第2話
「私は、この地の領主の娘です。とはいえあなた方が来た場所よりずっと小さい領地で権力はそう大きくありませんが。
皆様ご存じの通り、前領主だった父は昔から仲の良かった弟――私の叔父です――と、二人で平和な地を目指し、村や自然を守ってきました。それがいつからか、叔父は父との対立が絶えないようになりました」
「それは叔父様の無茶な政策のせいですね」
「はい。普段温厚で堅実な叔父からは信じられないものばかりで、父はどこからかよくない金を受け取っているのではないかと考えていました。
そして先月、村の見回りに来ていた父の頭上に山積みされた荷が崩れ落ちてきたのです。ただの偶然と言われても仕方ありません。実際荷をまとめていたロープに細工の後はなく、ロープ自体もかなり古い物でした。
……しかし、父は言っていました。『木の陰から誰かが森の奥へ走っていくのを見た』と。そのようなまねをする理由が、父の暗殺に失敗したから以外考えられますか?……申し訳ありません。いけませんね、感情的になっては」
「そして、領主様は奥様とご令嬢の身の危険を危惧し、あの塔へ……」
「その通りです。あそこは元々愛する土地を一目で見渡せるようにと父が建てたのです。誰でも登れる、皆のための塔。父はそこへ私と母を隠すことにしたのです。一人の信頼のおける従者をつけて」
「なるほど。そして領主様の予想通り、事は起きてしまった……」
「……思えば、あの日は母の様子もおかしかった。どこか落ち着かず、『村で食料を買ってくる』と言って出て行ってしまったのです。食料は別な従者が持ってきてくれていると私は知っていましたので、不思議に思いましたが別段引き留めることはしませんでした。母が出て行ったあと、『愛する妻へ。娘を頼む』と書かれた手紙、というより走り書きのメモを見つけました。母は出かける前、従者に少し耳打ちをして出ていきました。従者は深く頷き、そのまま母を見送りました」
「奥様は領主様の元へ?」
「わかりません。後に母も父も別々の場所で発見されましたから。走り書きで筆跡はわからず、今となっては叔父の罠だったかどうかさえ不明です。
従者は母が出て行ったあと『心配なさらず。お嬢様は私が命に代えても守って見せます』と笑顔で言いました。彼は私の幼少のころからの関係です。礼儀正しく、強く、優しく。完璧と言っても過言ではない人間でした。叔父の手先が近づいてきたときも、いち早く気づいて私を奥の部屋に隠しました。
『このような場所に閉じ込めること、お許しください』
窓一つなくじめじめした場所でした。その部屋で私は震えていることしかできませんでした。死への恐怖と、心優しい青年の未来に」
「そこからは僅かな音を拾うしかありませんでした。ドン!と無理やり扉を破る音がして、何人もの足音が聞こえました。話し声も聞こえた気がしましたが、内容までは届きませんでした。いくら彼でも多勢に無勢、殺されてしまう……飛び出したい衝動を抑え、冷静になるよう深呼吸をしました。私が出て行って何になるでしょう。彼らが私だけ殺して満足するとは到底思えませんでした。どうせ同じ結末なら、今彼の努力を無駄にするのは愚かなことのように思えました。
しばらく金属がぶつかる音や雄叫びのような声がしていましたが、気づけばピタリと止んでいました。誰の足音もしません。おそるおそる部屋を出て、扉の前の広間の方へ向かいました。
……そこには彼がいました。血まみれの姿で、動かなくなった人間の山の上に座って。気配に気づいたのか、彼が振り返りました。開かれた扉から差し込む逆光でよく見えなかったものの、彼はその血まみれの顔で笑っていました。私に大丈夫だ、と言ったその笑顔です。一気に色々なものが押し寄せました。手足は血の気が引き、心臓はうるさく鳴り、体は動かない。彼が私に言いました。
『この後どうする?』
普段の彼からは考えられない言葉遣いで、血まみれの笑顔と相まって、彼はただのどこにでもいる無邪気な少年のようでした。大量の人間を不可抗力とはいえ殺した後の姿には見えませんでした。たった今まで私と森で追いかけっこでもしていて、それに飽きて次は木登りしよう!なんて言っているような、そんな明るさでした。私は怖くなってしまいました。自分を命がけで守ってくれた人にするにはあまりにもひどい仕打ちだったかもしれません。私は逃げ出しました。追ってくる気配はなかった。ただ一度振り返ったときの彼の顔が忘れられません……」
「そしてあなたは森の中をひたすら走った」
「行先は全く考えていませんでした。ただ、逃げたかった。しかし、恩人を恐れ逃げた罰でしょうか、不運にも私はあの叔父と出会ってしまったのです。叔父がたった一人、森の中を歩いていた理由はわかりません。叔父は私を見るとすぐさまナイフを取り出しました。人質にするつもりだったのか、父の血を受け継ぐ私を消そうとしたのか、どちらにせよそのナイフが使われることはなかったのです。
『貴様、何をしている』
聞き覚えのある声に振り返る前に私は叔父の腕の中に居ました。
『来るな!こいつがどうなってもいいのか!』
叔父の腕の中から見えた彼は今度こそ、人を殺すことに一切の迷いも持たない、冷たい意志を秘めた、しかし何も映していないような目をしていました。叔父の悲鳴にも似た叫びに彼は一切躊躇せず、一瞬で距離を詰め、手に持った剣を薙ぎ払うように振りました。どさっ、と重い音がして私は解放されました。彼がすぐに私を抱き寄せ、私は何も見えませんでした。
『さあ、帰ろう。お嬢様』
と言いました。そのときだけは普段と違う彼よりも、背後でびちゃびちゃと聞こえる水音の方がよほど恐ろしかったです。
その後は気を失ってしまい、覚えていませんがあなた方が詳しくご存じなのではないでしょうか」
「はい。森から出てきた血まみれの彼と抱えられたあなたを見つけた住民から報告を受けました。彼は声をかけた民間人に切りかかろうとして、間一髪私の仲間に取り押さえられました」
「……そうでしたか。そして私は病院に運ばれましたね。怪我の一つもありませんでしたが」
「それは肉体的な話です。あなたは傷を負っている。普通のものよりたちが悪い、特効薬などない傷です」
「あの人のことは毎日夢に見ます。幸せそうに笑っているんです。私を守ろうとしてくれただけ。ただ、何か少しだけ変わってしまっただけ。いつか戻ってくれると信じています。私ももっとしっかりしなければいけませんね」
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