第31話
お互い、すべてをめちゃくちゃにすることはできた。
イーリアはクルルに頼み、商会ごと魔法で吹き飛ばすことができたし、ノドンはドラステルの正体を声高に叫び回ることで、ジレーヌ領を政治的な大混乱に陥れることができた。
けれどほんの一瞬の爽快感のため、後先考えず行動に移すには、ノドンは賢過ぎた。
そのため、もはや逆転の目はないと悟ったノドンは、司祭の手によっておとなしく捕縛されていた。ノドンという指揮官を失った者たちは、騒擾の沙汰をおとなしく待つようにと言い渡され、解散となった。
けれどこれにて一件落着……とならないのが、現実というやつだった。
「税金のことなど知らん!」
人払いをしたノドンの商会で、イーリアをはじめとした自分たちや司祭が集り、ノドンの不正を詰問することになったのだが、ノドンは頑なに罪を認めようとはしなかったのだ。
ノドンはこの期に及んで、こちらの弱みをきっちり把握していた。
というのも、属州の州都であるロランの上級権力に訴え出て、イーリアの領主権でもって正式の裁判の末に縛り首にすることは、おそらくできる。できるが、ノドンという商人にそこまで好き放題やられていたことが公になれば、イーリアの統治能力のみならず、町の教会を治めていた司祭にも非難の矛先が向いてしまうと予想ができた。
そういったことを鑑みたうえで、ノドンの処理は内々で進められないかということになったわけだが、こちらが正式な裁判という強硬策に出られないと見抜いたノドンは、勝てないならば可能な限りうまく負けてやろうと、でかい腹をくくり直したわけだ。
狭い町とはいえ、その経済を完全に手中に収めていた人物は、一筋縄ではいかない。
商人よ、かくあれかしと、自分などは割と本気で、ノドンを凄いと思ってしまう。
「エダーがなんと言ってるか知らんがな、どうせ脅されてあることないこと言わされているんだろう! おお、哀れにして愚かなるエダーよ! 私が育ててやった恩も忘れやがって!」
すさまじい剣幕で怒鳴り散らし、自分の主張を完全に正しいものだと言い張って譲らない。
こういう人物に金とコネがあって、司法制度が未熟ならば、この世で正義を実現するのはおそろしく大変なことだろうと実感する。
自分たちと出会う前のイーリアとクルルが、仮にノドンの不正を掴んでいたとしても、到底太刀打ちはできなかっただろうと思った。
「ではそなたは、あくまで領主イーリアたちの告発を否定すると」
イーリアたちと共にこの審問に立ち会っている司祭の言葉に、ノドンは大袈裟にぎょろ目になって言い返す。
「もちろんだ! 司祭たるあんたがなぜ、そんな小娘のたわごとを信じるのか理解に苦しむ!」
ノドンの怒りようは、一緒に甘い汁を啜っていたはずの司祭の変わり身に怒っているようにも思えたが、ノドンは司祭も不正にかかわっていたというようなことは口にしなかった。
そこを口にしてしまえば、あとは司祭も身を守るために強硬策に出ざるを得なくなるからだ。
互いに建前を武器に、どうにか最大の領土を得ようと戦っていることになる。
「領主イーリアよ。あなたは無辜の民を告発したということですかな?」
風見鶏のような司祭は中立を装って、イーリアにそう問いかける。
「いいえ、司祭様。私ははっきりと、この者が徴税権を利用して巨利をむさぼっていることを知っています」
「は! なにを根拠にそう言うのだ! 自慢の鼻で嗅ぎつけたとでも言うつもりか!」
侮蔑に対し、側に控えていたクルルの目が吊り上がったが、イーリアはあくまで微笑んでいる。
けれど、指紋鑑定や監視カメラなど存在せず、銀行の振込記録だってないこの世界で、自分たちはノドンの不正を言い逃れできない形で示す必要があった。
