第75話
「なんだあれは」
押し殺したクルルの声が響いたのは、イーリアにあてがわれた部屋でのこと。
鉄と潮亭はかなりの格式の宿らしく、二階の最も豪華な部屋がイーリアのための部屋で、四人で寝起きしてもなお余るだろう。
もちろん自分とゲラリオは下男扱い……とまではいかないが、えっちらおっちら荷物を運んで登らねばならない四階部分の、いささか狭い部屋だ。
それでも十分綺麗な部屋だし、そもそもゲラリオなどは、馬車から降りて宿の外観を見るなりちょっと言葉に詰まっていた。
宿の主人が馬車に乗って迎えに来たくらいなので、てっきり適当な宿をあてがわれたと油断していたらしい。
バックス商会は、きちんと自分たちに金を使っている。
あるいは、こんな宿に泊める程度の金、はしたものだということかもしれないが。
「なんだあれはって、やっぱり知らなかったんじゃねえか」
羅紗張りかなにかの豪勢な椅子にどっかと座ったゲラリオは、豪勢な調度品そのものが気に食わないような顔をしている。
実際、砂埃の似合う歴戦の冒険者は、この部屋で浮いていた。
「獣人の奴隷貿易だよ。帝国中心部じゃだいぶ廃れたが、辺境では現役だからな」
「それくらい知っている。そうじゃなくて……」
そうは言うものの、自身の激情を言葉に変える術を持たないクルルが、大きく息を吸い、獣の耳をいきりたたせている。
その横ではイーリアが、背もたれのないやけに低い椅子に腰かけ、うんざりしたような顔をしていた。
「イーリアちゃん、それ、座る椅子じゃなくて、靴を履くときに足を乗せるやつだぜ」
「えっ」
テーブルマナーを知らない人が、手を洗うためのフィンガーボールの紅茶を飲んでしまうようなものだろう。
イーリアもクルルも、貴族とは名ばかりの生活をしてきた。
ジレーヌ領の屋敷だって、建物が広いだけで中身は実に庶民的だ。
「ジレーヌ領には自由身分の獣人が多いから、島の外がどうなってるか想像がつかなかったか」
ゲラリオにそのつもりはなかろうが、クルルは世間知らずを馬鹿にされたと思ったらしい。
尻尾を不服気にうねうねさせている。
「何人か買って解放するか? 焼け石に水だろうがね」
それにそんなことをしたところで、奴隷商人を潤すだけ。
「俺がどうしてツァツァルを人質に取られてるって言ったか、わかったか?」
ゲラリオがこちらを見て、疲れたように笑う。
確かに外がこんなにも無慈悲なら、ジレーヌ領は天国だろう。
「ジレーヌ領は絶妙なあんばいだ。魔法使いを何人も常駐させてまで奴隷獣人を働かせるには、規模が小さくて採算がとれないし、人間の逃げ場がなくて即座の支援も見込めない島だから、魔法使いなしに獣人奴隷を使うと反乱が怖い」
おかげで自由身分の獣人たちばかり。
そういえばゴーゴンも、安住の地を求めてたどり着いたようなことを言っていた。
「俺はお前たちののんきな領地が大好きだ。さっさと用事を終えて、俺たちの楽園に帰ろうぜ」
ことさら気楽に言ったのは、ゲラリオなりの気の使い方。
イーリアとクルルの二人がまともな感性を持っていればいるほど、この町の様子はきついだろう。
「そうだな……私たちにできることをやるしかない」
クルルが言えば、イーリアもうなずく。
「私たちのことを手伝ってくれそうな文官を雇うのよね」
「魔法陣の本も欲しい」
「それから、ノドンたちのせいで島から出ていった、女の子たちの捜索ね」
案外やることが多い。
「バックス商会からの求婚の申し出は全部断れよ。どんなに好条件でもだ」
ゲラリオの追加の一言に、イーリアがくすぐったそうに笑っていた。
「大丈夫よ」
「本当かあ~? そう言って、口がうまくて洗練された風の貴族野郎にころっと騙される、田舎の姫をよく見てきたからなあ」
「イーリア様をその辺の女と一緒にするな」
お目付け役のクルルもいる、と言いたいが、イーリアがめろめろになったら、クルルは苦い顔をしながらも恋路を助けてしまうだろう。
「あと、一度服の試着はしておけよ。装飾品も全部つけてな。それでできれば、あのオストロって主人に見てもらえ」
「?」
不思議そうな顔のイーリアとクルルに、ゲラリオがげんなりとした様子で言った。
「イーリアちゃん、椅子と間違えてなにに座ってたか忘れたのか?」
無作法で礼儀知らずの田舎者。
バックス商会の宴席で舐められたら、後々の商いに影響する。
イーリアもクルルもそのことに気がつき、ゲラリオに向けてうなずいていた。
その様子はやっぱり、女子校の部活の生徒とコーチに見える。
「他人事みたいな顔してるが、ヨリノブ、お前もだぞ」
ゲラリオに言われ、慌てて背筋を伸ばす。
これでも一応元社会人なのだが、とは思うが、高い身分の人々の礼儀作法が、前の世界と共通とは限らない。
「まったく……俺がいなかったらお前らどうなってたんだ?」
ぐうの音も出ないのだが、クルルは違ったらしい。
「それはヨリノブの時点でそうだ。今更の話だな」
ノドンを倒すなんて馬鹿げたことを実行に移さなければ、今もイーリアたちはジレーヌ領に閉じ込められたまま。
クルルは身の上に起きた幸運を、正面から肯定する強さを持っている。
ゲラリオはやや顎を上げ、ふんっと笑う。
「戦場で生き残るのも、結局は運だしな」
「その点で、私たちはまあまあ運がいいほうだ」
そう言い切って見せるクルルの力強さは、なるほどイーリアの心のよりどころとなるわけだ。
「いささか不安だが、ツァツァルとバランと初めて組んだ時も似たようなもんだったし、こんなもんか?」
その言葉には、イーリアとクルルが興味を引かれていた。
「あなたたちの話は、そういえば聞いたことないわね」
「そうだ。あれほどの仲間になれたのは、一体どんな理由からなんだ?」
好奇心たっぷりの少女たちに詰め寄られ、ゲラリオは余計な隙を見せたと後悔していた。
「おい、ヨリノブ」
助けてくれ。
自分は小さく笑って、言った。
「帰りの船の中でも時間はありますよ。それより服を着替えて調整しておきましょう。仕立てが必要になるかもしれませんし」
子犬と子猫はこちらを見て、にゃあにゃあわんわんひとしきり文句を言ってから、戦いの準備を始めたのだった。
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