第2話

 黛に教えてもらったところの計算をやり直す。


 直した部分の答え合わせをしようとした時、近くの本棚の上段の本を取ろうとする黛の姿が視界の隅に写った。


 高い棚の本を取るための踏み台は図書室にいくつか置いてあるからそれを使えば問題ない。


 しかし、黛はぎりぎりそれを使わなくても届くと思ったのか、つま先立ちになって産まれたばかりの小鹿のようになりながら手を伸ばしている。


 届かないとわかれば、踏み台を取りにいくだろう。ほっておけばいい。


 それよりも自分の勉強を早く済ませて、夜見さんとの尊い時間を確保しなければならない。


 気を取り直してもう一度解答に目をやろうとしたのだが、どうにも視界の隅の黛が気になる。さっきまでは産まれたての小鹿のようにしていたのに、今はジャンプして本を取ろうとしている。


 あいつは何をやってんだ。


 図書室でジャンプをすれば着地の音が響いて図書委員か司書の先生に注意されるはずだ。


 でも、不思議なことに着地の音は響いてない。


 黛が華奢だからか、それとも特別な訓練でも受けているのだろうか。


 ただ、俺にとっては音のことなど問題ではなく、視界の隅でちょこまかとされる方が気が散ってしょうがない。


「黛さん、取りたい本があるなら俺が代わりに取ろうか」


 舌打ちしたい気持ちを腹の中に押し込んで、なるべく自然な感じで話しかけた。

 なんて大人で紳士な対応だ。


「あっ、やっと来てくれた」


「やっと来てくれたって、どういうこと?」


「さっきから天王寺谷君にこっちに来てって合図をしていたのに全然気づいてくれなかったから」


 合図とは何のことだろう。俺と黛はそんな秘密の合図を共有する間柄じゃない。


「もしかして、さっきから黛さんがジャンプしていたのが合図だったの?」


「そうだよ。あんなに目立つように合図しているのに全然気づいてくれないから疲れちゃったよ」


 だろうな。俺だったら肩で息をするレベルの運動量だ。


「あんな派手にジャンプしなくても普通に話しかけてくれればよかったのに」


「だって、図書室ではできるだけ静かにした方がいいでしょ」


 黛は人差し指を口元に当てて静かにというジェスチャーをしながら顔を近づけて来た。


 近い、近い。


 どうも黛はパーソナルスペースが狭い気がする。


 黛のくりっとした瞳と幼さの残る整った顔、距離が縮まったせいで香ってくる彼女の香りは童貞をドキリとさせるには十分な威力を持っている。


 それから、そんな澄んだ瞳でこっちを見ながら話さないで欲しい。そういう目で見られると俺の方が間違っている気がしてくる。


「そ、それで、どの本を取りたい?」


 黛が指を差した先にあったのは文豪たちの交友関係について書かれた本だった。


 黛より背が高いとはいえ、決して長身ではない俺は背伸びをしてなんとか指定された本を取ることができた。


「はい、この本でいい?」


「うんうん、この本。ほら、文学史って、作家と作品名だけを箇条書きみたいにして覚えようとすると難しいでしょ。だから何か興味を持てるようにした方がいいと思ってね」


 黛がどんな本を読むかなんてことはどうでもいいのだが、どういう勉強をしているのかということはちょっと気になる。


「たしかに作者と作品名やどの派閥にいたとかだけを覚えるのは面倒だな」


「でしょ。でも、例えば太宰治は芥川龍之介のことが好きすぎて、高校生の時に芥川と同じポーズの写真を撮っていて。芥川が自殺した時に新聞では太宰も後を追うんじゃないかって心配されていた。その太宰は芥川賞が欲しくて師と仰ぐ佐藤春夫に芥川賞をくれるように懇願の手紙を出していて。その佐藤春夫と谷崎潤一郎は恋愛スキャンダルがあった。谷崎潤一郎の師匠が永井荷風で、そのさらに師匠が森鴎外。鴎外と親交のあったのが幸田露伴。彼と一時代を築いたのが尾崎紅葉で、その一門にいたのが田山花袋。彼の親友が国木田独歩で国木田は二葉亭四迷から影響を受けている。二葉亭四迷と親交があったのが夏目漱石で、漱石を尊敬していたのが芥川龍之介っていうようなことがわかるとちょっと興味が出てくるでしょ」


 もう、その本読まなくてもいいんじゃないか。


 目をきらきらさせながら話す黛には申し訳ないが俺はどうも純文学はよくわからない。


 唯一、俺が自分から読みたいと思ったのは田山花袋の「蒲団」くらいだということはここに秘めておく。


「う、うん」


 黛の圧力に押されてしまい思わず曖昧な返事をしたその時、ふと自分が本を抜き取った場所が目に入った。


 背伸びをしながら本を取ったからその横の本も一緒に引いてしまい今にも落ちそうになっている。


 このままこの本が落ちれば間違いなく黛の頭に直撃してしまう。


 この危機的状況を放置して黛が痛い目を見ればいいと思うほど俺は悪人じゃない。だいたい、本が落ちるきっかけを作ったのは俺だ。


 どうすればいいのか考えた結果はこれだ。


「あっ、あの、天王寺谷君……」

「動かないで黛さん、こうするしか方法がないから」


 俺が選んだ方法は壁ドン。


 落ちそうになっている本はハードカバーの本だけど、百科事典ほど大きくはない。壁ドンをすれば、落ちた本は黛ではなく俺に当たる。あのサイズの本が当たれば多少痛いとは思うが重大なケガになることはないはずだ。


「こ、こうするしかないって、どういうこと?」


「今は時間が無いからあとで説明する」


「時間が無い!? え、えっと、私、天王寺谷君とはまだあまり話したこともないし……」


「気にしないですぐ終わるから」


「す、すぐ終わるって。そんな私……」


 黛は目を瞑ったままの姿勢でいる。下手に動かれるよりもそのままの姿勢でいてくれた方がいい。


 それにしても、落ちかけていた本は一向に落ちてこない。


 どういうことだ。これだと俺が壁ドンをして黛に迫っているみたいじゃないか。


 本の状態を確認しようと顔を上げた瞬間に飛び込んできたのは、その身を重力に任せて自由落下をしてくる本の背表紙だった。


 ※


 こういうところが主役と脇役との大きな差だ。


 主役のような人物であれば、ここでかっこよく黛のことを助けて、彼女の好感度が上がるのだろう。


 もしかしたら、そこからラブストーリーが始まったりするのかもしれない。


 しかし、脇役の俺が無理矢理舞台の中央に進もうとしてもこんな風に滑稽な姿をさらすだけなのだ。


― ― ― ― ― ― ― ―

 全部で5話くらいを予定しているのでまだ続きます。次回は天王寺谷君の妹登場です。

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