第2部「フーバー」
第1話
私は一度死んだ。
この世から文字通り居なくなった。
黒衣の女は荒れ寺の境内に一人佇んでいた。
つば広の帽子に上着、丈の長い民族衣装チックな長衣に至るまで、全て黒で統一されている。その姿は生を得た影。
そんな黒衣の女は目の前に浮かぶ、朧げで不定形の浮遊物を、翡翠色の双眸で睨んだ。
四角とも楕円とも言えないし、丸にも見えてしまう。
そんな枠の内側にある隙間は、空間そのものから色を外したように真っ黒で、向こうを窺い見る事ができない。
<窓>
かつて開かれた次元の裂け目であり、異空間である向こう側へ通じる抜け道。
この世にあってはならない存在。
黒衣の女は片方の手をそっと前に出す。すると、細くしなやかな腕に、何処からともなく流れてきた黒い霧がまとわりつき、異形の大腕を作り出した。
私は一度死んだ。この<窓>を通ってしまい、向こう側に連れて行かれた。
黒衣の女は大腕を渾身の力で振り下ろす。開かれた異形の手が<窓>を掴んだ。
バチリ。
<窓>の周囲に幾重もの白い亀裂が走る。
「こんなモノあってはならない」
異形の手に力を込める。彼女の手の内で<窓>はくしゃくしゃに歪み、気味の悪い隙間風を撒き散らしながら、壊れていく。
パチリ。
<窓>が粉々に砕けた。黒衣の女が腕を引っ張ると、砕けた<窓>の破片に黒い霧がまとわりつき、瞬く間に呑み込んでいく。
茫っ。
女が腕を引き上げると同時に、腕を象っていた霧は<窓>もろとも四散した。
<窓>があった位置には、これといった痕跡は見られない。すっかり他と変わりない空間となっていた。
黒衣の女は酷く憂鬱な顔で掌を出す。空中に漂う黒い霧雲がたちまち彼女の掌に吸い込まれ、体内へと戻っていく。その一連の光景を見る女の表情は、ますます陰鬱なものとなっていった。
私は生き返った……化物となって。
異空間から帰還した女性、レイス・モランは無人の荒れ寺で一人、暗い影をまとって思い悩むのであった。
………
同時刻
バーレルセル 28番街区・中央通り交差点
「引っ込めぇ警察!」
「権力の犬ぅ」
大通りの交差点から次のブロックまでの道を埋め尽くす大群衆。
彼らは「格差是正」「斗争上等」「週休五日」「焼肉定食」などの恐ろしい単語を記した
そんな彼らと対面するように交差点の反対側では、バーレルセル市の警察機構、通称「都市警」の武装警備隊が展開、長方形の盾で投石から身を守りつつ、防御陣形を作る。
「引っ込め、武警隊!」
「市議会解体!!」
喧喧諤諤……。
押し寄せる怒りの塊に、武警隊の隊員達は膨れ上がる感情を抑えて訓練通り防御態勢を維持する。
そこに孤を描いて一本の瓶が飛んできた。
それを最初に認めた隊員は目をむき、思わず叫ぶ。
「火炎瓶!?」
隊員が盾を持ち上げようとするが一足遅く、彼の顔面を覆うバイザー付きヘルメットに、火のついた瓶が落下、命中。
ガラスが割れ、漏れ出た液体に引火。瞬く間に液体を被った隊員の上半身が炎に包まれた。
地面をのたうち回る隊員。彼を中心に隊列に隙間ができてしまう。
後方に控えていた消火班員が火を消し始めた。しかし、彼が火を消している間にも、火炎瓶が次々と投げ込まれてくる。
侃侃諤諤……。
武警隊の中でも混乱が広がっていく。
「後退しつつ、放水車を前に。絶対に投擲距離へ近づけさせるな!」
移動指揮車の見張り台に立つ指揮官は、待機中の放水車を隊列前に出しながら、群衆へ放水攻撃を命じる。
そんな中、通信が入ってきた。
〈上空より警戒中のホッパー4号より移動指揮車へ。市内各所で抗議活動中の市民が移動し、22番街区ソメヤ公園へ集結中。その数……約八百。
発信主は市内上空で監視任務に就いている、都市警の多目的空中輸送艇『カプター』だ。
丸みのある胴体に、蜜蜂の腹部にも似た輸送カーゴを備えた、反重力式の浮遊機械。
デッキジャケットの青年は頭上を通り過ぎていくカプターを、胡乱な目つきで見送った。
彼が居るのは武警隊のすぐ後ろ。警察とはまた違う防護具に身を固めた武装集団が陣取っていた。
スプライト・セキュリティ社
都市の治安維持機構組織である保安局から、警察業務の一部を委託されたPMCだ。
「お盛んだねえ」
スプライト社の青年傭兵は、精悍を通り越した凶相に皮肉な笑みを作ると、大型バンの後部に乗り込んだ。
