10(夜明けの灰色になった世界の、風が強い日)
――そして、十年がたった。
あたしはキーボードを打つ手をとめて、大きくのびをした。背もたれに思い切りよりかかると、安物のオフィスチェアが抗議でもするみたいにぎしぎし音を立てる。
傍らに置いたあったコッペパンの包装紙を破いて、あたしはそれをかじった。ジャムとマーガリンとパンを咀嚼しながら、ノートパソコンの画面を確認する。誤字や脱字はもちろん、情報の間違いや文章の流れについても一通りチェックしていった。
とりあえず、問題はなさそうだった。注文が来れば、またあとで対応すればいい。あたしはメールソフトを開いて、ファイルを添付して送信した。
再び、大きく息をしながら、可能なかぎり背中をのばす。
現在、あたしはある出版社のライターとして活動している。といってもほとんど駆け出し同然で、たいしたことはしていない。名前なんて誰にも知られていない。仕事そのものも手探りな部分が半分以上で、効率的な時間の使い方も、適確な記事の書き方もできていないのが現状だ。日々、トライ&エラーの毎日である。
この仕事をしているのは、大学の先輩の伝手によるものだった。在学中に親しくしていたその先輩が、会社の仕事を紹介してくれたのだ。今は試用期間中として、アルバイトのような形で記事を書かせてもらっている状態だった。
ちなみに、今送ったのはある和菓子作家についての記事である。最近有名な賞をもらった女性で、元銀行員という変わった経歴を持っていた。あたしがインタビュアーとして選ばれたのは、比較的歳が近かったせいだろう。
あたしはパンを食べ終わると、ノートパソコンの電源を落として蓋を閉じた。適当に上着をはおると、習慣にしたがってマンションの部屋をあとにする。時刻は朝の七時。普通の人ならとっくに目覚めて、学校や会社に向かう時間のことだった。
もう秋も深まりつつあって、冬の足音さえ聞こえてきそうな毎日だった。夜明けのこの時間となれば、それはなおさらのことだ。あたしはマンションの外に出ると、道路の上で顔をしかめ、肩を軽くすぼめてから歩きだした。
まだ世界が半分眠っているみたいな中で、東の空には霞がかった太陽が弱々しく浮かんでいた。太陽も、この時間にはまだ調子が出ないらしい。ちょっと息を吹きかければ、簡単に消えてしまいそうでもある。
あたしは歩きながら、肺の空気を入れ替えるために何度か大きく息をした。
――この十年で、いくつか変わったことがある。
スナック「櫂」は閉店になった。めでたくもノリコさんが結婚したからだ。相手はIT関連会社の社長で、収入はもちろん、人柄もよさそうだった。ハンサムというほどじゃないけれど、愛嬌のある顔をしている。何故か、あたしも結婚式に呼ばれて実地にそれを見たから、間違いない。
ユウちゃんは、スナックの閉店とともに性適合手術を受けた。元々、そのための資金を稼ぐために働いていたのだ。ただし、その費用の大部分は退職金という名目でノリコさんが受けもっている。晴れて女性になったユウちゃんは、かなり難しい条件をクリアして婦警になった。「彼女」は今、とても幸せそうにしている。
吉野の父親は、アルコールが原因の暴行事件で逮捕されて、実刑判決を受けた。小さなニュースとしてテレビでも流れ、そこで「吉野
藤江洋品店は、相変わらずだった。店の空き具合も、父親ののほほんさかげんも。これは宇宙の法則に反しているような気がする。変化こそが、すべての物事の基本的なスタンスだからだ。この店とその店主は、平気でそれを破っている。どこかの学会に報告すべきなんじゃないかと、あたしは常々思っている。
あたし自身にも、もちろんいろいろな変化があった。十年のあいだに中学から大学まで卒業したのだから、何もないはずはない。
まず、あたしは吉野と別れたすぐあとに、陸上部に入った。顧問の執拗な誘いに屈した形だけど、あたし自身にもその理由はよくわからない。どこかに行くためには、できるだけ足の速いほうがいいと思ったのかもしれない。
とはいえ足が速いといっても、所詮は素人の話だ。それにあたしより才能があって努力もしている人間なんて、ごまんといる。中学の八百メートルで県大会二位というのが、あたしの最高成績だった。それでもまあ、ずいぶんがんばったほうだ。
