第3話 出会い

 日本の科学ルネッサンスと言われた20年ほどの時期がある。その時期の立役者の一人が名波亮太である。そして主役は勿論、歴史上最大の天才と言われた水谷 翔であるが、若き名波が水谷を見いだしたことはすでに歴史の1ページである。


 名波が、その少年水谷 翔(かける)に初めて会ったのは彼が30歳で、助手から准教授に昇進したばかりの年の秋であった。翔は、その頃はまだ小学校の4年生で10歳であったし、水谷は共働きの妻の瑞希(みずき)に子供の沙耶(さや)が出来た時期であった。


 これは、彼が助手から准教授になってようやく人並みの給料が出るようになったので、子供を作ることになった事情である。名波は研究者として順調に業績を上げて、学会では名を知られてきているエースである。


 だが、その彼でも25歳で結婚して、28歳で博士号を取得して助手として採用されるまでは、編集者として働いていた嫁さんに養われていたのだから、ドクターコースまで行く研究者は経済的にはなかなか苦しい。


 彼は、旧帝大であるK大学の理学部、物理学科に属していて、28歳で博士課程を修了と同時に物理学博士を取得した。だが、最近では物理学で博士課程を修了時に博士号を取得できる者は極めてまれである。これは、学会に論文を出してそれがそれなりに認められる必要があり、そこが高いハードルになっている。


 その意味では、素粒子論で原子に潜む一つの秘密を解き明かして、本当の意味での原子力活用の道を開いた言われた彼の『水素原子の素粒子構造とその操作因子』は発表当時から注目を集めた。その意味では彼は気鋭の学者の一人と言えよう。


 自分の研究室にいた名波は、最初は怪訝に思いながら、次いで夢中になって送ってきたファイルをスクロールしながら読んだ。一度では正確に意味を掴めず、急いで20ページほどの論文をプリントアウトした。


 さらに、自分に気合をいれて集中して、サインペンを片手に1度、さらに2度読み返して、ようやくその意味を掴んだと確信し、最後に結論として描かれた公式を含むページを唖然として見つめた。


 彼の愛用のノートパソコンに送られてきたそれは、彼の研究室のホームページ(HP)宛に送られてきたワードファイルであり、エクセルで作ったと思しき図や表が適宜挿入されている。

 それは、2週間ほど前にHPに公開した彼の論文への解答とも言えるものであり、短いその中で見事に彼がぼんやり思い描いていた結論を述べそれを証明していた。


 彼の公開した論文は、彼が院生時代に発表して博士論文としても認められた論文の延長線上のものである。それは、かつて注目された論文をより具体化して物質の在り方、原子の在り方に明確にして、エネルギー革命を起こす道を示していると自ら考えているものであった。


 しかし、自分でも中途半端であるのは承知しており、現状の所では彼の恩師や数人の同じ分野の同年代の研究者からも、はかばかしい評価は得られなかった。このこともあり、また学会に発表するほどの完成度でないことは自覚していたため、思い余って学科のホームページ(HP)に載せてみたものであった。


 彼の考えが正しければ、その論文はさまざまな素粒子から構成されている原子の在り方を規定し、その原子の構成要素の変換、エネルギーの取り出しが可能な手法の方向性を示すものであるはずである。


 しかし、一つの方向の可能性を示したのみで、定性的にも証明がなされておらず、内容的にも中途半端なものであることは認めざるを得なかった。

 送ってきたメールは、本体分にファイルを添付する形であり、差出人は、過去数年、さまざまな専門的な問いかけをメールでしてきた人物であった。それらの質問の高度な内容から、名波はたぶんどこかの大学院生だと思っていた。


「名波先生へ

 いつも様々な質問でご迷惑をおかけしています。

 先生の研究室のHPで公開された『水素原子の素粒子構造および核変換操作の可能性』について、私は素晴らしい着想で、極めて大きな応用を生むものだと思います。


 ただ、現状では方向は正しいものの、中途半端な形にとどまっていると考え、私なりにその展開とエネルギー抽出に限られていて限定的ではありますが結論を述べてみました。ご批評いただければ幸いです。 水谷 翔 」


 差出人の水谷氏は過去様々な問いかけをしてきて、名波は都度答えてきたが、彼に限らず数人からの同様な質問に対してと、同様な対応をしたものである。

 名波の方針で、研究室のHPを起ちあげたとき、自分の仕事に関しその内容のかみ砕いた説明ととも載せて、できるだけ興味を持ってくれる人を増やそうとした意図によるものである。


