第2話
女は翡翠色の目をそっと開いた。
また誰かが入ってきた。上階がまた騒がしくなる。きっとまた誰かが酷い目に遭う。
彼女は小さく嘆息すると、地下通路をまた進み始めた。
つば広の帽子に丈の長い上着、その下に着込んだ民族衣装らしき長衣、そして革靴に至るまで、全て真っ黒。そのような装いで、足音を立てずに揺れ動く姿は、持ち主から離れて自律する黒い陰のようでもあった。
そんな女が一人、廃工場の地下通路を歩いている。それはあまりにも奇妙な光景だった。しかし、陽の光も僅かにしか届かぬ暗い背景に、女の妖しい姿は溶けて混じり、馴染んでいた。
やがて黒衣の女は廊下を渡り終え、広い空間に足を踏み入れる。
くすんだ壁側のプレートには『加熱室』の文字。すっかり風化しており、線は消えかけていた。
黒衣の女は入口を潜ると、辺りをゆっくり見回す。何処かに風の通り道があるらしい。
耳障りな高い音が微風に乗って流れ、女の長黒髪を揺らし、素顔を顕にさせた。
細く整った青白い面立ちに、精巧に整う形の良い目鼻。それは古くも美しい肖像画のような印象を彼女に与え、得体の知れぬ魅力を作り出していた。
そんな彼女の青白い頰を撫でていた風が、急にパタリと止んだ。
やや間を置き、今度は部屋中の暗がりから、風とは思えぬ甲高い音が、何層も重なりあって響いてき始めた。
「こんなに沢山。どうして来てしまったの?」
女はそっと口を開いた。薄絹の繊細さを孕んだ囁き声は弱々しくも、奇怪な合唱の中でも消える事は無かった。
やがて左右の暗がりから、音の主たちが、ゾロゾロ這い出てきた。上階で人間たちと戦いを繰り広げる、悍ましい化物たちである。
怪物たちは迷い込んできた黒衣の女を半包囲。値踏みする暇さえ作らず、細口の針を一斉射した。
瞬く間に、千本以上を優に超える数の針が、黒衣の女を貫いた。
三方向から撃たれた女は膝から崩れ落ちる。その身体に針は……刺さっていない!
放たれた無数の針は、彼女の体を抜けて床に刺さるか、痕跡すら残さず消失。身体も出血はおろか、傷一つ見られなかった。
そればかりか、立ち上がる彼女の体からは、黒い霧が静かに流れ出てきていた。
ゆらりゆらり、黒い霧を生み出す女に化物達は驚き、後退りを始めた。
対する女の方は、ゆっくり体を傾かせていた。角度が深くなるにつれ、全身にまとう黒い霧も濃くなっている。
「ごめんなさい」
不意に女は囁いた。
群れの最後尾、彼女から一番遠い位置に居た、ひと回り大きな個体の前で。
その個体は、ぱっくり割れた首から青い血を噴きこぼしていた。
女は一度手を振り、濡れた血を振り落とす。
斬られたのだ。女の素手によって……。
首を斬られた化物は、体をくの字に折り曲げ、崩れ落ちようとする。だが黒衣の女が素早く後頭部を掴んで止めてみせる。
把ッ!
