子犬、ゴミ、下着

 布団とは違う温もりを感じて目が覚めると、隣にアキハがいた。私は少し考えて、ぼやけている記憶でなんとなく状況を理解した。バイト終わりに来たのか、大学終わりに来たのかは覚えていなかったが、大したことではない。相田のいない今、こうしてアキハに構ってもらえる事実と時間が何よりも大切で、幸せなことだった。アキハの背中に頭をくっつけて、腕はお腹に回す。素肌の触れ合う心地良さが例に漏れず私も好きだった。しばらくその体勢でいると、二度寝しそうだった私の代わりにアキハが目を覚ました。寝返りを打ってこちらを向く。眠たそうだった目がすっと細くなって、アキハは愉快そうに笑った。

「捨てられた子犬みたい」

 馬鹿にされていることは分かっていたけど、私はアキハの谷間に顔を埋めた。ご機嫌な様子のアキハは私の頭に軽く口づけをした。アキハの赤いインナーカラーの髪が私の視界を掠める。良い匂い、良い気持ち、良い朝。こんな素敵な朝は久しぶりだった。

「大学は?」

「今日は行かなくていい」

「じゃあもうちょっとだけ寝かせてあげる」

 アキハの少し冷たい手が私の髪を撫でる。アキハの手に梳かれた髪がはらりと素肌に落ちてくるのが心地よい。少しくすぐったいような、それでも揺り籠のような安心感がそこにはあった。アキハの心音をぼんやり聞いていると、アパートの外でゴミ収集車が稼働している音が混ざり始めた。ぺちゃんこに押し潰されて、今から燃やされる運命のゴミ。その中にはきっとアキハの生活の残骸もある。温い肌の上で惰眠を貪る私は、底知れぬ優越感を覚えて意識を手放した。

 次に目を覚ましたとき、もうアキハは部屋に居なかった。仕事に行ったのだろう。私は寝返りを打ち、薄いブランケットに包まって大きく伸びをする。爪先が何かを蹴った。もそもそと身体を回転させて、正体を探る。不自然な位置に置かれたツリーハンガーには、昨夜アキハが剥ぎ取った私の下着が掛けてあった。枝の先端の丸みに股下の布が来るよう、うまい具合に飾り付けてあった。それを回収している己の頬がだらしなく緩むのが分かった。こういう悪戯をするアキハが私は大好きだった。

 私は装飾品を奪った後、クローゼットの中から服を適当に拝借して身に纏い、のんびりと部屋を出た。大学はないが、夕方からバイトがあった。私は以前からアキハの家の鍵を持っているので、自由に出入りしていた。鍵を弄びながら自分の家を出るような心地で外付けの錆びた階段を降りる。今日は機嫌が良かったので、踊り場で余計な回転をしてみる。風が私の髪を揺らす。東京の六月はもう蒸し暑い。蝉の声こそまだ聞こえないものの、体感としては夏と言って差し支えないだろう。中に着ているキャミソールの透けるシアーシャツを選んで正解だった。

 私がアキハの服を勝手に着るようになってから、アキハは私に着せたい服をわざと買い、クローゼットに置いておくようになった。アキハが好んで着る重めの生地で出来たシンプルな服ではなく、王道の可愛い系や地雷系のような服をアキハは私に宛がった。巷で流行っている服が欲しかったらお店に買いに行くより、アキハの家のクローゼットを漁る方が確実な程だった。アキハは私を着せ替え人形のように扱い、楽しんでいた。私はそれを分かった上で、面白がって彼女の選んだ服を着た。アキハの悪戯はお茶目なのだ。出先で自撮りを撮って送ると尚のことアキハは喜ぶことを知ってからは、写真を送って見せるところまでがこの悪戯の作法になった。

 アキハの家から最寄り駅までの道を上機嫌で歩く。近所のパン屋で昼食を買い、電車に乗り込む。途中で後から来る快速の電車に乗り換え、私は最短時間でバイト先の喫茶店に向かった。

 私のバイト先の喫茶店は、所謂夜の街に程よく近い場所にあり、訪れる客もその街を目当てに来ている人ばかりだった。奈良坂も喫茶店でバイトをしているが、ナンパされても店長や先輩スタッフが割って入り、必ず断るという決まりらしい。なんとなく奈良坂にはナンパされて付いて行くことがままあるとは言いたくなかった。奈良坂もどちらかといえば私よりの人間だが、どうしてか私のそういった面を知られたくなかった。アキハの存在は相田が仲間達にバラしていたので、それが出会いだと渋々話したらとても驚かれた。それを聞いてしまっては、店長も黙認どころか容認しているなどとは当然言えなかった。他のバイトもナンパされてこそ、といった空気感で働いていた。どうやら私の感覚はとうに麻痺していたらしい。奈良坂に死ぬほど心配されたが、時給が良いので辞めようとは思えなかった。

 時間と引き換えにお金を得る、という行為は生きるために必要な行為である。しかし私は、有限の時間を安く買い叩かれるのはどうにも我慢ならなかった。世の中に私ではければならないことは殆どない、と言っていい。私がいなくとも私ではない誰か、つまり私の代替品がいれば世界は回る。あの喫茶店だって、私がシフトに入れなければ誰かが代わりを務めるし、もし辞めたなら違う人を雇うだろう。人間は変形出来るパーツのようなもので、求められる形に成れる人を必要な箇所に埋め込んで世界を回している。求められる形は様々だが、自分にしか出来ない形というものは存在しない。求められている時点で、必要な条件が出揃っているのだからやはり替えが効く。そう思ったら、私は私でなければならない人の為に生きていたかった。アキハが私と過ごす時間だけは少なくとも、私ではければならない時間だった。だからアキハと出会ってからは、アキハと一緒に居られる時間を削ってまでお金を得たいとは思えなかった。お金は大事だが、目的もなしに余分にあっても仕方がない。明後日くらいまで生きていけるだけのお金があれば焦ることはないのだから。喫茶店のバイトは日払いだったので、その点も都合が良かった。

 十六時から二十一時までのシフトで、私は三度ナンパをされ、全てを断った。店長には珍しいね、と言われた。今日はアキハと遊んでいたので、そういう気分にはなれなかったのだ。アキハに操を立てるつもりはさらさら無かったが、私はアキハとの行為が好きだった。私は余韻を引き摺っていた。

 アキハの家に帰ろうとして電車に乗ると、急な出張が入ったと連絡が入り、私は家に戻ることにした。アキハが帰ってこないと分かっている日にアキハの部屋で一人過ごすのは寂しくて、耐えられそうになかった。

 三日ぶりに家に帰ると、誰もいなかった。相田が免許合宿に行ったことをすっかり忘れていた。私は時々相田のことを考えていた。

 あの相田が免許を取ろうとするなんて、一体どんな心境の変化だろう。今日一日が楽しければいい、という刹那主義の権化みたいな人間が免許など取って、どうするつもりなのか。私はそればかりを考えていた。

 

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