そのために自分はクルルたちと共に、エダーの元に赴いて彼を脅しあげる必要があったわけだ。
「ええ、私の鼻はよく利きますからね。くんくん。こっちかしら?」
イーリアはお芝居めいたしぐさで鼻を鳴らし、商会の中を歩いて回る。
その様子があまりに意外だったようで、ノドンはちょっと怯んでいた。
そして、イーリアはノドンが座る帳場台の後ろの棚を、手で叩いた。
「ここから匂いますね」
「……」
ノドンは口を引き結び、一瞬こちらを見た。
そこにあるのは、金蔵のありかを喋った裏切り者、というより、どういうことだ? という疑問の目つきだった。
ノドンはわからないのだ。
どうして自分たちが、自信をもって不正を示せると思っているのかと。
「ケンゴさん、お願いします」
「お任せを」
マークスからはヒト獣人と呼ばれていた健吾が、大きな棚を横から押してずらしていく。
現れたのは金蔵で、武骨な木箱が山ほど積み上げられている。
「えーっと」
と、イーリアが尻尾を呑気に振りながら木箱の匂いを嗅いで回っているのは、冗談ではなく本当に、匂いでエダーのところから送られてきた木箱を探しているからだ。
「これね」
イーリアが示した木箱を、健吾が担いで帳場に運んでくる。
なんの変哲もない、もちろんエダー商会の焼き印が入っていたりするわけではない木箱。
ノドンはさすがというべきか、表情に変化を出したりしていないが、困惑は見て取れる。
こいつらはこの金貨がどこから来たかなんてことを示せるはずがない。
だって、金貨にはその持ち主の名前が書かれているようなこと――。
賢いノドンは気が付いたのだろう。
突然雷に打たれたように体を震わせ、目を見開いていた。
しかしそこで諦めるようなら、とっくに諦めている。
だから健吾が木箱を開き、イーリアとクルルが鼻を頼りに金貨を抜き出して、机の上に並べて見せても、決して顔から力を抜かなかった。
眉を吊り上げ、頬肉を引きつらせ、獣のように唸りながら、こう言ってみせた。
「その署名がなんだと言うんだ?」
ノドンの前には、金貨が並べられている。
一枚一枚は小さく、小指の腹に簡単に乗ってしまう金貨たちが、合成魔石を思わせる形で並んでいる。
自分たちはくず魔石から大きな魔石を作って見せた。
だから小さな金貨を並べて一枚の紙と見立て、そこに大きな文字を書いておこうという発想くらい、朝飯前だった。
「エダー殿が罪を認め、神に許しを請う文章ですな」
司祭は並べられた金貨を見て、つぶやくように言った。
ノドンはこの木箱をエダーから受け取った時、やや汚れた金貨が混じってるな、くらいにしか思わなかったことだろう。
それに大きな商会ともなれば、支払いは次から次にやってくるから、一枚一枚を丁寧に見ていられるような暇はない。こういう策を仕掛けられても、見抜くのは容易ではない。
ただ、これでもノドンは折れなかった。なぜなら。
「それで? これをあそこの恩知らずがこっそり書いていなかったと、どうして言えるんだ?」
こちらに向けて、顎でしゃくりながらそう言った。
「貴様、まだ言い逃れするつもりなのか!」
クルルが怒りを爆発させて食って掛かるが、ノドンは蠅かなにかが飛んでいる程度の顔しかしない。イーリアたちが上級権力に訴え出ないなら、しらを切りとおすことで被害を最小限に食い止められると、ノドンはそう踏んでいるのだ。
そして決定的な証拠とやらが犯人の自白を引き出すのは、黙っていても無駄だと犯人が自覚するからで、そういうのは司法権力がしっかりしているか、喉元に長剣を突きつけるかしないと無理なのだ。
穏便に事態を収拾しようとして証拠を積み上げるような方法をとれば、延々と水掛け論になってしまう。
ノドンが脂汗を浮かべながらもうっすらと笑っているのは、勝利を予感したからだろう。