 しかし、それにしてもその水谷氏の論文の内容には興奮せざるを得ない。明らかにそれは名波の論文の延長にあるものである。しかし、彼が最終的なゴールとして漠然と描いていた最終成果をはるかに超えて、論理的にその可能性の証明を果たしている。


 さらには、その論文の最後には名波は水素のような低原子量の素粒子のみの操作に限定しているが、核分裂物質を含む高原子量の物質へも同じ考えで操作が可能であることを述べている。


すなわち、名波は“水素原子等の比較的原子量の小さい物質に一定の条件を与えることで、原子変換即ち核融合を起こすことができる”ことを提示したのだ。

 それは、現状で知られているプラズマ状態を作る必要がなく、いわば常温核融合に相当する。さらには、いわば電子の缶詰である物性への可能性も示唆した。水谷氏の論文はそれを示唆でなく可能であることも証明しているのだ。


 水谷氏は、さらには原子全般に関する諸理論を敷衍して、核分裂物質の反応の制御に関しても理論の展開を進めていることを示唆している。むろん、実用はまた別の話であり、膨大な作業と相当な時間を要するであろうが、この『水谷氏』であれば、意外に短時間でまとめてしまうのではないかと名波は感じた。


 しかし、いずれにせよ、送られてきた論文のみでも、嘗て原子力利用の可能性を開いた時に勝るインパクトを世界に与えるであろう。


 名波も、博士号を持つ学者であり、学問的な成果による栄光を夢みることもあり、先の論文もその達成のためでもあった。しかし、送ってきた論文はその学問的な業績、さらにその巨大な将来の応用を考えれば、十分ノーベル賞にも値すると確信できた。


 突然、彼の白衣のポケットに入れた携帯が軽やかな音楽を奏でた。

 それは彼の妻の瑞希からのもので、『今日は何時ごろ帰れるの?』とのチャットの問いに、研究室の窓を見ると、すっかりあたりは暗くなっており、時計も午後7時過ぎを示している。

『今から片つけて出るからあと30分くらいかな』と打ち込んだ。


 その後もしばし呆然としたが、『まず水谷氏に連絡だ』ということで、メールで少し震える指で『貴君から送ってきた論文の件でできるだけ早くお会いしたいので、できたら電話をください。番号は090xxxxxx』との文章を作って送信した。


 自室のドアを開けると、院生の研究室にはメンバー5人の内、修士課程2年の斎藤がまだ残っていてパソコンの画面をにらんでいた。 

「おや、斎藤君、まだやっていたのか」

「ええ、先生、今度の学会に出す論文がまだまとまらないものですから」 


「俺は帰るからな、ほどほどにしておけよ」

「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」


 大学に近い教員宿舎への徒歩15分の道も、通いなれているせいもあるが、ほとんどうわの空であった。ちなみに、名波は身長が175㎝ですらりとした細身である。色は白く眼は優し気で口調もおっとりした方で、まあハンサムで結構モテる方だ。


 2DKのアパート形式の官舎の2階の自宅のドアを開け、「ただいま」と声をかけた。その声に「お帰りなさい」と、台所にいるらしい妻からの声が聞こえる。妻はまだ出版社に勤めているが、1年の産休をとって現在は半年目で、生まれて3ヵ月の娘の世話をしている。


 台所に入ってくる夫を、炒め物をしている妻が振り向いて「お帰り」とにっこりする。彼女は中背で、肩までの髪、目鼻立ちのはっきりした美人であるが、少し低めの声で言う。名波は彼女の声は色っぽいと思っている。


「おなかがすいたでしょう。お風呂に入ってちょうだい。その間にこの炒め物を仕上げるね」


 彼女は名波より一歳下で、双方が学部学生から付き合いはじめ、名波が院生の時に社会人の彼女と結婚した次第である。だから、2人の新婚の新居は古いアパートで、大体院生の名波が家事をすること多かった。


