第十七話:見えざる気持ち

「あぁー、やっぱり。いると思った」

 カウベルの音と共に喫茶店に入ってきたのは十五谺いさかだった。カウンター席で晃一郎こういちろうは軽く手を上げる。

「あら、いらっしゃい十五谺ちゃん」

「ども」

 にこ、と笑顔になったが、そこに何か違和感があることに晃一郎は気付いた。

「どした?」

「あ、CD買いに商店街まできたから涼子りょうこさんのコーヒー飲みたくなっちゃって」

 晃一郎の隣に座って、十五谺は明るく言った。涼子が嬉しそうにあらあら、と笑顔になる。

「何買ってきたの?」

「クラシックのアレンジ版です」

「へぇ、どんなの?」

「ワーグナーとかチャイコフスキーとか雑多ですね……。これです」

 十五谺は言って、バッグから小さな袋を取り出すと、その袋からCDを取り出した。

「へぇ、有名なのもマイナーなのもあるのね、ちょっと面白そう」

 CDケースを十五谺から受け取って、その裏側に書かれている曲名を見つつ涼子が言う。

「クラシックなんて聞くのか……」

「何よその意外そうな顔は。だから前にも言ったでしょ、晃ちゃんが絶対聴きそうもない音楽聴くって」

 にぱ、と笑顔を見せて十五谺は言うこうしてみるとあまり違和感を感じることはないが、晃一郎の先入観なのだろうか。

「それは、言ってたなぁ」

 確かAVERIX MUSICアヴェリックスミュージックのイベントの時に十五谺はそう言っていた。つい先日も二十谺はつかから、十五谺は実は読書家だという話を聞いて意外だと思ったばかりだが、人とは見かけに依らないものだ。

 十五谺の笑顔はやはりどこかぎこちない気がしなくもないのだが、それでも雰囲気はいつもと同じような気もする。何かがあったとしてもやはり晃一郎から訊き出すことはできそうもなかった。

(んー……)

 本当は聞きたい気持ちの方が大きいのだが、十五谺に特別な感情を抱いていると自覚してしまってからは、何かちょっとしたことでも十五谺の心に土足で踏み込んでしまうことになりはしないか、と懸念するようになってしまった。

「いやぁ、人は見かけに依らないもんだ、と……」

「えー?それを言うなら晃ちゃんだって同じでしょ。あ、涼子さんわたしブルマンで」

 それもそうか、と晃一郎は思う。人間は何事もなりで趣味を嗜む訳ではないのだ。それを言うのならば晃一郎自身も音楽をやるような外見ではないことは重々承知している。

「ま、それもそうだなー」

「そういえば昨日伊庭いばさんが来たのよ。二人はどうですか、って気にしてたわ」

 先日の所謂の人、伊庭は本当に水沢みずさわ夫妻、谷崎たにざき夫妻の知り合いだった。そして伊庭の所属する的場まとば商会は不良債権の取立てなどをしている、本当にらしい。便宜上社長、と呼ばれる恐らくは組織の長である的場氏は彼らの友人で、学生時代には水沢貴之、谷崎諒、今現在でも水沢夫妻、谷崎夫妻には世話になったという話を先日聞かせてもらった。

 そしてこの喫茶店や谷崎夫妻が経営している楽器店は経営から資本から、何一つとして的場商会とは絡んでいることもなく、晃一郎としては好んで通っている喫茶店の店主の関係や、伊庭という人物の裏が取れて、心底安心できた。

「あ、そうなんですか。俺思い切り怪しんでましたからね」

 晃一郎は苦笑して言った。本気で怖かったのは確かだが、それでもこれ以上十五谺を危ない目には合わせたくはなかった。これ以上怪我もしたくはないのも事実だが。

「大丈夫よ。堅気の人には何もしないから」

 くすくすと涼子は笑う。それでも手下や配下、舎弟のような、それも末端の末端まで行くと、伊庭ほどの立場の人間では全てを掌握することは不可能なのだろう。晃一郎を襲った男がどうなったかまでは判らない。想像するだけでも恐ろしいことになっているのかもしれないから、訊く気も起きない。

 ただ晃一郎の個人的な気持ちとしては、十五谺の心を踏みにじった罰は受けて当前だと思っている。

「されたら怖いですよ」

 苦笑して晃一郎は涼子に返した。

「何だか色々お咎めもあったみたいだし、若い衆の教育もキッチリしとかないとだめだなぁ、って嘆いてたから今後の心配はないわよ」

「そうですか、とりあえず安心だな」

「だね」

 そういう十五谺の顔つきがちっとも晴れやかでないのは晃一郎の気のせいではない。最も想像したくないことを晃一郎は想像して、つい十五谺から顔を背けてしまった。

(くそ……)

