第一章

第1話

 ここはどこだ?

 なぜ自分はこんなところにいるんだ?


 記憶の最後では、十四連勤目に終電で帰る際中、辞表を叩きつけて退職する妄想に耽っていたら、うっかり赤信号に踏み出して――。


 混乱が収まらない中、石造りの大きな屋敷に引っ立てられ、中庭に立たされる。

 そして変な紫色の石を渡されたとき、新入社員歓迎会で一発芸を強要されたことを思い出した。


 けれどこちらを見つめるのは、禿げかけの小汚いおっさんたちではない。


 はっとするほど整った顔立ちの、ふたりの少女だ。


 どちらも歳の頃は十代半ばくらい。片方はふわふわの巻き毛が特徴的で、ドレスめいた服を着て、ただひとり椅子に座っている。

 もう片方は従者として側に立ち、曇った日の雪山みたいな銀色の髪の毛の下で、緑色の目を鋭く光らせ、こちらを睨みつけている。


 この屋敷は彼女たちのものであり、椅子に座る巻き毛の少女はなんと、領主様だという。


 けれど自分がどうにも気後れしてしまうのは、ふたりの整いすぎた顔立ちのせいでも、領主などという時代錯誤な肩書のせいでもない。


 彼女たちの頭には獣の耳が生え、背後には尻尾が見え隠れしているからだ。


「――っ、――!」


 ふわふわ巻き毛の少女の隣に立つ、目つきの悪いほうの少女が、こちらにはわからない言葉でなにか言った。言葉はわからずとも、口調がきついことはわかる。


 すらりとした体つきと尻尾に、冷たそうな髪色もあいまって、機嫌の悪い猫みたいだ。


 早くしろ、と急かしているのだろう。


 自分は、手の中にある石を見やる。

 なにかの鉱石の小さな欠片で、紋様が刻み込まれている。


 新入社員歓迎会の時に手渡されたのは、ちゃちなマジック道具だった。


 けれどここは、安居酒屋ではない。


「……異世界……異世界、か」


 呟き、深呼吸をして、覚悟を決める。


 およそ現実とは思えないのだが、これが夢ならば、あまりにリアルな夢だ。

 それに心躍らないかと言ったら、嘘だった。


 少なくとも、うだつが上がらず、先の見えない社会人人生にはおさらばできた。


 手を掲げ、力を籠める。

 この世界には、魔法があるという。


 いかにも異世界らしいそれは、一体どんなものだろうか。


 というか、あまりに凄まじい能力を発揮してしまい、おやおやおや? いやいやいや、まあまあまあ、なんて展開が脳裏をよぎる。


 その手のコンテンツが嫌いなわけではないので、つい期待してしまう。

 そして――。


「……」


 待てど暮らせど魔法は出ず、どれだけ唸っても、力んでも、煙ひとつ上がらない。


 やがて聞こえた、大きなため息。


 椅子からふわふわ巻き毛の領主様が立ち上がり、さっさと屋敷の中に戻ってしまう。


 こちらをゴミでも見るかのような目で見ていた従者の少女は、大股に歩み寄ってくると、手の中の石をもぎ取るように奪って、主人を追いかけていく。


 中庭に取り残された自分の、みじめさと言ったらない。

 呆然としていたところ、肩に手を置かれた。


 ずしりと重いその手が、こちらの肩を揺らす。


 初めて仕事で失敗した時、先輩がそうしてくれたように。


「同じ凡人同士、頑張って生きていこうぜ!」


 自分より一足先にこの世界にきていたとそいつの慰めは、実に心に響いたのだった。


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