ほうれん草、オムライス、免許
目が覚めると布団の中にいた。昨日の記憶はお風呂に入る直前までで、いつどうやってお風呂から上がってベッドまで辿り着いたのか覚えていなかった。足裏の傷が少しだけ痛かった。背後から伸びている腕は相田のもので、私の腹部を抱え込んでいた。身動きが取れないほど腕に力が入っている。
遠くに子供たちの笑い声が聞こえる。近所の小学校が校庭で体育の授業をやっているのだろう。静寂の室内で着た覚えのないスウェットと布団の擦れる音が響く。暫くの間どうやって抜け出そうか考えていると、タイミング良く相田が腕をするりと抜いてベッドを出て行った。どうやら朝ご飯を作ってくれるらしい。
私は二度寝を決め込み、遠くに聞こえる生活音の中で微睡んだ。地中の巣に戻る栗鼠のように洗濯したばかりの布団に潜り込む。全身を優しい匂いが包み、太陽の匂いがする。なんてベタなことを思った。少し熱くなったので頭の頂点と耳だけを外に出す。出来るだけ身体を布団の中に留めておきたかった。耳だけを外に出したので、音がより聞こえるようになった。相田の姿は見えないが物音はよく聞こえた。
私は以前から、相田が料理をしている音が好きだった。誰かが料理をしている音は大抵好きだが、とりわけ相田が料理をするときの音が好きだった。まな板と包丁の小気味良い音が聞こえてきて、私は驚く程安堵した。料理をしている人に安心感を覚える、というのは、信頼している人がそこで生きている気配に安心している、と言い換えてもいいかもしれない。
これまでの人生で私は一度たりとも両親が料理をしている姿を見たことがなかった。普段の食事は大抵デリバリーやレトルト食品がメインだった。両親がしていたのは精々、湯を沸かす、米を炊く、パスタを茹でる、といったくらいだった。だが、私はそのことに特段不満もなかった。売られている食べ物は殆どの場合、味が保証されている。両親は共働きで、出張も多かった。食べ物の心配をして、お金を置いていくだけ良心があったと思っている。
私が記憶に残っている中で初めて他人の作った料理を食べたのは、高校一年生の、丁度入院生活の始まる少し前のことだった。夏休みに一緒に勉強をしようという名目で美奈の家に招待されたのだ。その晩私は美奈と美奈の母親の作ってくれたオムライスを食べた。思わず口をついて出た「美味しい」という言葉は本心そのものだった。この「美味しい」は、生まれて初めて正しい意味で使った瞬間でもあった。売られている食べ物は消費者の為に作られたものであって、私の為に作られたわけではない。しかしこのオムライスは正真正銘、私の為に美奈と美奈の母親が作ってくれたものだった。それが何よりも私の心を打った。私が自分の両親に違和感を持ち始めたのはその頃だった。
相田がコンロを点火させる。私は目を閉じたまま、相田の動作を想像した。
ボォっと音がして点火した青い炎の上に昨日の味噌汁が入った鍋を置く。まな板で切っていたのは何だろう。その後、卵にヒビを入れて三個分お椀に割り入れ、菜箸でかき混ぜる。相田は思い出したように冷蔵庫を開け、白だしのボトルからお椀に目分量で注ぎ込む。相田は目分量のような感覚や体感ですることの匙加減が上手く、目分量の割に味はいつも一定だった。私はあの絶妙な味を思い出して少しだけ空腹を覚えた。相田は人の胃袋を掴むのも上手かった。出し巻き卵は私も相田も好きなメニューの一つだった。食の細い我々にとって、朝はそれくらいが丁度良かったのだ。四角いフライパンに溶き卵を落とすと、じゅーっと焼ける音が鳴る。それが三回繰り返されたところで、相田は火を止めた。どうやら完成したらしい。
そろそろ起こされるだろうか、と少しドキドキしていると、仕上げに相田は珈琲豆を挽き始めた。刃物が豆を削っていく音と匂いが同時に部屋に充満する。私はあまり珈琲が得意ではなかったが、相田の淹れてくれる珈琲は好きだった。いつの間にか沸かしていたらしいお湯をゆっくり注ぎ入れ、少しずつ落下していく雫の音がした。水滴の音に集中しているといつの間にか意識が遠くなっていた。次に目を覚ました時には、少し酸っぱい匂いのする珈琲が私の寝ている部屋に持ち込まれていた。体感では数時間寝てしまったような気がしたが、実際のところは十分程度らしい。珈琲以外にも朝ご飯がテーブルの上に並べられていた。
「土屋~、起きてんのは知ってるから早くこっち来い」
私は素直に布団を出て、テーブルを囲む椅子に腰掛けた。出来たてほやほやのご飯からは美味しそうな湯気が立ち込めている。
「いただきます」
音を聴きながら予想していた通り、今日の朝ご飯は白米とみそ汁、それからほうれん草入りのだし巻き卵だった。包丁はほうれん草を切る時に使ったようだ。私と相田はしばらくの間、無言でご飯を食べた。私が眠かったということもあって、会話は最小限だった。出し巻き卵は八等分されていて、三切れを私が、残り五切れを相田が食べた。食が細いといえど、相田は私よりは食べる量が多かった。
「そういや俺、明日から免許合宿行くから」
「は?」
相田はよく冗談を言うが、今日のこれは本気のようだった。味噌汁の大根は少し辛かった。
「車、運転してみたくなってさ」
「なんで?」
「どっか行くときにあると便利でしょ。免許取れたら土屋乗せて旅行にでも行こうかな」
「まあもうすぐ二十四歳にもなる奴が免許も持ってないなんてカッコ悪いもんね」
「辛辣すぎだろ」
相田はだし巻き卵の最後の一切れを頬張った。私はとうに食べ終えていたので、相田の淹れてくれた美味しい珈琲を啜っていた。
「そういう土屋も持ってないくせに」
「私はいいんだよ。旅行なんて行かないし、東京に住んでる分には免許必要ないし」
「えー今度旅行しようぜ。意外と楽しいもんだよ、旅行って」
「いい。疲れるから」
私の釣れない態度に相田は逆に喜んだ。
「俺が免許取ったら旅行連れて行くわ。そんで疲れて寝てろ」
「何それ」
相田は人に何かを教える、とか人の役に立つようなことをするのが好きらしかった。恋人でもない私の世話をせっせと焼いてくれるのもこの性分のおかげかもしれない。とはいえ相田は我が家に居候している身なので、正当な奉仕活動でもあった。怠惰な私の代わりに家事をこなしてくれるのはどんな背景であれ、かなり有難かったことに違いはなかった。
「まあ楽しみにしててよ」
相田はそう言って、席を立った。翌日大学から戻ると、相田の姿はもうなかった。相田の為に空けていた箪笥の引き出しから上下三着ずつ無くなっていた。東京は梅雨が明けたばかりで大学もまだ夏休みでもなんでもなかった。二週間も大学をサボることに反対しておくべきだったと、いなくなってから思ったりした。
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