第27話

 テーブルの上に積み上げられているのは、すり切れた銅貨に銀貨、それとわずかな金貨だ。

 羽ペンとインクも置かれ、組合員の名前がずらりと書かれた紙に、利子の支払い額が書かれている。


 永遠に払い終わらない借金を返し続けている彼らの、定例作業。


 将来になんの展望もなく、ノドンのようなものが肥え太るためだけに働かされ続ける人生が、ここにはある。

 憂さ晴らしに実権のない小娘領主を嘲るのは、せめてもの慰めだったのかもしれない。


「ノドン商会への利払いですよね?」


 ヴェンナーは否定することもなく椅子に座り、こちらにも椅子を勧めてきた。副組合長と思しき痩せた中年の男が、部屋の奥で樽から水差しに酒を汲んでいるのが見えた。


「それをご存知のノドン商会の人間が、なぜ魔法使い様と?」


 変装は無意味だったようだが、ヴェンナーはそれよりもしきりにクルルの手元をちらちらと盗み見ている。

 魔法が放たれるとすればそこから、という知識がそうさせるのだろう。


「あなたがたの借金を、我々が肩代わりできないかと」


 自分の前に置かれようとしていた木のジョッキが、尖った音を立ててテーブルに置かれた。副組合長の目が真ん丸になって、木のジョッキをテーブルに置いたままの姿勢で固まっている。

 どうにか威厳を保とうとしていた組合長ヴェンナーもまた、呆気に取られていた。


「な……なんと?」

「ノドンからの借金を我々が肩代わりしたいと言いました。我々とは、イーリア様、という意味ですが」


 先にエダーとやり合っていたのは正解だったようだ。

 今のところ、落ち着いて想定したやりとりができている。


「その代わり、魔石の加工を引き受けてもらいたいのです」


 副組合長がヴェンナーを見て、ヴェンナーは自分を魅入られたように見つめ続ける。それから、ちらりと魔法使い役のクルルを見た。


「もちろん、ノドンの借金をそのまま私たちに鞍替えするだけではありません。適切な利子に下げ、加工費も滞りなくお支払いします。皆様が独立した職人でいられるよう、取り計らうつもりです」


 うますぎる話には裏がある、と思ったのかどうか。


「い、一体、なんのために」


 ヴェンナーはそう言ってから、口をつぐむ。


「職人の皆様には、ノドンへと反旗を翻してもらうわけです。正当な対価かと」


 領主という権力機構が機能していなければ、町の経済を牛耳っている者が支配者となる。

 そして長年にわたり虐げられ続けていれば、やがて首環を外されても反抗するという発想そのものを持たなくなってしまう。養鶏場の鶏が、籠の蓋を開けても出て行かないのと同じこと。事実イーリアはそうなりかけていた。


 歯を食いしばり、唸り続けていたクルルがすごすぎるのだ。


 そして魔石加工職人たちは、明らかに、反抗する気概を失った犬に成り下がっていた。

 だから自分の話を聞いたヴェンナーの目は、明らかに戸惑い、泳いでいた。


 なんなら彼の頭の中では、ノドンにお伺いを立てるべきでは? という問いが飛んでいたとしても驚かない。


「ヴェンナー様」


 その名を呼ぶと、ヴェンナーの目が現実に戻ってくる。


「我々の提案は、それだけではありません」

「……」


 口がもごもご動くだけで、言葉が出てきていない。

 自分はわかっているとばかりに適当にうなずき、隣のクルルに目配せしてから、言った。


「皆さまは魔石加工の際、ノドンから斡旋された魔法使いに、魔石の検査をお願いしているはずです。それも、ずいぶん法外な金額で」


 ノドンは魔石取引のすべてから利益を搾り取るため、生産から流通まで、あらゆる場所を抑えていた。魔石に刻まれた魔法陣が適切なものかどうかを試す試験もそのひとつ。本当に魔法陣として正しい物かどうかは、魔法使いにしか試せない。だからバックス商会に納品する前には必ず魔法使いの手が必要になり、その魔法使いもまた、ノドンの息がかかっている者だった。


