、あの無人の岩礁での実験があったから。
クルルたちの策が成功するはずとわかっていても、あの時のことを思い出すだけで、冷たい水に飛びこむ前のような緊張が沸きあがる。
『船が接敵する』
桟橋の先端で目を凝らしていたドドルの言葉に、イーリアが言う。
「まだ一応は敵じゃないでしょ」
本人も欠片も信じていないその台詞は塵よりも軽く、海風で容易に飛んでいく。
その先にある、ロランの大船団。
目の前にある戦という現実に、自分は大きく息を吸い直し、腹をくくり直したのだった。
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