 折角十五谺に会えたというのにちっとも心が弾まなかった。


 気分が乗らなかったのと、もう危険はないだろうという、自分でも明らかに後ろ向きだと判る気持ちから、晃一郎は十五谺が帰る時にも喫茶店に居残った。

「……送ってあげなくて良かったの?」

 涼子が気遣うような視線を向けてくる。

「まぁもう危ないこともないでしょうし……」

「私が言ってるのはそういうことじゃなくて」

 恐ろしく勘の良い涼子のことだ。恐らく晃一郎の気持ちには、晃一郎自身が自覚する前から気付いていたのかもしれない。

 それでも。

「……」

 それでも、十五谺の気持ちが動かないのであれば、晃一郎が何をしても無駄になる。十五谺の気を引くために今まで優しくしてきた訳ではないと思っていたのに、結局は十五谺にその気がないと判ってしまえば、優しくしようという気が失せてしまっていたことに晃一郎自身、愕然とした。

「お互いに傷を持つ者同士、っていう感じもあるけれど……。でもね晃ちゃん、そういう時に男の子が項垂れてても何も起きないし、何も変わらないわよ」

「……」

 涼子がそう言えるのはきっと水沢貴之たかゆきがこんな時に項垂れているだけの男ではなかったからなのだろうか。

「色んなショックを受けてると思うの」

 それは判る。十五谺がアルバイトをしていた店がヤクザ絡みであったこと、十五谺が好きだった男がそこに絡んでいたこと。その男に裏切られただけではなく、襲われそうになったこと。それは結果的に失敗に終わりはしたけれど、そのせいであの男たちが何らかの罰を受けたこと。

 自分のことだけでなく、少し前に気持ちを傾けていた男のことでも、十五谺は心を痛めている。

 気持ちは判るのだ。晃一郎にも。だけれど、どうしても納得することができない。そしてそれをはっきりと非難することもできない。

「十五谺ちゃんが色々と変わるきっかけを作ったのは、晃ちゃん達でしょ?まだ十五谺ちゃんだって色々戸惑うことだってあると思うの。それに複雑な関係があるのかもしれないし、そこも悩んでると思うの」

 涼子の言っていることは判らなくもない。

「知らないことを知らないまま、否定はできない、ですね」

 いつかかも自分で思ったことだ。

「そ。それにね、そういう心細い時に、晃ちゃんがそばにいてあげた方がいいんじゃないかなって私は思うけどな」

 何故か、とまでは涼子は言ってくれなかった。しかし、今変わらなければいけないのは晃一郎自身だ。十五谺が変わったきっかけを作ったのかもしれない晃一郎や二十谺も完璧などとは程遠い、間違えもすれば失敗もする、ただの人間でしかない。十五谺から教えてもらったことだって沢山ある。

 お高いところからあいつは駄目だ、と言えるほど晃一郎自身だって何かを成し遂げてきた人間ではない。周りだけに矢印を向けて、十五谺を出汁にしているのは晃一郎自身だ。

(そうだ)

 好きな女の気を惹きたくて何が悪い。何を言い訳にしても、行動を起こすにしても起こさないにしても、失ってしまえば項垂れるしかない、へたれた、所詮は人間でしかない。

(だとしたら)

「ご馳走様でした。……まだ追いつくかな」

 席を立って晃一郎は涼子に言った。

「急がなくちゃ」

 くい、と腕だけで走るジェスチャーをして涼子は笑顔になった。その笑顔に後押しされたように席を立つと、慌てて会計を済ませる。

「すんません、ありがとっす!今度俺にコーヒー奢らせてください!」

「その分は十五谺ちゃんに奢ってあげて」

「了解す!」

 そう言って、晃一郎は十五谺を追いかけた。


 中央公園の噴水を越えたあたりで十五谺を見つけることができた。

 十五谺は一人ではなく、誰かと向かい合って話をしているようだった。まだこちらには気付いていない。噴水まで逆戻りして、メイン通りと並んで通っている遊歩道へと大きく迂回する。

 走った衝撃で酷く肩が痛んだ。十五谺と話しているのはどうやら男のようだ。

「……悪……たな……」

 自分の息切れのせいで相手の声が聞こえない。大きく息をする訳にもいかず、晃一郎はできるだけ耳を済ませつつ、呼吸を整えようと遊歩道の木に寄りかかった。十五谺達からは見えないはずだ。余計な音が鳴って気付かれないようにそっと携帯電話のバッテリーケースを外し、バッテリーを抜く。

