第7話

 この世界は荒々しく粗雑だが、時計といえば日時計がせいぜいで、町の中で一日四回鳴る鐘の音で生活リズムが区切られるような、ゆったりとしたリズムを刻んでいる。


 当初はなにもかもが荒々しかったり、ゲームができなかったりと苦しかったが、慣れるとここでの生活も悪いものではなかった。


 日給が飲食でほとんど消えてしまい、銀行がないので現金を貯めることもままならず、永遠の日雇い労働は当初こそ将来の不安を掻き立てたが、どんどんそんなことも気にならなくなってきた。なんなら商会の荷揚げ場の隅っこ暮らしも、慣れてしまえるのだ。


 日が昇ったら働いて、食べて、夜になったら酒場で飲んで、寝る。


 前の世界での文字どおりの臨死体験を思い出すと、自分には夢があったのでは、せっかくの機会を不意にするのかと、冷や汗とともに心臓が嫌な音を立てることもあったが、それも発作みたいなもので、その発作の間隔さえどんどん開いていった。

 ゲーム製作のことは、思い出すことさえ少なくなった。


 とにかく周囲が牧歌的なので、麻酔でもかけられたかのように、心が穏やかになる一方だったのだ。

 そもそもこの世界は社会的な流動性が低すぎて、金持ちの子は金持ちに、靴職人の子供は靴職人になるのが当たり前らしいから、身を立てて成功しよう、みたいな雰囲気がまったくなかった。


 貯金、ということでさえ、間抜けのすることだった。


 この世界でもボードゲームなら作れるのでは、なんて材料の相場を調べていたのが遠い昔のことように思えてくる。

 寝起きにスマホを探し、そうだここは異世界だった、とやることもなくなっていた。


 異世界にいるんだから冒険に出てとか、現代知識で無双して、とかいう想像もすぐにしなくなった。

 目下の希望といえば、旅行はちょっとしてみたいなというくらい。


 自分が想像する未来というのは、せいぜいが、今日の晩飯はなにを食べようかという範疇のことになっていった。


 まあこのままでもいいか。

 少なくとも仕事はあり、食うには困っていない。


 なんとなく不安はありつつ、大過なく過ごしていた、ある日のことだった。


「ぎゃあああ!」


 荷揚げ場に悲鳴が響き渡った。


「ヴァッ……なんだ、騒々しい」


 帳場台で昼寝をしていたノドンが首を伸ばし、不機嫌そうに言った。悲鳴は、荷揚げ場と隣り合っている倉庫部分から聞こえてくる。


 獣人ほどではないし、健吾を見慣れているとさほどでもないが、荷揚げで鍛えられた男たちが慌てたように倉庫に駆けていく。


 ノドンが椅子から立ち上がろうともしないので様子を見にいくと、倉庫内の崩れた荷物をせっせと運び出している最中だった。


「くそ、痛え、痛えよお!」


 人だかりの向こうで声を上げているのは、身軽さが売りの少年だった。とはいえこの世界では立派な大人の範疇で、港の揺れる船の上での作業が得意な人物だ。彼が右足を抑えていて、膝から下があらぬ方向に曲がっている。


 さらにその横には、頭から血を流してぴくりとも動かない男が倒れていた。


 どうやら荷崩れに巻き込まれた事故らしい。


「き、救急車――」


 とズボンの尻をまさぐったところで、はっと気が付く。

 スマホもないし、ここに救急車なんてあるはずがない。


「おい、男だろ! 泣くな!」

「でも、ああ、くそ……俺の足が! 足が!」


 足を折った少年は怒りにも似た悲鳴を上げ、別の荷揚げ夫に担がれるようにして倉庫から運び出されていった。医者に見せに行くのだろうが、問題は息をしているようには見えない人物のほうだ。


