家事、ラキスト、幼子
子供の頃から片時も忘れることなく抱いているこの感情は、「寂しい」ではないのだと思っていた。「寂しい」というのは、愛を注いでくれる家族の不在、あるいは時間を共有できる友人といった、本来近くに居てくれるはずの人間が居ないと言う意味での欠陥を抱えている人だけが使ってよい言葉なのだと思っていた。当たり前のように家族がいて、定期的に遊ぶ友人がいて、時折身体を重ねる人がいて、そういう私には使う権利のない言葉なのだと信じて疑わなかった。実際、人生の大半の時間は寂しさを感じなかった。そんな感情を抱くこと自体、烏滸がましいような気がしていた。
大学二年生の冬。深夜に突然相田が私の家を訪ねてきた。
「家、追い出されちゃった」
「は?」
事情を聴くと、二留が決まった途端、親に家賃の援助を打ち切られたらしい。相田の住んでいた家は、社会人のアキハがなんとか払えるくらいの額の家賃だった。当然ただの大学生にそのような額が払えるわけもなかった。相田は親が契約を切ったことを知らされていなかったらしい。大家からの勧告で事態を知り、退去日の三日前になって慌てて部屋を空にしたはいいものの、次の家を決めていなかった。結果、次の家を見つけるまでの繋ぎとして私の家が選ばれたようだった。私の家は、大学まで一本で行けるので交通の便が良かったのだろう。
相田はその日から図々しくも私の家に居座った。来た当初はすぐに追い出してやろうと思ったが、そうさせないための努力を相田は欠かさなかった。夜のお誘いを受けて出掛けて行くことはよくあったが、それ以外の時間、相田はとても甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。居座るなら何かしろ、と言ったわけではないのにいつの間にか家事は相田の担当になっていた。家賃は親が払っていたので、私は実質何もしていなかった。特に罪悪感は無かったが、あまりにスムーズに習慣を奪われて少し驚きはした。正直ワンルームの部屋に二人で暮らすのには少し無理があった。だが相田は薄いカーペットを敷いただけの床で分け与えたブランケットを被って寝ることに文句も言わなかった。他にも私が生活の中で不快感を覚えないように、相田は細心の注意を払っているようだった。そこまでして私の家に居座りたい理由が分からなかったが、余程お金に困っていたのだろう。お金を無心されるまでは家に置いておこうと決めたのは、相田が来て二週間が経った頃のことだった。相田は私が男に興味がないことを知っていたので、生活のパートナーとしてはとても最適で優秀な男だった。私がアキハの元へ出掛けて行く時も、「楽しんで~」くらいしか言わないのでとても心地良かった。お互いを尊重するというのはきっと私達のような関係性を指すのだろう。
こうして私の生活に侵入してきた相田は、徐々に私物を私の家に置いていくようになった。気付いた時には、私の洋服箪笥を一段占領し、洗面所に専用のコップが置かれ、食器は各種一つずつ増えていた。
相田はお酒が好きだったので、私は以前にも増して家で飲むようになった。最初のうちは相田とサシで飲むことに抵抗があったが、慣れてしまえば楽しいものだった。よく分からないこと、些細なことを議題に私と相田は飲み明かした。
ある時、寂しい時にどうやって気持ちを紛らわすか、という話になったことがあった。丁度私の実家から荷物が届いた日のことだった。いつも遊んでいる仲間の一人である垣本が以前ホームシックになったことを思い出した相田が持ち出した話題だった。相田は私にホームシックになったことがあるか、と訊いた。私は「無いね」と即答する。
私は「寂しい」という感情を、抱いてはいけないものだと思っていたので、そのようなことを言った。相田はそれを聴いてとても驚き、私に訊き返した。
「夜中に一人でいる時とか? 寂しくね?」
「それって普通のことでしょ」
「そうだけどさ。例えば、誰かと会いたいな~とか、少し悲観的に考えるなら一人で居たくないな~って思うとき、あるよね?」
「……それを寂しい、って言っていいの?」
「いいに決まってんじゃん」
完全に硬直して私は相田を凝視する。相田の言っていることを真に受けていいのか分からなかった。