「その検査も、こちらのドラステル様が格安で引き受けましょう」


 クルルが合成魔石を利用したことで、探鉱費用を浮かせたのと似たようなこと。

 クルルは三級くらいの大きな魔石にならないと威力のある魔法を発動できないが、魔法陣が正しく刻まれているかの確認なら、既存の小さな魔石でもできる。

 職人たちにとってはなにひとつ損にならない有利な取引。


 しかし、彼らはなおもまごついて、こう言った。


「で、ですが、それは――」


 ノドンのみならず、ノドンの斡旋した魔法使いをも敵に回すことを意味する。

 魔法の威力を目の当たりにしたことがあれば、人の腕力でどうにかできる次元の話でないことはすぐに理解できる。


 しかも長年の支配関係によってすっかり躾けられてしまっていれば、想像するのは束縛から解放された時の自由ではなく、反抗したことへの懲罰だろう。

 万が一その反乱計画が失敗したら? ノドンから一体どんな罰を与えられるのだろうか?


 だから、自分は焦らずにこう言った。


「探鉱作業の話で、ドラステル様の実力はお耳にしているはずです」


 ヴェンナーの視線がはっきりとクルルの手を見る。

 魔石は握られていない、と何度も確認していた。

 ようやくこちらを見た時には、泣きそうな顔になっていた。


「ですが、私たちは……」

「組合長」


 そう言ったのは、テーブルを回り込んでヴェンナーに駆け寄った副組合長だ。


「これはもう、二度とこない好機なのではありませんか」

「なっ……なに?」

「ノドンに虐げられていた、あちこちの弱小商会や職人組合が、領主様の屋敷を詣でている話は知っているでしょう。今ここで領主様の申し出を断れば、私たちに居場所が残りますか」