正式な裁判に訴え出ることもできず、さりとて暴力に訴えることもできない甘ちゃんたち。
この自分が負けるはずもないと、ノドンの目が輝いていた、そんな折りだった。
「やあやあこれは、なにかお取込み中だったかな」
入り口を守る衛兵たちをものともせず、呑気な様子で入ってきた闖入者。
ノドンはたちまち、勝った、という顔をした。
「コール様!」
「やあノドン。手紙を受け取って、慌てて駆け付けたよ」
バックス商会のコールが、仕立ての良い服の襟を正しながらそんなことを言った。
「これはこれは司祭様。それに領主様も」
司祭のみならず、イーリアにも慇懃に頭を下げてみせるコールだが、イーリアに欠片も敬意を持っていないからこそ、そんなふうに振る舞えるのだろう。
「おお、コール様、ご覧ください。我らの商いを取り上げようと、愚かな者たちが司祭様を焚きつけているのです!」
「ふふん?」
イーリアたちが魔法の力を背景に、領主としての権力を取り戻そうとしていることを嗅ぎつけたノドンは、最も頼りになる者に連絡を取っていた。
属州の州都で大きな商いをするバックス商会は、経営陣に貴族を据えた、帝国の地方でも一大勢力のひとつ。獣人との戯れで生まれた落とし子が、お飾りとして収まっているような領主の身分では、到底立ち向かえる相手ではない。
バックス商会の後ろ盾を跳ね返せるとしたら、属州の州都の上級裁判権に訴え出た時だけ。
けれどそれではジレーヌ領内の醜聞が明らかになるから、イーリアたちにその選択肢を取ることはできない。だからこっそりノドンを殺して埋めてしまうとかでもしない限り、コールがここに来た時点でノドンの勝利は確定する。
そしてノドンの予想通り、イーリアたちは甘っちょろい小娘風情で、そういう思い切った行動をとれなかった。
勝負師ノドンの目がぎらりと光り、イーリアとクルルを舐めるように見まわした。
自分の顔に泥を塗ったこの恨み、いかに晴らさでおくべきか。
まずは首環でもつけて小娘二人を飼いならし、鉱山でよみがえったとかいう訳の分からん奴らは、二度と復活できないように八つ裂きにして犬にでも食わせてやる!
持ち前の嗜虐欲と復讐心を燃やしているように見えたノドンは、実に貪欲そうな顔で椅子から立ち上がった。
「コール様、この不届き者たちに――」
ノドンがそう言った直後のこと。
コールはイーリアの前に立つと、その手を取って自らの額に当てていたのだ。
「この度のこと、我らへの取り計らいを感謝します」
「――は?」
言葉を失っているノドンは、完全に、ひとりだけ舞台の出番を間違えた役者のようだった。
「いいえ、バックス商会に名を連ねるコール卿。あなたたちの名声に傷をつけるようなことは、長らくこの領地の魔石を取り扱っていた恩を仇で返すようなことですから」
コールはイーリアの目をまっすぐに見つめ、冷ややかな目と柔らかな笑みという、ノドンとは違う、もっと高位の商人らしい顔を見せていた。
「コ……コール……さっ……」
あまりのことに言葉を継げないノドンに、コールはようやく視線を向けていた。
蔑むような、手ひどい失敗をした無能を見るような目で。
「ノドン、お前は調子に乗りすぎたな」
「なっ、はっ、え?」
「こんな釣り針にぱっくり食らいついたとはね」
机に並べられた金貨を一枚手に取って、指ではじくとノドンの額に金貨が当たる。
「そこの有能な青年ヨリノブから、こっそり手紙を受け取ってね。ノドンの横暴に耐えかねたエダー商会が、金貨に毒を仕込んでいると」
ノドンの目が机の上の金貨に向き、それから「ヴァっ」と苦しげなうめき声を上げた。
健吾の言葉ではないが、ここにはクレジットカードも、電子マネーも、銀行振り込み……はもしかしたらあるかもしれないが、為替証書の原形みたいなもの以外では、ノドン商会が利用しているのは見たことがない。
