冒険者アレックスは旅立った。
第1話 社畜→冒険者→狐のヒモ→冒険者
前世がある。
直近四回分の生涯では哺乳類どころか脊椎動物ですらなかったが、此処とは異なる世界で人間をやっていた記憶がある。
アイワズジャパニーズビジネスマン。
花粉症に泣かされ職場の人間関係に泣かされ、親会社が吹っ飛んで外資系に買われて仕事を辞めた辺りまでは覚えている。たぶん独身。わかりやすく言えば社会的な成功を収められずに人生を終えた社畜だったと考えられる。
おそらくは平凡な人生。
多少の波風は立ったであろうが、野望や復讐に身を焦がす類の生涯ではなかったと思う。そういうのは架空の物語で充分。現実に持ち込む必要はない。スギ花粉は絶対に許さないと決めたが。あとブタクサも。
薪を集め、火を熾す。
稀にモンスター種のゴブリン共が寄ってくることもあるが、そこはそれ。
万歳の姿勢で仰向けに寝ている
純粋な戦闘力では自分が一番の弱者である。異論は受け付けない。
魔物使いという職は得てしてそういうもの。元より
収納術で簡易竈を取り出し、清水を満たした縦長の薬缶を置く。
薬草の茎を干して束ねたものを投じるのは、水の消毒と適度な賦活作用を期待してのもの。薬草の種類や適度に追加する香草によって風味が変わり賦活作用も増幅されるが、その辺の塩梅は冒険者独自のノウハウでもある。
良くも悪くも庶民の味。
一時期は王都王城門前のダンジョン騒ぎに巻き込まれたため、舌が贅沢に痺れかけた。最高級の茶葉や珈琲豆に文句をつけるなど不遜極まりないが、隊商の護衛として辺境のドサ廻りを続けてきた冒険者には過ぎたるものだ。前世の記憶を自覚してから振舞った諸々の料理については、庶民の食い物なのでセーフ。超高級料理は神様に没収されたし、勢いで扱うことになった高級食材も王侯貴族や上位冒険者達の胃袋に消えた。
薬缶より噴き出す湯気に混じり、
人体に害はないが、嗅覚の鋭敏な小動物や藪蚊が少しばかり忌避するような香草を含ませた結果だ。獣人を伴わずに旅をするなら定番の配合。辺境のコボルト族で振舞ったら涙目で抗議された一杯でもある。香りが抜けきるまで三日ほど遠巻きにされたのは苦い思い出だ。
少し歪んだブリキのカップに薬茶を注ぎ、口に含む。
舌を火傷しそうになるほど熱い。
隊商護衛の頃はアルコールを沸かし飛ばした安ワインを飲む不届き者もいて、獣人族の仲間や呑兵衛共が口止め料として分け前を要求することもあった。偶に旅芸人の一座や春売りの連中が同行する事もあり、嬌声に釣られたモンスター種のゴブリンが茂みの中で出歯亀野郎と鉢合わせする事故も幾度かあったと記憶している。数か月しか経っていないというのに、随分と昔の出来事のようだ。
今は一人旅。
多くの仲間がコボルト族の村への定住を選び、自分は旅の生活を続けた。彼らは旅を終えるに足る理由があり、自分には続ける理由があった。それだけの話だ。
『美味、美味』
甘く焦げた匂いが鼻の奥をくすぐる。
声のする方向に視線を向けると、女中服姿の美しい娘が幸せそうに甘藷を頬張っている。竹の皮に包み焚き火の下に埋めていたそれは、輓馬グレイス号の朝飯として用意していたものだ。飼い葉や道草が主食ではあるが、甘く焼き焦がし気味の甘藷の味を覚えた彼女は粗糖よりも芋を好む。
それはさておき、焚き火を囲むこの女中。
見た目はギリギリ成年を迎えた頃なのに圧倒的な包容力と母性を色気と共に放出する、神秘的な美貌の持ち主である――王都の門前で待ち構えていた
『神々より受肉の祝福を賜っておりますので、そちらの御奉仕も問題ございま』
「うちの仔達の情操教育に悪いので駄目っす」