 副組合長に肩を揺すられ、ヴェンナーは力なくされるがまま。

 視線は誰を見るわけでもなく、テーブルの上の貨幣の山を見つめていた。


「我らが今ここで領主様に降らなければ、今までの不品行を咎められた時に、どう申し開きをするつもりですか」


 同じように尻尾を丸めて頭を低くしていた犬同士でも、副組合長は組合を背負うという自負がない分、現実的になれたのかもしれない。


「すべてが入れ替わった後では、もはやこんな好条件などまずありますまい!」


 これまで絶対的な支配力を誇っていた者を裏切って、今まで嘲ってきた小娘に頭を下げる。

 それがどれほど理に適っていることでも、突然振る舞いを変えるのは難しい。


 けれどヴェンナーも、職人全体の行く末を破滅に向かわせるほど、愚かで頑迷な人物ではなかったらしい。

 ゆっくりと、でも着実に視線をテーブルから上げ、どうにかこうにかこちらを見た。


「……ノドン様を……ノドンを、倒せると?」


 クルルの手が、ぐっと握り締められる。


「できますとも」


 自分が答えると、ヴェンナーは目を閉じる。

 人生において踏み出さねばならない一歩があるとすれば、今、まさにここなのだと理解するように。


「……わかり、ました」


 ローブの下で、クルルもほっと息をついたのが分かった。


「ですが」


 そこにヴェンナーがテーブルに身を乗り出して、言った。


「もしもあなた方が失敗したら――」


 ヴェンナーはそこまで言って、こちらを見つめたまま口をつぐむ。


 行くも地獄。戻るも地獄。


 運命を自分の手に握れない者は、こうして周囲の環境に翻弄される。

 けれど組合の長たるヴェンナーは、結局現実を見つめたようだった。


「いや……いつか、こうなる時が来たのだな……」


 テーブルの上に積み上げられた貨幣を見て、ペラペラの銅貨ならば飛んでいきそうなため息をついていた。


「せめて……我らに神の御加護が、ありますように……」


 かつて人に魔法の力を授けたという神。その魔法の力で征服された獣人の血を引くクルルがドラステルの正体だと知れば、ヴェンナーはどう思うだろうか。

 けれどもちろんそんなことはおくびにも出さず、自分たちは席を辞した。


 扉が閉じられると、そこにはさっきとなにも変わらない、夜の静かな通りがある。

 今まさにこの土地を巡る支配構造に、大きな楔が打ち込まれたばかりだと、一体誰が思うだろう。


「さあ……って」


 大きく伸びをしたクルルは、腕を下ろした息を吐く。

 ここまでうまくやりおおせたのだ。本丸のノドンだって倒せるはず。


「これだけ外堀を埋められたら、ノドンも手を引くしかないでしょう」


 特に魔石加工職人たちに反旗を翻されたら、ノドンは重要な資金源となる魔石取引を失うことになる。それを見たノドンの仲間や、ノドンに協力させられていた者たちは、沈む船から逃げ出す鼠のようにノドンから離れるはず。

 そうすればノドンの横暴を一掃できるはずだった。


「どうなることやら」


 けれどクルルは思いのほか、浮かない顔をしていた。辛い目にばかり遭ってきたせいで、いざ物事が前に進むと、かえって不安が押し寄せてくるのかもしれない。

 とはいえ順調に話は進んでいて、クルルの心配は杞憂だとそのうちわかるはず。


 そう思いながら、クルルの後について通りを渡ると、路地の影に腰を下ろしていた少年がパンの残りを口に放り込んで、指を舐めながら立ち上がる。


「戻るぞ」


 少年はクルルの言葉にうなずいて、歩き出した。

 クルルは一仕事終えた解放感からか、来た時よりもずいぶんゆっくりと歩いていたし、少年はそんなクルルを気遣ってか、しきりに振り向いて歩調を合わせていた。フードのせいでクルルの表情は見えないが、イーリアに首尾よくいったことを報告する場面を想像しているのかもしれない。


 月はまだ昇ってきておらず、夜の路地裏はだいぶ暗い。


 獣人の血を引くクルルは夜目が利くようだし、マークスと働く少年は元々こういうところが根城なのか、昼間のようにすいすいと歩いている。

 自分だけが路地に置かれた木箱や、唐突な段差に躓きながら、どうにかこうにか遅れずについていく。


 それでも蝋燭の灯りを離れてしばらく経ち、夜闇に目が慣れてきたころ。

 クルルがふと足を止めた。


「あれ、この辺でしたっけ?」


 まだ道のりは半分くらいではなかろうか。

 そう思った直後。


「下がれ」

「え?」


 道に太陽が現れた。


「っ⁉」


 目の奥を猛烈な光の束で突き刺された。たまらずに体を丸めたが、その時に感じたのは、沖縄旅行で海に飛び込んだ時の感覚だ。

 地面が足元から消え、上下がわからなくなる浮遊感。


 誰かに肩を叩かれたと思ったのは、バランスを崩して床に倒れ込んだ衝撃だった。

 立ち上がることなど到底できず、目を開けることさえできない。


 けれどなにが起きたのか、ということだけは頭の芯で理解していた。


 瞼の裏に残る閃光が届くまでの一瞬の記憶は、掲げられた手から強烈な光を放っているローブ姿の男と、目を閉じたまま路地から飛び出し、襲い掛からんと剣を振り上げる暴漢たちの静止画像だ。


「に……逃げてくださいっ!」


 そう叫ぶのが精いっぱいだった。

 自分はノドンを侮っていた。ノドンは防戦に回るだけの男ではなく、探鉱作業のあたりからしっかり警戒していたのだろう。イーリア周辺を綿密に探り、こちらの行動を探知して、周到に策を練っていたわけだ。


 ここにくる前の自分は、しがない普通のサラリーマン。

 それがこんな過酷な世界でうまくやれるはずもない。


 地面を通じて耳朶に届く複数の人間の足音は、自分たちの運命を踏み潰す音だ。


「死ね!」


 はっきりと憎悪に満ちた声を聞いたし、彼らは剣を振り上げていた。

 クルルは魔法使いだが、合成魔石など持っていただろうか? いや、持っていたとしてもあんな不意打ちで魔法を使えたとは思えない。少年が荒事に慣れているとしても、多勢に無勢。


 死ぬのだ、と自分は確信した。

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