高校では、人なみに彼氏を作ったりもした。恋のときめきというのを否定するつもりはないけれど、最初からうまくいかないことはわかっていた気がする。半年くらいたったところで、あたしたちは別れた。その時は、お互いにほっとしたと思う。なかなか、うまくいかないものだ。
それから、あたしの眼鏡はもう伊達じゃなくなった。視力が落ちて、本物のレンズを入れるはめになったからだ。見ためが変わっていないことに関しては、幸いだったというべきかもしれない。ただ、視力とはうらはらに、目つきの悪さに変化はない。
ほかにもいろいろなことがあったけど、特筆すべきことはない。宝くじが当たったり、どこかの王子様に見初められたりなんてことは、人生でそう起こることじゃない。
「――――」
あたしは大通りに出ると、たくさんの人の群れに混じって歩いていった。地元では、まずお目にかかることのない量の人間たちである。そうして歩いていると、いつも工場で大量に処理される部品か何かになったような気がして、あたしは少しだけおかしくなってしまう。
もう足音や人声を個別のものとして認識できない雑踏の中を、あたしはいつも通りにコーヒーショップに向かっていた。それが、徹夜明けの朝の習慣なのだ。これから眠ろうというときにコーヒーを飲むのも、どうかとは思うけれど。
スクランブル交差点の赤信号で、あたしは足をとめた。何百人だかいる人々も、やっぱり立ちどまる。まるで、何かの製品試験でも受けているみたいな気分だった。誰も、あえてルールを破って行きかう車に突入しようとしたりはしない。
やがて、信号が青になった。やる気のないスタート合図が鳴ったみたいに、人々が動きだす。もちろんあたしも、それについて行く。
道路を斜めに横切っていくその途中、たくさんの人とすれ違う。憂鬱そうな会社員や、スマホの操作に余念のない学生風、キャリーバックを運ぶ旅行者や、仲間と元気に談笑する若者たち。当然だけど、他人からすればあたしも何がしかの人間に見えることだろう。自分でそれを確認するすべはないけれど。
あたしは顔も名前もない人々と、ぶつからないようにすれ違っていく。いつもと変わりなく、いつもと同じように。
でも――
そのうちの一人とすれ違ったとき、あたしの足は思わずとまっていた。ぴたりと、瞬間接着剤でもくっつけられたみたいに。後ろからきた人とぶつかりそうになって、お互いに頭を下げる。それでもあたしは立ちどまったままで、元の道を振り返っていた。
人違いだろうか?
いや、違う。あれは確かに――
その時、信号が点滅して赤に変わろうとしていた。あたしはそのまま渡りきって、あらためて振り返ってみる。放流されたばかりの魚みたいに走りだす車の向こうに、その人影を認めることはできなかった。そうでなくとも、もう立ち去ってしまったあとだろう。
あたしは乱暴に景色をかき乱す車の向こうを、しばらく眺めていた。
――あれは確かに、吉野ゆきなだった(結婚でもして、名字はまた変わっているかもしれない)。
彼女はOL風の格好をして、相変わらずかすかに顔をうつむかせて歩いていた。長い髪も、基本的な顔の形も、控えめそうな態度も、何も変わっていない。彼女はやっぱり、美少女だった。
あたしはけっこう長いこと、そのままじっとしていた。過去の時間が現在まで追いつくのを、そうして待っていたのかもしれない。もちろん、それには十年もかからなかった。思い出というのは、なかなか便利なものなのだ。
横断歩道に人がたまってくる前に、あたしは歩きだした。いつものコーヒーショップに向かって。風が強く吹く、まだ灰色の世界の中を。
〝――ねえ、和佐ちゃん。わたしといっしょに死んでくれる?〟
あの時なんと答えるべきだったか、あたしにはやっぱりまだわかっていない。これからだって、たぶんわかりはしないだろう。
でもとにかく、あたしたちはあの場所を生きのびてきた。憂鬱で、退屈で、大嫌いで、救いなんてなくて、どうしようもないくらい残酷だった、あの場所を。
――そしてきっと、これからも生きていくだろう。
あたしは弱々しくくすんだ太陽に向かって、まっすぐ歩いていった。
ハード・ガール 安路 海途 @alones
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