唇の端に焼き芋の欠片をつけた家事妖精がねっとりとした笑顔で物騒なことを口走りそうだったので、取り出した陶器のカップに薬草茶を注ぎ突き付けて黙らせる。仮にも主呼ばわりする相手より振舞われたものを拒むのは彼女の矜持に反するようで、黙礼すると恭しく掲げるようにカップを受け取ってくれた。
『微かな苦みを含んだ
一口で薬茶の種類を言い当てた家事妖精。
流石としか言いようがない。超一流の家政婦というのは斥候であり探偵であり猟犬であり魔術師であり女帝でもある。ありとあらゆる職能を内包する。万能であるが故に専門分野において一芸特化型に劣ると言われるが、元手となる基礎能力が桁違いに高いので一山幾らのプロフェッショナルを蹴散らしてしまうのが家事妖精に対する世間一般の評価だ。
もっとも家事妖精は
『それ故に、此度の派遣は我ら家事妖精の名誉を回復する好機と考えております』
「世知辛い話っすね」
『ええ。女夢魔族よりも夜伽の技に長けていることを御前試合にて証明すべきという声も少なからずあったのですが、家事妖精の本分で評価されてこそ回復できる名誉というものがございますので』
力説する家事妖精だが、表情といい抜群のスタイルといい衣装といい説得力がちっともない。知り合いの冒険者仲間が見ても十人が十人とも女夢魔族の仮装と思うだろう。家事妖精達の名誉回復の日はいつか来るのかもしれないが、目の前で無駄な色気を振りまいている彼女がどれだけ貢献できるかは未知数だ。
あるいは。
この御色気過剰な娘をこちらに押し付けて、残った者達で家事妖精の地位回復を試みているのかもしれない。妖精達にはそういう残酷で気まぐれで優しい性質がある。無銭飲食の主犯共がどのような思惑があるのか人の身には推し測ることも出来ないが、体の良い厄介払いではないか。
ブリキの取っ手がわずかに歪む。
どこまで本人に自覚があるのかは分からない。
優雅で瀟洒な立ち居振る舞いの中に、封じ込めようのない色気と母性。しかし外見は未婚のうら若き娘。下手な女夢魔などまとめて返り討ちにしてしまうだろう。とびきり甘美な無花果の実、蟠桃ほどの効能もないのがより悪質とも言える。
だというのに本人は至って真面目。
家事妖精としての誇りを持つが故に要らぬ苦労と偏見を背負ってきた可能性すらある。あまり面白い想像ではない。
『私は私で此度の派遣を楽しみにしておりました。旦那様の下でならば私はただの家事妖精でいられますので』
「頼りにするっすよ。男親では
『うふふふふ、育児に悩む
なんか物騒なことを口走り始めた家事妖精。
その頭に輓馬グレイス号が嚙みついた。寝ぼけている訳ではなさそうだが目は座っている。元より安眠妨害するものに容赦しない性格ではあったが。
『ふんぎゃーっす! 痛いっ! 家事妖精に物理攻撃は無効のはずなのに貫通してるッ!? 熱いっ、馬の体温がダイレクトにあっつぅううううう! 待って、頭蓋骨がメリメリって音を立ててるの! へるぷ、ヘルプ旦那様!』
「蹄で踏み潰さないだけ有情っすね」
ぶひひんとグレイス号は自慢気に嘶き、テントの中で爆睡していた鷲馬娘と合成獣がなんだなんだと頭を出して家事妖精の姿を見つけると無言で乳と尻に噛みついた。
『追い撃ちの、ハイ・ビーストですか旦那様ァ!』
あ、こいつ割と余裕あるわ。
とあるスペースオペラのアニメにて地声のまま性転換ヒロインを演じきった男性役者の声色をわざわざ真似た悲鳴を上げる家事妖精に生温かい目を向けながら、少し冷めた薬草茶を飲み干した。
家事妖精アルビオン。
翌朝、あちこちに歯型をつけた涎汁まみれの美女は、それでも優雅な仕草を崩さずに挨拶をやり遂げた。
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