「怪我、……気なの?」

 全てが聞こえなくても、会話の内容は何となく判る。胸に手を当てて、晃一郎は二人の会話に集中した。

「ま……めったくそに……けどな」

 男の声は直接晃一郎を襲った男の声ではないような気がする。晃一郎が襲われた時、あと二人いたがその二人の声までは晃一郎は覚えていない。

「……」

「おま……は近付くな……てたけど、どうしても言……ことがあって……」

「私は……いよ」

 だいぶ呼吸も整ってきた。静かに息を吐き出して、晃一郎はことの展開を待つ。

「できるなら、やり直したい」

 はっきりと男は言った。

「近付くなって、言われてるんでしょ?」

 邪魔だった自分の呼吸と鼓動の音が落ち着いたせいで良く聞こえるようになってきた。それと同時に盗み聞きしている自分自身が後ろめたくなってきてしまった。

「もう二度とあんなことしねぇよ」

「でもわたし」

「あん時の男はその場しのぎだったんじゃねぇのかよ!」

「そうだけど、でもっ」

「だったら!」

「じゃあ雄太はそれが判ってて暴力振るったの?関係ないって判ってて!あの人まで使って!」

「だ、だからそれはもうしねぇって……」

 雄太と呼ばれた男が気弱に言い返した途端に携帯電話が鳴り出した。

「ちっ……。あぁ、はい、はい。判りました……。いえ、なんでもないっす、んじゃ向かいます」

 通話を終えて、男は言葉を続ける。

「またくっからな!そん時はもっかいちゃんと話す!」

 そう言って男は駆け出して行ってしまった。十五谺は見送るようなそぶりも見せず、すぐに歩き出した。完全に姿を現すタイミングを逃してしまった。十五谺の足音がだいぶ小さくなったのを確認して、晃一郎も帰路に着いた。

(所詮はその場しのぎだ……)

 不思議と気持ちは軽かった。好かれようと思い、十五谺に優しくしていた訳ではない。そのことが証明されただけだ。好きな女だろうと、そうでなかろうと、自分に近しい人間が困っていれば助けるのは当然のことだ。

(……あれ)

 何か引っかかる。

 十五谺が好きだったという男と、晃一郎を襲った男は同じ男だ。だけれど、今話していた雄太という人物は別人だった。

(え、でも待った……。どういうことだ?)

 十五谺が好きだった、と言っていたのは、晃一郎を襲った、vultureで顔を見た方だ。だが、今十五谺が会っていた男は晃一郎に怪我を負わせた男とは違う。やり直したい、という言葉から元恋人だということは判る。だが、訳が判らない。いや、判りたくないだけだ。十五谺は恋人がいながら、メイドカフェの立場を利用して別の男と付き合おうとしていた、ということなのだろうか。

(でも、だけど……)

 それは過去の十五谺のはずだ。

 今の十五谺は違うと信じたい。

 晃一郎に気持ちが届かなくても構わない。ただ、同じ過ちだけは犯してほしくない。そう思う。そうとしか思えない。

 恐らく、十五谺は元恋人とは復縁を望んではいないことは判る。そして、好きだった、という男への諦めの気持ちがあることも判る。そういうことから遠ざかりたがっていたのは本当のことだと信じられる。先ほどの恐らくは元恋人も、十五谺が好きだったという男も、的場商会という強力なバックボーンを自分の力だと勘違いした、どうしようもなくくだらない連中だ。そういったしがらみから開放されたいことは確かなのだ、と思う。

(結局、変わらないでいい訳だ、俺は)

 今できることをするだけ。

 いくら言い訳を並べてみても、その場しのぎだと現実を突き付けられても、十五谺を想う気持ちは、どうやら捨てられそうもない。

 だから、十五谺を信じて、晃一郎は晃一郎で今まで通りに行動するだけ。たったそれだけのことだ。

 今までの十五谺も、今の十五谺も、もしも間違えてしまったのならば、またやり直せば良いだけのことなのだから。また喧嘩でも何でもして、言い争って、お互いを理解し合えれば良い。

(今まで通り、か……)

 しかし。

 それでは駄目なことも、本当は判っている。

 晃一郎が想う部分を行動に移さなければ、結局、晃一郎自身もそのままなのだ、と。

 判ってはいるのだ。本当は。


 第十七話:見えざる気持ち 終り

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