ハイレグこそが支柱 5/15

 最悪の気分と最高の気分を同時に味わっている僕は、頭がおかしくなりそうだった。


 おそらく、これを他人に聞かせたら、安易に羨ましいとは言わないはず。


 ご飯が食べ終わるまで、じっと我慢していた僕の頭部は、水を掛けられたようにびしょ濡れだった。

 アノンさんはご飯を食べ終えると、今度は箸で何かを摘まんで、それを僕の股間にグイグイと押し込んでくる。


「ん~……」

「今度は何?」

「ピエンがご飯食べない」


 ご飯って、どういうのだろう。

 蛇のご飯ってなに?


 小さな物体が股間の先っぽに当たっているが、感触では何が当てられているのかサッパリだ。


「前にもあったでしょ。それか、死んでるとか」

「え~っ。でも、動いてるよ。ほら。ピクピクしてる」


 だって、力んでるもん。

 股間に力が入るもん。


 顔面のすぐそばには、マムシがじ~っとしていて、動く気配がない。

 けれど、ビジュアルが強烈なこの生き物は、見てるだけで冷や汗が止まらない。


「いいから、お風呂入ってきて。後から入るの嫌でしょ」

「は~い」


 カンナさんのおかげで、アノンさんが諦めてくれた。

 襖を閉じる際、「ここに置いておくからね」と、僕の股間の前に何かを置いていった様子。


「溜め込まないで、たまには皿洗えば?」

「代わってくれてもいいよ」

「いやで~す」


 とてとて歩く音が聞こえ、ガチャっと開く音が聞こえる。

 残ったカンナさんらしき人の気配は、ため息をこぼして、先に出て行った気配に続いていった。


 ここだ。

 ここしかない。


 僕は意を決し、ショートパンツを片手に、ゆっくりと襖を開けた。


「あー、ダル……」


 カンナさんは、こっちに背中を向けている。

 つま先で片方の足を掻き、ダルそうに皿を洗っていた。


 そっと押し入れから出て、横に移動する。

 出て行くなら、この部屋の窓しかない。


 そう思い、視線をカンナさんに向けた状態で、窓に近づいていく。


「……っ」


 何かを踏んづけ、声が出そうになった。

 足を退けると、それはだった。

 バッテン印で、趣味の悪いネックレスといえば、リョウマが言っていた求愛アイテムだ。


 他には足元にスタンガンやナイフが転がっていて、危うく刃物を踏みつける所であった。


 何かに使えるかもしれない。

 そう思った僕は、念のためネックレスを拾い上げ、今度こそ窓に向かう。


 音を立てないよう、慎重に窓の鍵を外し、静かに開く。


「姉ちゃん! タオル持ってきて!」


 視界が震えた。

 首筋が痺れた。


 言葉にできない極度の緊張が一気に押し寄せた僕の耳には、「めんどくせぇな」という声。


 確実に近づいてきていたカンナさんに対し、僕は素早く窓を開け、ハイレグのパンツを1枚手に取り、すぐに外へ出た。


「ん、なんだ」


 窓の外に出たはいいが、ショートパンツが引っかかっていた。

 イヤホンの線でも引っかけたか。

 この際、壊してもいいので、無理に引っ張る。


「……あ? おい!」


 ショートパンツで顔を隠し、僕は全力で走った。

 窓から出た先は塀で囲まれている。

 建物の死角に消えるべく、ケンイチ達がいる方とは別に、玄関の方へ向かった。


「待てよ!」


 怒鳴られたって止まらない。

 追ってくる音は聞こえるが、僕は玄関の前を走り抜け、すぐに畦道に入った。


 ショートパンツを頭に被り、スマホを片手に、全力疾走である。


 ハイレグパンツは口に咥え、ネックレスもついでに押し込み、涎を垂らしながら駆け抜けていった。


 この時の僕は、今までの自分が信じられないくらいに、強靭だったと自負する。小石を足の裏で踏みつけようが、息が切れて呼吸が苦しかろうが、足には力が入りっぱなしで、頭も冴えていた。


 真っ直ぐに逃げれば捕まる。

 ならば、畦道の四角い枠を横に走ったり、縦に走ったり、ジグザグに走り、ひたすら前へ進む。


「…………ぇぇ……っ!」


 声が遠のき、少しだけ振り返る。

 カンナさんの姿は小さくなっていた。

 畦道の途中で怒鳴っており、それ以上追ってくる気配はない。


「はぁっ、はぁっ、……はは!」


 勝利を確信した。

 笑みがこぼれ、僕はハイレグパンツをもぐもぐと咀嚼そしゃくする。


 たぶん、冷静になれば死にたくなるだろうけど。

 この時の僕は、間違いなく変態だった。


 頭の中では、ぼんやりと架空の他人に「この変態」と罵倒される様子が浮かび上がっている。


 しかし、僕からすれば、一線を踏み越える勇気のない人間こそが、この世で最も落ちぶれているのだ。


「じゅるっ、へぁっ、へぁぁっ! 僕はぁぁ、勝ったんだぁぁぁっ!」


 空に向かって、拳を突き上げる。

 ハイレグだけが、僕の心を支えていた。

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