それにコールが私腹を肥やすための魔石取引は、古今東西の悪人の取引にたがわず、現金決済だった。つまりノドンの目の前にこんな金貨が並べられているということは、もうひとつ別のことを意味しているのだ。
「ノドン、私の財布からも神を呪うような文字の書かれた金貨が出てきたら、一体どうするつもりだったのだ?」
コールの顔が不気味に笑う。
笑顔で怒りを表現できるのは、強者にだけ許された芸当だ。
ノドンの顔が真っ赤になり、それからものすごい勢いで青ざめていく。
エダーを脅しあげて仕込んだ釣り針の真価は、ここにあった。
ノドンの首に縄をかけ、その縄を引くことに躊躇わない唯一の人物。
それがコールだ。
「本来なら、魚の餌にするところだが」
コールは髪を撫でつけ、イーリアを見て微笑む。
「こちらの麗しい領主様はそれをお望みではない。また司祭様も神の御慈悲を示すべきだと仰られている。私としては、逆らうことなどできようはずもない」
残念だがね、と小さく笑いながら付け加える。
「そこで我がバックス商会は、ノドン商会と全面的に取引を停止することで手を打とうかと思うのだ」
その瞬間、ノドンの生命線が断たれた。
「その後の処遇については、貴顕らにお任せしたいと思う。それでよろしいのでしたね?」
「はい。お手を煩わせてしまい」
「なにを仰います。これより長く魔石取引をする仲ではありませんか」
沈む船からは鼠でも逃げる。
コールとしては、司祭を味方につけているイーリアを怒らせて得なことは、なにひとつない。
ノドンを相手にしている時よりかは儲けが減るだろうが、完全に魔石取引を失ってしまっては、バックス商会の中での立場が危うくなる。コールは冷静にそろばんをはじいて、そう結論したのだ。
コールはイーリアと改めて握手を交わし、「それでは私はこれで」と来た時と同じように颯爽と商会を後にした。
そのコールが消えるのを待って、イーリアが言った。
「さて、あなたの処遇ですが」
さっきまでの威勢はどこへやら。
椅子にへたり込んでいたノドンは、びくりと体をすくませる。
「横取りしていた税金の金額的には、百回縛り首にしても足りないでしょうね」
イーリアに納められていた徴税権を請け負う権利の落札額と、ノドンたちが好き勝手に集めていた税額の間には、長い年月の分を累計すれば、金貨で何十万枚という差が存在するはずだ。
挙句にノドンはイーリアのことを小娘と侮って、考えうる限りの狼藉を尽くしてきたのであれば、どんな残虐な方法で処刑されるのかと想像していることだろう。
「ただ、吸い上げた儲けがすべて、あなたの私利私欲に使われたとも思いません」
領主として立つことを諦めきっていたイーリアだが、貴族としてあちこちを転々とする中で、権力者が権力を維持していくにはどんなことをする必要があるのか、という世の中の仕組みはある程度わかっていた。
だから、ハンモックに寝転がっているお飾り領主の代わりにジレーヌ領を支配していたノドンの事情も、それなりに理解している。
「バックス商会をはじめ、外部の勢力からジレーヌ領を守るため、あれこれお金を使ったことでしょう。それは正当な費用であり、集めた税をそれに用いた、と見なすこともできます」
想像もしなかったような擁護の言葉に、ノドンが白昼に竜を見たような顔をしていた。
「もっとも」
と、胸の前で腕を組むイーリアを前に、たちまち身を縮めていた。
「このジレーヌ領を、自分のものと勘違いしたうえでのことでしょうけれど」
いかにこの地を支配していようとも、ノドンは商会の主人でしかない。
出るところに出れば、イーリアには正当な領主としての権威がある。