その頃、アキハは立て続けの出張に追われていた。私と遊んでくれる日が極端に少なくなり、私は家に引きこもりがちだった。時間が出来たとはいえ、有り得ないほど彼氏と上手くいっている美奈とも会いたくなかった。美奈の前では自立したカッコイイ人間で居たかった。相田はその頃、見目麗しい男に言い寄られていて、そいつと遊びに出掛けていることが多かった。私の家に居候しているとはいえ、相田は野良猫に近かった。行くあてが無くなった時に帰ってくる場所、という認識だったのだろう。一週間帰ってこないこともままあった。
「寂しい」に似た感情を覚えた時、私は好んでアキハに会いに行った。私は一瞬の快楽で感情を誤魔化すことしか知らなかった。初めて見つけた方法に縋りついて、他の方法を探すことを怠っていた。
「寂しい時は泣いていいんだぜ」
その言葉で堰が切れて、私は幼い子供のように泣きじゃくった。何かがあったわけじゃない。ただ心の中に巣食う感情に戸惑い、どう扱っていいのか分からなかっただけだ。でもそこに相田がいた。感情の揺れに寄り添ってくれる相田という人間がそこにいて、私を肯定してくれた。
相田は私を引き寄せて足の間に置いた。その動作に性的な何かを感じるものは何もなく、そういう類の優しさが私には必要だった。相田の服や髪からはラッキーストライクの匂いがした。懐かしい匂いだった。身近な人が吸っていたわけでもないのに、ひどく懐かしさを感じていた。しばらくの間、そのままの態勢で相田は私をあやし続けた。少なからず信用できる他人が、相田が頭を撫でてくれている安心感から眠りについた。
目が覚めると、自分のベッドに相田と並んで寝ていた。私が寝ている間にベッドまで運んでくれたらしい。豆電球がぼんやりと灯る部屋で、隣に寝転がった相田は本を読んでいた。あれからずっと寝ていないようで、少し目元が細くなっていた。
「まだ六時だから寝てていいよ」
「起きちゃったからいい」
「そう」
相田は本を枕元に置いて、私の方に身体を寄せた。背中に温もりが触れて、湯たんぽみたいだった。
「土屋の話、聴かせてよ」
「え」
「土屋はどんな子供だった?」
私は考えた。私はどんな子供だったのだろう。
子供の頃の私はいつも一人だった。教室の隅で司書さんに勧められた本を読んで、教師に言われるがまま勉強をして、自分から何かをしたことがなかった。自発的に何かをすることが面倒だった。自分が何を好きで、何が嫌いかさえ分からなかった。
「私は、感情が分からない子供だったと思う」
「うん?」
「どんなことも自分とは関係のないことだと思ってたから、目の前のことに感想というか意見を持ったことが無くて」
「例えば?」
「春になると桜が咲くでしょ。でも桜が咲いても咲かなくても自分には関係ないから、ああ咲いてるなぁくらいにしか思えなくて。みんなが綺麗だね、って言っている意味が分からなかった。綺麗、が何を指しているのか分からなかったから」
相田が顎を私の頭の上に置いた。
「でも生まれて初めて好きな子が出来て、その子と仲良くなるうちに感情を、習得、って言ったら変かもしれないけど。自分の気持ちが初めてなんとなくだけど分かるようになって。……その子のことを綺麗な子だって思ったの」
今も目を閉じれば、初めて美奈と会った時のことを鮮やかに思い出せる。廊下の水道で物憂げな表情で雑巾を絞っている美奈は確かに綺麗だった。頬から耳にかけて窓から差し込む光が落ちていて、とても神々しいものを見ている気分だった。
「それに母親は仕事でいつも家に居なくて」
「うん」
「別にそれが普通で寂しいとか思ったことなかったんだけど。高二の時、病気になっちゃって。入退院を繰り返して、学校もあんまり行かなくなって、このまま死んでもいいかもって思ったよね。そもそも世界に未練なんてなかったし。でも、病気になって初めて親が私に関心を持ったの。いつも放っておかれたのに病気になった途端、いろんなことを心配してくるようになったんだよ。衝撃だった」
背後の相田が私を抱き抱えたまま髪を梳く。その手にいやらしさはなく、幼子をあやす動作に近かった。慈しむような、そんな手付きだった。幼い頃にしてほしかったことを相田は全て叶えてくれた。
「これまでのお母さんは私に興味がなくて、これまでは普通じゃなくて。初めてそう思った時から私は多分、寂しかったんだと思う」
改めて「寂しい」と口に出してしまうとその言葉はとても自然に私の中に浸透していった。私は寂しかったのだ。ずっと、ずっと前から。
相田は何も言わずに、私の傍に居てくれた。その優しさが私には必要だった。
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