「どうだ?」

「だめだな」


 そんな声が聞こえてくる。


 人の死を初めて見たショックもそうだが、とにかくノドンに知らせなければ。

 仕事場で死人が出たのだから、警察も呼ばねばならないし……いや、警察? と帳場に走ると、ノドンは帳場台でいびきをかいていた。


 呆気にとられてしまうし、寝ているところを起こすと恐ろしく不機嫌になるとわかっているので、反射的に言葉に詰まってしまう。

 それでも人が死んでいるし、怪我人が出ている。


 ノドンに歩み寄って、その肩を揺すった。


「ノドン様、大変です、事故ですよ!」

「ヴァッ」


 聞いているこっちが苦しくなりそうな短いうめき声をあげたノドンは、泥のような目をこちらに向けて顔をしかめている。


「あん……? なんだ?」

「事故です。その、人が死んで――」

「ヴァ~……」


 ノドンは首を伸ばして倉庫のほうを見て、蠅でも追い払うかのように手を振るとまた目を閉じてしまう。


 寝ぼけているのか? と思い、もう一度言った。


「事故ですよ! 一人が大怪我で、一人がおそらく、その、亡くなってます!」


 ノドンはすぐに目を開かず、大きく鼻をすすると、面倒くさそうに目を開いた。


「死んだだとお? んあ~……怪我のほうはどんなだ?」

「怪我は、その、足の骨折です。膝から下が……」

「ふん」


 鼻を鳴らし、ノドンは椅子の上で寝返りを打つように身じろぎする。


「今日の分の給金を半分だけ出しておけ。それと、抜けた穴をすぐに埋めろ。荷揚げをやりたい人間ならいくらでもいるだろ」


 あまりに事務的な指示だった。


「死体のほうは、なんだ、身寄りがないなら教会に届けておけ」


 教会、と言われて面食らったが、一日に四回鳴る鐘は教会のものだった。


「死体を届けるついでに、司祭には銀貨を二枚くらい握らせとけよ。鉱山送りで万が一魔法使いになったら、分け前をもらわにゃならんからな」


 ノドンはそう言って目を閉じる。もう一度話しかけるなら、殴られるのを覚悟しろ、という雰囲気がありありと伝わってくる。


 自分の言葉がそれ以上出てこなかったのは、ノドンの下で働いて染みついた習慣のせいかもしれない。

 けれど大部分は、この世界の恐ろしさにようやく気が付いたからだった。


 帳場から荷揚げ場を振り向けば、死体が運び出されているところだ。

 みんな特に注目もせず、悲しみもせず、すでに業務が再開している。朝一番で近隣の村からまとまった量の農産物が届いて、町のあちこちの酒場や露店商に届ける作業で忙しいのだ。


 この世界にはまだ人権という言葉がない、なんて軽々しく理解したつもりだった。


 けれどその本当の意味とは、こういうことなのだ。


「おーい、死体より先にちょっとこれ運んでくれ! この時期ならそんな簡単に腐らないだろ」


 荷揚げ場で声が上がり、死体を運んでいた二人は、特に迷うそぶりもなく仕事仲間だったはずのそれを、荷揚げ場の隅に置いていた。彼らは手を軽く払うと、色が濃くて苦そうな葉野菜の詰まった籠をせっせと運び始めている。


 死者は自分たちの生活を支えてくれないが、収穫された野菜は違う。

 なので死体は弔われもせず、日常の隅に横たわっている。


 ここでは人の命が、おそろしく安いのだ。


 あの骨折した荷揚げの少年もまた、ノドンにとってはもう商会に儲けをもたらしてくれる人材ではない。慰労もなにもなく、給金の半分を渡されて放り出されるのみ。


 あの少年は、向こう一か月は働けないはずだが、ほぼその日の飲食で給金が消えるのに、働けない間はどうやってしのぐつもりなのだろう? 失業保険があるはずもないし、ノドンに面倒を見る気があるとは思えない。


「ヨリノブさん」


 声を掛けられ、びくりとそちらを振り向くと、教会の孤児院から通っているという、小学校高学年くらいの少年だった。勤勉で文字が使えるので、孤児院を支えるために働きに来ているのだ。


「取引の確認を」

「あ、うん」


 木の板に蝋を引いて、そこに木のペンで数字が書きこまれている。蝋燭でちょっとあぶれば何度でも使えるメモ書き用のものだ。自分は木の板を受け取りつつ、ちらちらと死体を見やり、それから逃げるように仕事に戻った。


 牧歌的な世界?

 とんでもない話だった。

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