第九話:僕に捧げる落日
「
びくり、と肩が揺れた。人が通ることはあっても呼びかけられることはないと思っていたのか。しかし十五谺は振り向かず、その代わりに、酷く頼りない声で
「晃、ちゃん」
「……どした、こんなとこで」
(泣いてる、のか)
十五谺の後ろに立ち止まり、背を向けると晃一郎は言った。ギターの入ったギグバックを一度脇に降ろす。明らかに十五谺の声は涙に濡れていた。
「ちょっと、ね」
涙声を隠すように、努めて明るく言ったつもりなのだろうが、失敗であることは晃一郎にもすぐに判る。そして晃一郎には、泣いている女の子にかける言葉を見つけられない。声をかけたこと自体が失敗だったのかもしれないが、今更放っておく訳にも、じゃあなと背を向ける訳にもいかない。
「そか」
河川敷の土手の上は所謂サイクリングコースにもなっている。十五谺は川側に向かって座っていたが、晃一郎は短く答えると、十五谺の背にあるサイクリング用の道を挟んだ反対側に、川に背を向けて座った。
「な、何よ……」
「ん、ちょっとな」
ギグバッグから今日練習したセットリストを取り出して、それを見るでもなく、視線を落とす。そのまま無言でセットリストの書いてある紙をしまう。時間稼ぎにもならなかった。
時折十五谺の小さな溜息や洟を啜るような音が聞こえてくる。どうかしたのかと尋ねても話そうとしないのならば、これ以上質問を重ねることはできない。ただ、もしも十五谺が何かを言おうと思った時に、聞くことはできる。
『……なんでそんなに冷たいの』
ついこの間、十五谺を助けた時に言われた言葉だ。
あの時の晃一郎は確かに冷たかった。十五谺本人に興味はないと言い放ち、十五谺が何をしていようが、どういった結果になろうが、どうにでもなってしまえば良いと思っていた。自業自得だ、と。
それが他人ならば、それで良いだろうと、そう思い込んでいた。
「この間さ……」
ともすれば聞き逃してしまうほどか細い声で十五谺は言った。
「ん」
「晃ちゃんが助けてくれた時」
「ん」
きちんと十五谺に聞こえるように、ただいい加減な返事をしているだけだと思われないように、晃一郎は短く返す。
「あの男が、わたしのこと噂で聞いてる、って言ってたでしょ」
「言ってたな」
幾らでやらせるだとかどうだとか。
「その噂ね、わたしが晃ちゃんと喫茶店で会った、あの人が流してたんだって」
何とはなしに、想像はついた。晃一郎の想像でしかないが、所謂、十五谺のしているアルバイトというものはそういったこととかなり深い関係に位置している仕事なのだろう。そういったことになってしまっても仕方がないのではないか、と。だからこそ、以前の晃一郎はそういった十五谺の今までしてきたことが返ってくることに関して自業自得だ、と思っていたのだ。
「好きだった、んだけどなぁ」
ぐす、と聞こえてきて、十五谺は再び口を閉ざす。
今、訊いてはいけない質問事項が晃一郎の頭に浮かぶ。
客と寝たのはあの男だけだったのか。
噂を流されても仕方がないようなことをしてきたのではないのか。
こういったことに少しも危機感を覚えていなかったのか。
「そっか……」
しかし晃一郎の口から出た言葉は、何の力もない言葉だった。
今十五谺を問い詰めることに意味を見出せない。確証もない。好きでもない男と金で寝ることや、好きな男にでも金をもらうことなど、きちんと考えれば事実かどうかも判らないことだ。そのことをわざわざ口に出す必要性が、今の晃一郎には見つけられない。
「バイト、辞めなくちゃね」
「そうだな」
何も言ってあげることはできなかった。結局のところ、何の力もない男ができることなどないのだ。話を聞いてあげることはできるが、それは晃一郎ではなくても良いことだ。
十五谺が今どれほど深く傷ついているのかを推し量ることができない人間には、きっと何の力もない。何の力にもなってやることはできない。
「ばかだな、わたし……。お姉ちゃんの言う通りだった」
先日喧嘩した、と二十谺も言っていた。お互いの距離を縮めた、言ってみれば良い喧嘩だったのかもしれない。最初に会ったときのような姉への嫌悪や悪意は、今の十五谺からは微塵も感じられなかった。
「気付けただけ良かったんじゃないか?」
「え?」
一瞬だけ十五谺が振り向いたようだったが、晃一郎は十五谺に背を向けたままだ。