「では領主イーリアよ、いかがしますかな」
司祭がイーリアに尋ねていた。
この町を治める、正統な権威の担い手として。
「本当なら、この者にひどい目にあわされた多くの人たち、あるいはその娘たちのため、両手両足の爪を剥いで、歯を引っこ抜き、鼻と耳を削いだうえで、殺すことすらせずに一生洞穴の中に閉じ込めておきたいところですが」
「っ……っ!」
「そんなことをすると、町の多くの人たちが大混乱に陥りそうですから」
なにせノドンと同じことをしてきた連中が、町には山ほどいるのだ。
彼らが町から逃げ出したり、やぶれかぶれで武器を手に再び立ち上がるようなことになると、せっかく領主として治めようというこの町がめちゃくちゃになってしまう。
けれどノドンを無罪放免になどできるわけもなく、自分たちは落としどころをどうにか探ったわけだ。
「そこで、私たちはあなたに提案をしようと思うの」
溶けかかった脂身のようなノドンに、イーリアが微笑みかける。
体のでかいノドンの前だと、ノドンが椅子に座っていてようやく視線の高さが合うくらいだ。
そのノドンが、イーリアの視線だけで体が歪むほど怯えている。
「あなたは今日、突然神の啓示を受けて改心したのよ」
「……?」
ノドンがイーリアを見て、ごくりと固唾をのむ。
「商会の経営も、富も名誉もなげうって、あなたは巡礼の旅に出る」
「っ……」
馬鹿な、とか言いかけようとしたのだろうが、口応えをしたところで、状況が良くなることはあり得ない。
ノドンは必死に口をつぐみ、ふうふうと苦しげに鼻で息をしながら、続きを待っている。
「もちろん裸のまま放りだすなんてことはしないわ。あなたは巡礼に必要なだけの相応のお金と、それに旅立ちには司祭様からのありがたい後押しをもらえる。どこの町に行っても、なんと敬虔にして素晴らしい信仰の持ち主だろうと迎え入れられるような、ね」
盗みはなし。
それから、殺しもなし。
ただ、慈悲心だけでノドンを殺さないのではない。
これからイーリアは領地の権力を掌握しなければならないのだ。町にたくさんいる脛に傷を持った者たちは、ノドンにさえも慈悲が示されるのであれば、降参したほうが得だろうと判断するはず。
もちろん、ノドンに恨みを持つ人物が、追放されたノドンの足跡を追いかけることまでは、自分たちも関知しない。ノドンは自分のしたことの責任に永遠に追いかけられ、己の才覚か、さもなくば神の御加護があれば、生き延びられるだろう。
「なにかご不満は?」
誰よりもノドンを縛り首にしたいだろうイーリアの言葉に、ノドンはもう一度下顎の肉を震わせながら固唾をのむ。
自分の位置からは見えなかったが、きっとイーリアの顔は、ノドンがそういう顔をするのにふさわしい顔だったのだろう。
「……う……受け……いや……」
ノドンは、言い直した。
「仰せの通りに……領主様……」
「賢明ね」
イーリアは尻尾をぱたりと一度大きく払うと、軽やかに身を翻した。
「司祭様、ではそのように」
「哀れな罪人に神の御加護あれ」
司祭はそう言って、商会前に控えていた衛兵たちに合図を出し、ノドンを立たせていた。
捕縛の意味もあろうが、ノドンが信仰に目覚めて旅立つという設定に、真実味を持たせる準備があるからだ。
ただ、イーリアたちには内緒で、頼信は司祭に言い含めてあることがあった。ノドンはカスで間違いないが、直接の上司としてはそこまで憎めなかった。雇ってくれた恩もあって、イーリアたちが提示した以上の金額を持たせ、ノドンがどこかの町で再び商いをできるよう取り計らってくれないかと。
司祭は自分が将来こうなった時のことを考えてなのかどうか、頼信の頼みに、神に誓って、と返事をしてくれた。