車内には、大型モニタにラップトップ型の電子端末などが雑然と置かれ、その隙間に挟まるような格好で、一人の男が画面と睨めっこをしていた。
「差し入れだぞ、旦那」
青年は男の前に紙袋を置くと、男の隣席にどかっと腰を下ろした。
「遅かったじゃないか、ラーキン」
男はヘッドセットを外して言う。浅黒く厚みのある顔には深いシワが幾重にも刻まれ、口元は豊かな灰色の髭に覆われていた。
「この辺りの店は何処も閉まっていてさ。遠出したんだ」
ラーキンと呼ばれたデッキジャケットの青年は、悪びれる風もなくサラッと答える。
「ンな事よりさっきの通信聞いたか、ファズの旦那。他所もヤバいって」
「ああ、アレは気にするな」
水を向けられたファズは、紙袋の中身を確認しながら答える。
「陽動だ。他所で派手な動きを見せ、こちらの戦力を割かせるのが狙いだろう。今は下手に動かず、暴徒の数が一番多いここを牽制するのが賢明だ」
同時に武警隊の無線から聞こえてきた。武警隊の指揮官は、他所からの増援要請を戦力分散の危険を理由に断っていた。ファズと全く同意見らしい。
「
「仕方ねぇだろう。やっと見つけた店、ツナしか残ってなかった。良いだろうツナ。美味いんだし」
「そうじゃない。この手の待機中に食べるモノといえば、ドーナツとコーヒーって相場があるんだ。お前はまだ若い、センスを養って飯選びと、その変な髪型の改善を目指せ」
「おいおい。飯はとにかく、髪型にまでケチ付けるな」
頭に手を当てて文句を言うラーキン。しかし実際の所は、両側面を剃り上げて残りの長い赤毛を後ろで束ねた、奇抜な髪型であった。
「変な拘り持ちやがって。そんなんだから、健康診断に引っかかるんだ。聞いたぞ、嫁さんに好物のシロップドーナツ禁止されたって」
手痛い反撃にファズは閉口、ラーキンが買ってきたデカフェコーヒーを啜った。
「……ま、馬鹿話もここまでにしといてよ。連中の火炎瓶、よく燃えるなぁ」
ラーキンは切長の目を細め、真剣に画面を睨みだした。
数本投げ込まれた火炎瓶の内、やたら白く輝く炎をあげ、消えないものが混ざっている。ラーキン達はそれに注目していた。
「アレがマグネシウム合金特有の反応なら、さしずめナパームって所だろうか。素人が作れる代物じゃねえな」
「今流行りの『反市議会過激派』?」
「そのメンバーも混ざっている可能性は充分にあるわねー」
二人以外の声が聞こえてきた。後部ドアを見ると、ぽややんとした雰囲気の女性が入ってくる所であった。
「大尉。いつ戻られたんで?」
ファズはごま塩めいた小さな目を丸くする。彼らの上司はこの数日間、会議で本社に居て、不在だったのだ。
「あなた達が共同警備に駆り出されたすぐ後。本当は帰って子ども達に夕飯を作るつもりで居たんだけれどねぇ」
薄いクリーム色のスーツとパンツは、会社務めのオフィスレディといった風貌で、防弾衣に武器を携えた周囲からは、明らかに浮いていた。
おまけに薄く化粧をした柔らかそうな顔に垂れた目尻、口元に浮かべる柔和な微笑が揃っているせいで、余計に穏やかさが増していた。
シェイナ・クエレブレ。
スプライト社が保安局に出向させた特殊作戦コマンド「ブラックドッグズ」の指揮官……即ちラーキン達の上司だ。かつては軍の士官で、部下からは『大尉』と、当時の階級で呼ばれていた。
「共同警備っても、ここの主導権握ってるのは向こうっスよ。俺たちは後ろで時間潰し。またいつもの保安局と都市警の手柄争い」
口を尖らせるラーキンに、シェイナは困ったように微笑む。
「あら。それなら、ラーキンだけでもデモ隊の前に立たせてみましょうか?」
ほんわかした物言いだったが、ラーキンは急に不機嫌に黙り、それ以上何も言わなくなった。
「大尉。あんまし脅さんでやって下さい。元気しか取り柄が無いんだから、この坊主は」
磊落に笑い飛ばすファズ。
「もちろん冗談よ。武警隊も今に一斉検挙を始めるでしょうから。この長い待機時間も直に終わる。それまでの辛抱。ね?」
シェイナは小さな子どもを諭すように優しく言う。それがますますラーキンの居心地を悪くさせた。
喧喧諤諤……。
急にゆったりした空気が漂い出すバンとは正反対に、交差点の群衆側はますます殺気だっていた。
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