「今日さ、二十谺が明らかに寝不足な顔で、十五谺と喧嘩したって言ってたよ」
「……お姉ちゃんが?」
「そ。悔しがってたな。十五谺がそういうことに気付けたからなのか、どんなこと言ったのか判んないけどさ、二十谺、十五谺に偉そうなこと言えるほど自分でも何かやってきたのか判らなくて、十五谺に酷い言い方してきた、十五谺のこと責める資格なんてない、ってそんなようなこと言ってたよ」
お互いの弱みや痛いところを突き合うだけの不毛な喧嘩ではなかったのだと思う。そのくらいは晃一郎でも判る。
「今はキツイかもしれないけどさ、時間なんてまだいっぱいあるんだぜ」
「……」
きっと伝わりはしないだろう言葉を晃一郎はあえて口にした。
今は何を言っても無駄だろうと判っていながら、それでもその言葉を口にはしない。力のない言葉を更にマイナスの方向へと持っていく訳にはいかない。
「十五谺くらい可愛かったら、またすぐイイオトコ見つけられるさ」
複雑な思いで、晃一郎はそれでも十五谺を慰める言葉を発し続けた。
「まだ、しばらくは無理かもしれないけど、でも時間が経てば、忘れることはできなくても痛みは引いてくよ」
無責任な言葉だろうか。それでもそう言わずにはいられなかった。傷付けることも、傷付くことも、簡単なきっかけだ。だけれど、その傷を癒すまでにはとてつもない時間がかかる。とてつもない時間はかかるけれど、いずれ、必ず癒える日が来ると信じたい。
「……そう、かもね」
少しだけ、明るさを取り戻した様子で十五谺が言った。
「最初に出会ったときにすげぇ口論した相手に、こういう言葉をかけることになるとはね」
冗談交じりで晃一郎は言う。人との関わりなど何がどう動くか判ったものではない。あれほど、顔も見たくないと思っていた相手だったのに。
「そうだね。晃ちゃんに慰められるなんて思ってもみなかったよ」
一方的な弱みを見せたせいなのか、少し皮肉交じりに十五谺も返してくる。
「俺はさ、十五谺の背負ってる荷物、持ってやることはできないけど、十五谺が助けを必要とするんだったらいつでも助けるよ」
「……それ、お姉ちゃんでも?」
意味有りげに十五谺が呟く。
「俺、少し判ったんだけど、もう関わっちまったら、そういうことなんだ。男も女もなくて、俺が関わりを持っちまったら、もうどうでもいいなんて思っちゃいけなくてさ。二十谺もそうだけど、昔から付き合いがある亨だってみんな同じだよ。もしも力のない俺でも助けになれるんだったら、俺は助けたいって思えるようになった」
地面に視線を落として晃一郎は言う。
十五谺と出会った時、お互いを罵るような口論を交わし、顔も見たくないと思った。十五谺の言葉で晃一郎が傷ついたことは確かだが、晃一郎も十五谺を傷つけた。傷ができるだけで何も生まない不毛なやり取り。いっそのこと他人のままであったならば誰も傷つかず、全く知らぬ人間がどうなろうと知ったことではないと、そのまま時を過ごせたかもしれないのに。
そう考えることもできる。
それこそ不毛な妄想だ。どうしてこんなことになってしまったのか、と原因を追究することにどれほどの意味があるのかは晃一郎には判らない。それよりも、起こってしまったことに対し、どう対応するのか、どう進んでいくのか、それを考える方がよほど重要だと思える。
だからこそ、十五谺と知り合って、罵り合って、その先に進めた今の現状に晃一郎は満足しているのかもしれなかった。沈んでいる十五谺に声をかけることができた。甘さなのか、優しさなのか、そんなことは良く判らないけれど、それでもこうして十五谺も晃一郎に話してくれる。
「じゃあ晃ちゃんが困った時はわたしも助けなくちゃダメだね」
「当然じゃん」
「困ってることないの?」
くす、と笑顔を取り戻したであろう十五谺が言う。
「今は俺じゃなくて十五谺だろ」
「そっか」
晃一郎は立ち上がるとそう言って苦笑する。
無力ではなかったのかもしれない。自惚れかもしれないけれど、話す相手が晃一郎ではなくても良かったのかもしれないけれど、それでも、この場だけでも、十五谺は明るさを取り戻してくれた。
自分を卑下しすぎることにだってきっと意味はない。今この場には十五谺がいて、晃一郎がいるのだから。それならば今ほんの少しでも十五谺に明るさを取り戻させたのは他ならぬ晃一郎だ。
「今日練習だったんだね」
