新宿、メリット、黒板

 家事をしてくれる相田がいなくなってしまったので、私はその間自力で生活をしなくてはならなかった。一人暮らしをしていたので家事全般は人並みには出来るが、相田の完璧さを知ってしまうと自力でする気にはなれなかった。

 ご飯を作る気力が起きず、大学の無い日は一日中布団の中で過ごした。ご飯は一日一食が基本で、空腹もあまり感じなかった。明日にはアキハが出張から帰ってくるのでそれまでの辛抱だった。

 そろそろ寝ようかと思い、歯磨きをしていた時だった。電話が鳴った。LINE電話ではなく、通常の電話が鳴ることはかなり珍しかった。確認のためスマートフォンを手に取ると、美奈からだった。旦那が飲み会に行くので夕飯を一緒に食べないか、という誘いだった。時計を見ると時刻は朝の十時で、私はそのとき漸く自分が昼夜逆転生活をしていたことに気が付いた。大学にはしばらく行っていなかった。後で奈良坂にレポートを横流ししてもらおうとぼんやり思った。私は昔から美奈の誘いを断れなかった。快く、といった調子で誘いを承諾した。

 八時間後、私は新宿にいた。美奈が旦那と暮らしている家から一番行きやすい繁華街が新宿だった。私は二回乗り換えをしたが、それはいつものことだった。美奈と会うのは六月の結婚式以来初めてだったので、私は少し緊張していた。非常に腹立たしいことではあったが、新婚の美奈を遊びに誘ってもいいのか図りかねていた。

 一ヶ月振りの美奈は相変わらず可愛かった。結婚という儀式を経たとはいえ、外見や性格に何か明確な変化が生じるわけでもなく、私の知っている美奈がいてなんだか少し嬉しくなった。結婚すると会話の内容が旦那の話ばかりになるとよく言うが、少なくとも美奈はそうではなかった。気を遣わせていたのかもしれないが、その気遣いですら刺さるものがあった。これまで私と話してきたことの延長線にあることが節々に感じられて、珍しく私は上機嫌になった。

 食事中はお互い近況報告をした。私はまだ大学三年生だが、美奈は社会人になっていたので就活の話も聴いた。卒業と同時に結婚した美奈とまだ大学生をしている私が同じ二十二歳というのはどうにも違和感があり、むず痒い気持ちになった。結婚した、していないよりも明確な違いがあるような気がしてならなかった。私達は中高の同級生でもあったので、かつての同級生の噂話に花を咲かせたりした。時間はあっという間に過ぎ、旦那の許可が下りているということで私達は居酒屋に繰り出した。

 口コミサイトで高評価の店で食事を済ませ、それから居酒屋に移動する。大学生の頃から変わらない、お決まりの流れをまた出来るとは思っていなかったので気分が弾んだ。

 食事中は近況報告、居酒屋では少し言いにくい話。この区別もまだ生きていた。

「旦那さんとはどうなの?」

「ん~? 楽しくやってるよー」

 まだ二杯目だったが、美奈の目は少し赤くなっていた。

「それならいいんだけどさ」

「桜は? 良い人いないのー?」

「いないね。恋人、出来たことないし」

 これは事実だった。私はこれまで一度も誰かと付き合うという行為をしたことがなかった。残念なことに私はまだ美奈に恋をしていた。

「結婚って窮屈なのかなって思ってたんだけど、意外といいものだよ」

「そうなの?」

 私はハイボールを流し込む。さっさと酔いが欲しかった。

「家に帰ったら人がいるし、家事も全部ひとりでやらなくてもいいし。あと一番は寂しくないよ」

 それを聴いた私は当然のように相田を思い浮かべた。結婚をして得られるのがそれだけだというなら、どうもメリットが少ないような気がした。

「私はまだ学生だからなぁ。結婚ってこう、まだ縁遠いというか」

お決まりの言葉で濁して、美奈にもう一杯勧めた。まだ美奈が飲めることは分かっていたので、思考を奪ってしまいたかった。その純粋さが私を抉ることに耐えられるうちに対処しておくべきだと思ったのだ。上機嫌だったはずなのに今は虚しさしか感じなかった。いつもこうなると分かっているのに、誘われるとのこのこ待ち合わせ場所に行ってしまう愚かな自分を恥じた。

美奈の許容量は私の方が本人よりも遥かに詳しかった。辛うじて理性の残る限界量を飲ませて、私は素面のままもう一杯飲む。何杯飲んでも微塵も酔えなかった。美奈の前ではいつもそうだった。喫煙可の居酒屋だったのでテーブルには灰皿があったが、美奈は私が喫煙者であることを知らない。私の周りには喫煙者が多いので忘れそうになるが、世間の目は喫煙者に厳しい。美奈は世間に属する人間で、そんな彼女には知られたくなかった。もしも私が他人に「貴方の知らない私も愛してください」と言える度胸があれば、もう少しマシな生き方が出来たのだろうか。

トイレから戻ってくると、美奈は電話をしていた。相手は旦那のようで、今から帰ると楽しそうに言っているのが聞こえた。もうお開きらしい。上機嫌な美奈は駅までの道で私と手を繋ぎたがった。酔っ払いのお戯れと思っても内心激しく動揺している自分が恨めしい。理性をなんとか保って美奈を改札まで送り届けると、偶然そこで美奈の旦那に遭遇した。そちらの飲み会も新宿だったらしい。ベロベロな美奈を見て、改札まで送ってくれたことにお礼を言われた。別に美奈の旦那の為にしたわけではないので謙遜抜きで彼に礼を言われても、何とも思えなかった。綺麗な黒板にもう一度黒板消しを掛けることほど無意味なことはない。二人が改札の奥に消えて行くのを見届けてから、近くのコンビニでロング缶を買った。歩きながら勢いよく酒を流し込む。

もう十年も思いを引き摺っている自分が惨めで馬鹿らしくなった。


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