 名波が助手に採用されて官舎に移ったが、大体平日に家事をするのは名波であり、彼女が産休に入ってから、彼女が家にいて名波が帰ってくるというパターンになっている。


 名波は風呂から上がって、酒には強いが授乳のためアルコールを控えている彼女に気を使って、缶ビール1本の晩酌であるが食事をしながら早速今日の話をする。


「……というもので、世の中を変えるほどの論文が送られてきたわけだ。

間違いないのは、水谷氏が大天才ということだね。それにしても、これほどの研究者が世に知られていないことが不思議なんだよね。これほどの論文がどこかに発表されていれば、間違いなく騒ぎになっているはずなんだ。

さて、今後どうするかということだが……。いすれにせよ会ってみるしかない」


「うーん。その論文がそれほどのものなら、いずれにせよ発表する必要はあるわね。だけど、貴方というより研究室にメールでその論文を送って来たということは、どっちにしてもその水谷さんは貴方のような物理学会の研究者ではないわね。

 だから、彼を世に出すには貴方と多分、主任教授の笠松教授になるわ。そして、彼の論文はあなたの論文の延長線上にあることは確かなんでしょう?」


「ああ、それは間違いはないけど、それから発展した枝葉というか本体はすでに僕の成果の面影はないけどね」


「仮によ、仮に例えばこれで、ノーベル賞を受賞するとすれば、その理論の元になって研究をしたのはあなたなんだから、貴方は必ずその一員にはなれるわ。

 私もね、前に〇〇先生と奥さんのノーベル賞授賞式のビデオを見たけど、研究者の貴方と結婚したからには、同じ舞台に立てたらとは思ったのよ」


「ハハハ。まあ、確かそれは、そうだろうな。しかし、まんざら夢とは言えないかも。でも、ノーベル賞と言っても運次第ではあるからね、こういう論文が僕のところに送られてきたというのは運が向いたのかも。


 だけど、問題はこの理論の実用化なんだ。常温核融合と物質から核電子を取り出せるという理論が実用化されるなら、とんでもないことになる。今や人類の将来の最大かつ究極のデッドロックはエネルギーだよ。安くて無限のエネルギーが得られるなら、資源も食料も土地の問題だって全て片が付くよ。


 そして、僕の研究と水谷氏の論文の示すところは安くて無限のエネルギーが得られるということだからね。僕はこの水谷氏はその実用化も方向についても、目途がついているのじゃないかと思う。そうすれば大変なことになるよ。お、ショートメールだ。水谷さんかな?」


 名波はスマホを操作して読み上げる。

「水谷さんからだ!明日、正午大学図書館の東脇の胸像の前だと」


 それから妻を見て話を続ける。

「とりあえず、明日水谷さんに会って、早い内に笠松先生も交えてに相談することにするよ」


 笠松真治 物理学科教授は、57歳で理学部長であり、世界的に知られた学者である。闊達な性格で、専門分野以外の著書も多く交友関係は広い。名波は笠谷教授の愛弟子に当たり、教授には妻の瑞希と結婚の仲人を勤めて頂いた仲でもある。


 翌日、正午に5分ほど前、名波は意識して落ち着いて、指定された大学図書館脇の胸像前に向かって歩いて行った。そこは小さな裸地になっており、近づく人も少ないが、小柄な人が立っているのが見えた。近づくにつれ、その人は小柄なのは当然、半ズボンをはいた、どう見ても小学生の男の子であった。


 戸惑いながら近づいていくと、「名波先生ですか。僕は水谷、水谷 翔です。この近くの波島小学校の4年生で、10歳です」少年は、闊達にそう言って手を差し出してくるので、名波は戸惑いつつその手を握って言葉を返す。


「や、やあ。名波です。このK大学の物理学教室の准教授です。えーと、ちょっとそこのベンチに座ろうか」

 そう言って、周りから見通しにくい木の陰になるベンチに誘った。


 隣り合わせに座ると、翔は半身を向けて笑みを浮かべ言う。

「名波先生、僕を見て驚いたのではないですか?」


「ああ、もちろん驚いたよ。君の送って来た論文は我々のような研究者でもなかなか書けるものではないですからね」

 名波は、懸命に動悸を抑えて笑みを浮かべて返す。


「2年前から、メールでいろいろ教えていただいてありがとうございます。おかげで、物理学については、ある程度わかるようになりました」

「ある程度かな?あの論文はある程度わかる程度ではとても書けないと思うけど。君の年で、あの論文を書くというのは、はっきり言って信じられない。あれは、君が書いたの?」


「僕が書きました。先生の論文を読んで、完成していないのがわかりましたので、今まで勉強してきた成果からこういう方向かなということで書いてみたものです。たぶん、内容的には正しいと思いますが、まだ理論面でのみの話です」