「まぁライブ決まったしな。ちょくちょく入っとかないと」
少し離れた位置の十五谺の隣に座り直して晃一郎は言う。
「何か弾いて」
「ここで?」
唐突な十五谺の言葉に、眼を丸くして晃一郎は返した。
「うん」
「ちゃんと音鳴らねぇぞ」
晃一郎や二十谺が持つのはエレキギターやエレキベースだ。アンプリファイアという機器を使って初めてきちんとした音が鳴る楽器だ。一応アンプラグドでも鳴るには鳴るが、それでもアコースティックギターやフォークギターのような音が鳴る訳ではない。
「いいよ別に。何か一番得意なの、聴かせてよ」
「んー……」
考えながら、晃一郎はギグバッグからグレッチを取り出した。多少の音のずれはバッグにしまうときに発生する。違和感が起こらないほどの適度なチューニングを手早く終わらせると、晃一郎はまずAのコードを鳴らした。
随分前に見た深夜枠のテレビで、大御所のギタリスト同士が対談しているのを見て、まずギターを手にしたときにジャイアンツファンはGから、カープファンはCから、ファイターズファンはFからコードを鳴らすという話を聞いたことがあるが、あれは本当なのだろうか、とどうでも良いことを考えてしまった。
太陽はすっかりと沈み、土手の下を走る道を照らすオレンジ色の街灯がともる。
先ほど見たスカイラインを瞼の裏に思い描いて、晃一郎は一つ咳払いをした。
―僕に捧げる、落日。
「ちょっと、凄くないのそれって」
十五谺が眼を丸くする。歌こそスキャットで済ませてしまったが、『僕に捧げる落日』はシャガロックの曲の中でも難しい曲だ。何度も何度も亨と練習を繰り返した。二十谺が加入してからも、幾度となく練習を繰り返した。
「まぁちょっと、十五谺の前だし、見栄張った」
照れくさくなって晃一郎は頭をかく。少し、十五谺に自分が何を楽しんで、誇りに思うのかを見せ付けてやりたかったのだ。だからあまり音楽に詳しくない者でも、聞いて巧い、と思わせるような曲を選んだ。
「そっかぁ……。でも、あの時にわたしにあれだけ食い下がったのも判るね」
「何が?」
「だって今のって、ちょっと練習したくらいじゃできるようなものじゃないでしょ」
「まぁね」
十五谺が晃一郎の狙いに気付いてくれたことに、晃一郎は満足した。
「知らないで色々言っちゃいけないね、やっぱり」
「ま、でも確かに音楽オタクなのかもな」
オタクと聞くとどうしても蔑称として受け取ってしまいがちで、みすぼらしい姿勢や態度を連想してしまう偏見が晃一郎にはあった。ひとつのことに夢中になれることをオタクと言うのならば、晃一郎もやはり充分音楽オタクなのだろう。
「自分で見たり聞いたりしたものでもないのに決め付けることってやっぱり良くないね」
「……そう、だな」
自分はどうなのだろう。
正直に言って、十五谺の今までやってきたことを晃一郎は実体験したいとは思わない。十五谺は今、晃一郎の音楽を聞いてきちんと理解を示してくれた。だけれど、十五谺が今までしてきたことに対し、晃一郎は理解を示すことができそうもない。
「やっぱり良くなかったのかな……」
「!」
そういうことか、と晃一郎は思い至った。
理解という言葉に捕らわれすぎていたのかもしれない。理解ができないのは、しようと思わないのは、十五谺が、少なくとも晃一郎の範疇の中では間違ったことをしていたからだ。そして十五谺本人が間違っているのだ、と気付いたのならば、そここそを判ってあげられるように、晃一郎自身が考え直せば良い。人一人を全て理解することなど叶わないことだとは思うが、それでも、少なくとも、理解できる部分はあるのだと、自身の考え方を変えて、自身の考え方も理解できれば、優しく接することだってできるのかもしれない。
「間違ったって思ったんならさ、別にやり直せばいいだけの話じゃん」
そう、簡単なことではないのかもしれない。過去に亨がそうして、幾人もの人間に頭をさげてきたように、容易なことではないのだろう。だけれど、できないことではない。
「そうだね。困ったら助けてくれる人もいるんだもんね」
そう言って十五谺は立ち上がった。
「まぁ、な」
晃一郎もギターをギグバッグにしまうと、立ち上がった。
第九話:僕に捧げる落日 終り
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