力を込めた女の手の中で、化物の頭が潰れた。瑞々しい肉片が血と混ざって飛び散り、足元に奇怪な絵画を描く。頭を失った化物は、普通ならその場に倒れたであろう。
黒衣の女はすっと掌を開いて化物を離す。すると彼女の手から黒霧が生まれ、大きく歪な手を形取った。
黒い手は、倒れ行く化物の体を容易く呑み込んでしまう。そしてみるみる内に収縮、再び女の掌に、また戻った。
「命の燈……消えた。私の中で……」
黒衣の女は化物の群れに向き直った。
濡れ光る翡翠の双眸は次の獲物を探して揺れている。
全身の霧は「捕食」してからというもの、ますます濃度を増しており、それが女の両手を暗く染めていた。
同時に化物たちの殺気も、より色濃くなっていた。同胞を殺された事への怒りもそうだが、目前の危険を除かねば命は無いと、本能が理解したのだ。
先にやらなければやられる。その逸る気持ちが化物たちの背中を押し、女の間合いへ飛び込む蛮勇を生む。
あらゆる角度から無軌道に、そして波のように押し寄せる化物の群れ。
「せめてどうか……安らかに」
黒衣の女は祈るように呟くと、青白い両手で肉薄してきた化物を裂いた。
一体……また一体。次から次へと化物は群がる。女は逃げることなく踏みとどまり、裂いては殴り、殴っては潰し、潰しては裂くを繰り返す。
何かしらの体術を用いている訳では無い。闇雲に腕を振り回すだけの純粋な暴力だった。
その暴力の台風に近づいた化物達は、無残に命を散らして黒霧に呑まれ、黒衣の女の体へと取り込まれてしまう。
次第に群れの数は減り、ついには最後の一体も細切れにされ、黒霧の中へと消えた。
再び空間に沈黙が戻った。
ただ一人、平然と佇む黒衣の女。ひび割れて壊れた床には、化物達が流した血が池となって溜まり、食い残された肉塊が不自然な痙攣を起こして散らばっていた。
女はまた暗いため息を一つ吐くと、急に明後日の方角に目を向けた。
じっと目を凝らした末、彼女は霧を片腕に集約。まとわりついた黒霧は段々と成長、やがて、歪に折れ曲がる異形の大腕と化す。
その腕を、力強く振るった。
大腕は伸びに伸びて壁に到達。歪な指が壁面を抉るように掴んで、引っ剥がした。
コンクリートの塊、錆びた鉄筋、太い金属管……壁に埋まっていたものが巻き込まれ、外へ引きずり出されていく。
女は大腕を霧に戻して体に戻すと、壁の穴を哀しげに睨んだ。
穴の奥……正確には隣の部屋に『それ』は浮遊していた。
煙をまとったその輪郭は四角にも見えるし、丸にも見える。酷く朧げで目を凝らしても、実態を見定めるのが困難である。
枠の内側にあるのは両開きの扉らしく、中央部に僅かな隙間が見られた。その隙間の向こうを窺い見る事ができない。
黒。女の黒衣よりも暗く、光がいっさい届かぬ、純粋な黒が隙間いっぱいを埋め尽くしているのだ。
「見つけた」
そっと呟いた女は、異様な浮遊物に向かって、一歩踏み出そうとする。
そこに……。
「保安局だ、動くな!」
背後から男の怒鳴り声が飛んできた。
チラリと一べつすると、物々しい装備で身を固めた兵隊らしき集団が通路に居た。彼らは左右の壁際に身を寄せ、黒衣の女に銃を向けている。
「両手を挙げて膝をつけ。早く、今すぐに」
最初に怒鳴った最先頭の男が命令する。サメの口をあしらったマスクのせいで、顔半分が隠れている。唯一顕になった瞳は赤色で、猛禽じみた鋭さがあった。
銃を向けられた黒衣の女は、特に驚く素振りも見せず、兵隊達を気怠げに見回した後、クルリと背を向けた。
「おい!」
「邪魔をしないで。アレを壊すの」
黒衣の女は我関せずと、再び浮遊物体に向けて歩き出す。
「アレ……?」
リーダー格の兵士が怪訝な目つきで女の向かう先を見る。みるみる内に、彼の態度が変わった。それは、顔が隠れていても分かるくらいの狼狽えようだった。
「<窓>だ」
その物体の名を口にする。途端に彼の仲間も揃って驚いた。
異空間と繋がる次元の裂け目、化物がやってきたそもそもの元凶……。
それが目の前にある。反射的に彼は手にしていた大ぶりの銃を構えた。
「止まれ! テメエ何者だ」
銃口が女の細い背中を向く。指は引き金に掛かっており、いつでも撃てる体勢にあった。
答えよう次第では……。
「あの<窓>を壊すってどういう事だ!?」
「そのままの意味。あの<窓>は、あってはならないもの。だから壊す」
黒衣の女は再び片腕に黒霧を集め、異形の大腕を作る。その光景を見た兵士達は一様に目を剥き、大いに驚いた。
「ラーキン、アイツは……」
仲間の一人は、リーダー格の兵士の名を口にする。
「黙ってろ!」
ラーキンはしっかり女の背中に狙いを定めた。猛る心が体を急かし、人差し指に力をこめさせる。
(撃て!)
だが、その時……。
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