こうして巨体のノドンが運び出されると、商会には急にぽっかり隙間ができたような気がする。残された者たちはその隙間を沈黙で埋めていた。
それを破ったのは、イーリアだった。
「さあ、この地に現れた救世主様」
こちらを振り向いたイーリアは、いたずら感満載の笑顔でそう言った。
「あなたの玉座はこちらですことよ」
指し示すのは、ノドンが座っていた帳場台の席だ。
ノドンを安易に処刑すれば町が大混乱になってしまうように、ノドン商会を野放図に取り潰せばジレーヌ領すべての経済が麻痺してしまう。前の世界でも破綻した銀行やらを容易につぶせないのと同じこと。
だから商会の運営は誰かが引き継ぐ必要があるということになったのだが、その適任は誰か。
この騒ぎの後は魔石取引を希望していて、しかもノドン商会の帳簿を預かっていた奴がいるとなれば、自然な流れだった。
けれどやはり過大な立場な気がしてならなかったし、なにより。
「イーリア様、救世主扱いはやめてくださいよ……」
「ふふ。あなたがイーリア様と呼ぶ間は、やめないわ」
尻尾をぱたぱた振るイーリアに、ため息をつく。
そして急に、ぐいと誰かに袖を引かれた。
「ほら、イーリア様の叙勲みたいなものだ。ありがたく受け取るのが筋だろう」
「わ、ちょっと」
クルルに無理やり引っ張られ、玉座のように数段高くなっている帳場台を昇らされる。
そして最後の一段に足をかけようかというところ、クルルに正面から抱きつかれた。
「……」
クルルの肩越しに、口に手を当てわざらとしく驚いてみせるイーリアや、大笑いしている健吾に、どこまで冗談かわからない鋭い目をしているマークスが見えた。
呆気に取られてなにも言えないでいると、体を離したクルルが、こちらを見て泣きそうな顔で笑っていた。
「……危うく転びそうになっていたからな、抱き止めただけだ」
そんなあほみたいな言い訳を、と思いかけたところ、胸を押された自分は、よろめくように椅子に座る。
「お前を信じてよかった」
獣人の子供の毛で作った髪飾りが、クルルの髪の毛と一緒に揺れている。
尖った犬歯が唇にかかり、嬉しそうに笑っていた。
「よーし! 我らが新しい商会主に!」
健吾が大声を上げ、マークスやその弟たち、それにクルルに毛を提供してくれた獣人の子供たちも商会の荷揚げ場になだれ込んでくる。その人ごみの向こうに、一瞬、ドドルが見えた気がしたが、気のせいでなかったのは、イーリアとクルルもそちらを見て互いにうずき合っていたことからわかった。
健吾は忙しなく全員に酒を配り、こちらに向けてへたくそなウインクをしてみせる。
最初にものごとを企んだのは自分だから、自分が責任を引き受けるしかない。
それに、起業しない? なんて言い出したのも自分なのだ。
けれど、まさかこうなるとは。
「さあ新しい商会主の開業挨拶だ!」
健吾にはやし立てられつつ、こういうのも大事なことなのだろうと諦める。
酒を強く握りしめ、健吾同様に高く掲げてみせた。
「え~……その、ここに来る前は、まさに前の会社を辞めるつもりだったのですが、色々とあって、この世界で起業しようと思いました」
あの日の朝、玄関から振り返った一枚のポスターのことを思い出した。
自分は大学の時、ゲームを作ろうと言い出して、結局それは空中分解してしまった。
あの時の夢を諦めたわけではないし、今度はうまくやれるはずだとも思う。
いや、やらなければならない。
自分の夢を、実現させるためにも。
「新しい商会の旗揚げに、乾杯!」
「乾杯!」
皆が酒を高く掲げて唱和した。
ちなみにこの短いスピーチでさえ、どうしても思いつかなくて健吾に泣きついて考えてもらったのは、内緒なのだった。
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