「理論面だけとは?実用化も考えているの?」

「ええ、あれほど物は理論化で実用可能という方向を出すだけではもったいないですよ。ただ、そこの所はまだ僕だけで無理ですし、失礼ですが物理畑の名波先生でも無理で、工学の人に入ってもらわないと……」


 名波は驚いて、目は理知的に輝いているが、見た目は普通の少年の顔を見て反問する。

「君はあれを実用化できるというのかね?」


「ええ、出来ると思いますよ。そのために総合大学のK大学の名波先生に声をかけたのですから。名波先生の教室の笠松教授はお顔が広いようですから、工学部の先生方また場合によっては民間の会社に伝手はあるはずですよね。それに必要とあれば、国を巻き込むことだって出来るはずです」


「ええ!えらく用意周到だね。良く調べている」

「今はネットがありますし、国立大学は教員なんかの情報は公開していますからね。でも、僕がこのように他者に接触するのは名波先生が初めてです」

 翔は名波を目を覗き込むようにして話を続ける。


「僕は、自分でいうのもおかしいですが、客観的に言って、いわゆる天才ですね。

3歳の時にはほとんど読み書きは出来ましたし、4歳では英語での読み書きも不自由なかったです。ですからネットからの世界中の情報は既に集めていました。


 僕の父母は、共稼ぎで大変忙しかったので、今年の春まではお祖母ちゃんが、一緒に住んでいて面倒をみてくれたんですよ。でもお祖母ちゃんはがんで半年前に死んでしまって…………。ちょっと、医学は僕の守備範囲になくて助けられなかった。


 お祖母ちゃんは、当然僕の能力のことも知っていて、あまりに異常に見えるから隠すようにと言ってくれていました。でも、将来僕は世界の人々のために本当に役立つことができるから、今は一生懸命勉強して知識を蓄え、能力を磨くべきだと。

 そして、ある程度大きくなったら、世の中に僕のできることを公表して、できることを実現していくようにと」


 祖母のことを語るときは少し目が陰ったが、再度今度は名波の顔を見て言う。

「それで、先日10歳になったので、もういいかなと思って。

あ、父母は余り僕の能力のことを気が付いていないと思います。でも頼めばパソコンも買ってくれて、ネットも繋いでくれています。勉強は、ある程度はお祖母ちゃんが教えてくれたのですが、ほとんどはインターネットと図書館などの本ですね。


 でも、図書館の本は専門的なものは無くて、インターネットでも限界があって、ちょっと行き詰ってきたところです。

 最近は、物理学に少し集中していて、名波先生の研究室のHPは大変役に立ちました。それで、先日先生がアップした論文は、すごく発展性があると思って、ちょっと手を加えさせてもらいました。僕の書いたもの、どうでしたか?」


「すごいものだよ。僕の元の論文から大幅に進歩していて画期的!ノーベル賞にも値するクラスだと思う。

 私の論文は、まだ中途半端で学会などに発表できるものではなかったけれど、吉川君のものはすでに十分完成しているので、そのまま発表できる程度にまとまっているよ。ただ、君の特殊な条件もあって、いろんな調整が必要なようだね。

 それで、君の論文を僕の先生である、この学校の理学部長である笠松先生に見せて相談しようと思っているのだけど、君の論文をほかの人に見せていいかな?」


「もちろんです。それに先ほど言ったように工学部の先生方への紹介もお願いしたいのでその点はよろしくお願いします」

「ところで、今は学校の授業時間だと思うけど。そこはどうなの?」

 名波の問いに翔は俯いて言う。


「ちょっと、授業が苦痛なんです。教科書は学年の最初の3日ほどで読んでしまっているし、授業の内容は知ってることばかりで。同級生とも話も合わないし。そんなこともあって、ちょくちょくさぼっているんですよ。

 親も、学校から連絡があってもテストの成績はいいので満足しているようで、『あまりさぼるなよ』、しか言わないし」


「うーん、そうだろうね。わかった。すぐさっき言った笠松先生に相談してみるよ。その後また来てもらうことになると思うけど、連絡方法はスマホへのメールでいいかな?」


「そうしてください」

  その後、名波は水谷翔のプライベートな事項を含め、さまざまな情報を聞き出し、1時間ほどで別れた。


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